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「強いカルチャー」を作っているつもりが、むしろ「 脆いカルチャー」を生み出す構造について

Ch1.強いカルチャーの意義とは何か?

・強いカルチャーの意義を定義すると、「各事業の勝ちパターンとなる行動を特定し、行動ルーティン化することで、実行水準を上げ、業績向上に繋げること」である

・強さについて、①実行密度×②事業接続度の2つに分けて考えた時に、①の実行密度に注意が向きがちである

・つまり、「あの会社は強いカルチャーを持っているよね」が、「同じような行動規範・水準を持っている人が揃っているよね」を表しているということである

・一方で、②の事業接続度が低い場合は、「バリュー自滅」といえる現象が発生するので注意が必要である

Ch.2:「強いカルチャー」と「脆いカルチャー」

・近年、MVV概念などの隆盛により、「バリュー(行動規範)」を言語化することが良しとされる風潮にある

・ただし、言語化というのは「◯◯が正しい」を強く定義化していくものであり、ある意味では「事業や組織を滅ぼす呪縛」となりえる

・前述のように、強さ=①実行密度×②事業接続度の2つに分かれており、後者の事業接続度が低いorむしろ逆行する虞があるという話である

・抽象的な表現をすれば、「強いカルチャー」を作っているつもりが、「脆いカルチャー」を作っているということである

Ch.3:「私は私らしく」と人生の袋小路化

・組織論的な話よりも身近な例で、まずはこの現象を解説する

・皆様も今までの人生の中で、「私は私らしく生きる」と言いつつ、「え?その生き方、本当はあなたを不幸にしてはいないかい…?」という現象を見たことはないだろうか

・言語化や自己定義化というものは、「自分はこういう人間であるからこうする」という方向づけの原動力になる一方で、「そうではない自己」を許容できなくなるリスクも生み出す。

・「いやいや、別の生き方もあるよ」「その生き方によって、不幸になってる気がするよ」を指摘したとて、本人が「そう決めたから」となって聞く耳持たずとなってしまう

・最近、DeNA時代の先輩のしんめいPさんが「自分とか、ないから。」を出版されていたが、坂井も同意で「暫定自己」しか存在していないと思うし、その暫定自己も多元的かつ循環的なものなので、どんどん変わっていくのが自然だと思う。

・このように自己定義化には、「誓約によるエネルギー」と「制約による視野狭窄化」の両面が存在している、という性質をまずは抑えておく必要がある

・組織論で考えると、「レトリカルヒストリー」には有用性がある一方で、「自社の自滅神話」になってしまうかもしれないという話でもある

Ch.4:「強いカルチャー」と「バリュー自滅」

・「組織カルチャー論」の隆盛とは裏腹に、バリューの言語化によって「事業と組織拡大が停滞する現象」を度々観察している

・Ch1の定義に則ると、②の事業接続性とは関係のないor逆行するようなバリューを掲げてしまい、「自社の成長を阻害する」ということであり、これを「バリュー自滅」と坂井は読んでいる

・坂井自身、今まで様々な事業に携わる中で、「いやいや、この事業の勝ち筋となる行動はクリエイティブでなくて、データでしょ…」と思うときもあった

・なぜこの「バリュー自滅「が発生しているのか?と考えると、様々な要因があると思うが、3つくらいある

・解説すると、①バリューが事業合理性と関係なく設定されている(謎の他社憧れ等)、②すでに古くなっているものを踏襲している(前の事業フェーズ/市場攻略の時には合理的であったものが放置)、③負の側面を捉えられていない(抜擢人事をすればいい等)などが存在している

・「言語化」や「自己定義化」の威力は凄まじく、「そういうバリューに設定したでしょ」で封殺され、しまいには「カルチャーの濃度が下がる」という抽象的な感覚論で遮断されてしまう

・「カルチャーの密度が下がる」という発言を聞くたびに、なかなかの純血マルフォイだなと思っている。

Ch.5:「カルチャー」と「カルト」の境界線

・ビジョナリー・カンパニーにて、「カルト的なカルチャー」が称賛されたが、これはCh.1の①実行密度の話と捉えている

・また、「ビジョナリー・カンパニーで掲げられた企業が失速してるじゃないか!」という分析にあるように、本書の話をどこまで正しいと考えるか?は本当は考えるべき問いとも思う

・坂井個人としては、「カルト的なカルチャー」の光と闇る

・「カルチャー」と「カルト」の境界線については、「リスクの否認」=「排他性」と考えており、「私たちのやっていることは正しい」「よそ者には分からない」は、その死亡ルートを淡々となぞっていく

・「地獄への道は善意で舗装されている」というが、カルチャーと盲目的に合体した人々によって、「この組織カルチャーによって事業・組織が衰退していないか?」というような発言は、異教徒として扱われ、潰されるリスクがある

Ch6:「仮初モメンタム」と「ポジティブ潔癖症」

・本来的には、それらの意見を取り入れるための「心理的安全性」が、「ポジティブなことしか発言してはいけない」「(仮初)モメンタムを下げてはいけない」という「ポジティブ潔癖症」と合体し、むしろ建設的な意見を遮断するという皮肉が起きるときもある

・「うちのカルチャーは特殊だからね」という排他的なATフィールドによって、すべての意見は封殺され、自社の状況不適合になった「バリュー(行動指針)」を見直せなくなる、というのは、もはやカルチャーではなくカルトであるかもしれない

Ch.7:不毛な出自イデオロギーバトル

・スタートアップにおいて、近年観察している現象が「出自イデオロギーバトル」である

・特に、DX SaaS領域で発生しやすい領域であるが、異なる出自の経営陣や役員陣が名を連ねることから、この無駄なバトルが始まる

・登場人物は4名であり、①自分の腕っぷしで事業を拡大してきた経営者、②コーポレート観点を補強するために追加されたプロファーム出身のCXO、③被DX領域出身のドメインエキスパート、④メガベンチャー出身の役員が大体のパターンとなる

・何が起きるかというと、①~④それぞれが「自分の出自が最強」と思っているということである

・①「事業を伸ばしてきたのは自分である」、②「プロフェッショナリズムがあの人達には足りない」、③「あいつらはドメインを良く知らない」、④「私がいちばんバランス良く考えられている(そうでもない」という感じで、それぞれが部族主義に囚われて、イデオロギーバトルを繰り返す

・そもそも、前職の元◯◯を引きずり、「私がいた(エクセレントな会社の)◯◯社では~」と言っている出羽守はどうかと思う。

Ch.8:「持論はあるが、理論はない」

・上記を繰り返しつつ、「あの企業がやっている施策がいいらしいよ」等で、自らの前職/出自に近い企業の施策をパッチワーク的に模倣しようとするが、その企業も本当に上手くいっているか?なんて分からない

※これは大企業DXでもよくあるが、「上手くいっている風のブラフ」を模倣しない方がいい

・そして、マネジメント方針や基盤が整わずに、経営陣のポリシーがバラバラであり、現場のマネージャー陣以前に、経営陣の不仲問題が深刻化していく

・ただ、「持論はあるが、理論はない」ので、好き勝手、自分のマネジメントポリシーを話して終わる

⇒だから、理論を入れた方がいいと坂井は思っており、その事業を展開していますし、「組織課題に悩む時間が無駄」だと考えています。

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