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13. 三行塾が始まった

【今日の(早めの)独り言】
三行塾、一応有料講座のため、内容にはあまり詳しく触れず抽象的な部分もあります。
あくまで‟私の感想”として見ていただければ、これ幸いです。

 先日、近藤康太郎先生のライター講座を受講しました。オンラインで。

少し前に、自分のスキルや今後に悩んでいた時。焦って「新たな学びを吸収しなければ!」と、手当たり次第にいろんなサロンや講座を眺めていたんです。ちょうどその頃、Xで見かけた講座。
「良さそう!」と思い即ポチ。そのため、実はこの時はまだ、近藤先生の書籍に目を通したことはありませんでした。(ごめんなさい)

その後すぐ、『三行で撃つ』を購入。読んでみたらこれがもう面白くて面白くて。読み終わるのが勿体ないと感じるほど、学びや発見が多い本でした。

だから講座もすごく楽しみにしていたんです。
しかし、序盤で私はさっそく脳天を撃ち抜かれることとなります。バーン。

「文章とは転である」

近藤さんは、そう言いました。
なんなら、後ろにあったホワイトボードにも大きくそう書いてありました。

ここで言う『転』。もちろん、『起承転結』の『転』です。
しかし近藤さんの講座はライターさん向けの講座。
シナリオや小説、言わば『ストーリー』としての起承転結とは少し違った意味合いだということは、きちんと理解しつつお話を聞いていました。

だけど私、小説を書くにしても、シナリオを書くにしても、実は起承転結の『転』を書くのがものすごーーーーーく苦手なんです。
過去に執筆した小説も、転で行き詰って投げ捨てた作品は無数にありますし、転部分の展開(見せ方)が下手なため、クライアントに指摘されたシナリオも多々あります。それくらい苦手。

だから「あー早速痛いとこ突かれたーーー!!」と、講座開始直後から、身悶えるような気分になりました。

それからも近藤さんは、「なぜ転が大切か」。そのことについてお話をされていたんですが、内容を聞けば聞くほど、私はもう「ごもっともです」としか言えなくなっていったんです。

 ライターさんや編集者の方々にも、大切だと言われる『転』。『ストーリー』そのものを書く私にとっては、よりいっそう重要視しなければいけない部分のはずです。それなのにそれなのに!私は今の今まで『転』のことを、こんなにも深く考えたことはありませんでした。ごめん!転!

 講座が終わってからも私は、『転』についてひたすら考えました。ググりました。追及しまくりました。

そして、分からなくなりました。そもそも『転』てなんだろう、と。(おい)

【転とは】
・物語りのメイン
・盛り上がるシーン
・転機
・切り替わり
・場面展開
・視点展開

考えたり、ググったりして辿り着いた転の答え(ごく一部)。
そして出た、私なりの答え。それは
『転とは人生である』ということ。(大きく出た)

大袈裟に言いましたが、人の人生に転は付きものだ。そう思ったんです。

たとえば、転が『切り替わり』だとしましょう。
私たちは子供のころから必ず、成長するたび強制的に切り替わりの時期に直撃します。

小学校から中学校へと上がる時。学生から社会へと出る時。
まさに切り替わり時期。まぁ転機とも言えます。
人生には、強制的であっても、偶然であっても、誰しも必ず『転』の時期は訪れる。

ただただ平凡に生きたい。
そう願っていても、予期せぬ転機というのは、誰もが一度は体験することでしょう。
しかしその体験が、自分の人生のメインに残る記憶になったり、環境や付き合う人が変わるといった、場面展開を引き起こしたりもするはずです。

『そうか、転は人生だ。生や死をテーマとした、リアルな物語を紡ぎ出したいと思っている私とって、転こそ最優先すべきポイントだ』

今さらながら、そうハッとしました。

近藤さんが言いたかったことと、私のこの考えは少しズレがあるかもしれません。だけど私は講座を通して、今まで目を背けていた自身の重要課題に気がつくことができたんです。

 正直、シナリオライターの私が受講をしても、ついていけるだろうか。身になるだろうか。
そんな不安もありましたが、第1回目からすでに、大きな気づきと発見をたくさんいただきました。

「文章とは転である」と仰った近藤さんのお言葉を、「そうか!転とは人生だ!」と勝手に変換した私は、もしかすると近藤さんにこてんぱに怒られるかもしれません。しかし、講座を通して学んだことをひたすら噛み砕いて咀嚼して、考えて考えて考え抜いた先に「誰にも書けない文章を書けるわたし」が誕生するのかなと、今はそのように思うんです。

残り2回の講座も、さまざまな視点から近藤さんのお言葉を掴み取っていこうと思います。




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