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家族の歴史を振り返ると、戦争なんてなくなってほしいとより切実に思う【家族がなくなった話24】

母が亡くなり、その4年後に父が亡くなって、私の属していた家族がなくなるまでのお話。
終戦の日にちなんで戦争の記憶について。


今年も「終戦の日」が来た。
だからと言って今まで何か思ったこともない。
高校球児が黙祷を捧げるのを見て「今日は終戦の日だったかー」と思うぐらいで、仕事を始めてからはそれすらなくなっていた。

それが、少し変わった。
家族のいろいろを片付けることを通して、言い方はおかしいけど戦争が少しだけ「身近」になった。

祖父母の墓の墓じまいについては以前に書いた。

墓じまいする時に墓碑を確認すると、そこには曽祖父母、祖父母、大叔母の5人分の名前があった。
亡くなった日がいちばん古いのは昭和20年1月。大叔母が亡くなった日だ。

大叔母が女子勤労挺身隊で働きに行っていた先の工場で空襲に遭い、そこで亡くなったことは子供の頃から知っていた。
母の「自分の名前は戦争で亡くなった叔母さんの代わりという意味で付けられた」という語りの前振りとして聞かされていた。

母はおばあちゃん子で、祖母(私基点だと曽祖母)にかわいがられていたらしい。
曽祖母は、娘が亡くなった2年後に生まれた孫に自分の娘を重ねて見ていたのかもしれない。

墓の建立は昭和32年なので、大叔母が亡くなった時にはお墓はまだなかったことになる。
実際に遺骨はお墓に入っていたんだろうか。

入っていたとしたら、大叔母の遺体は誰かが運んでくれたのか。それとも知らせを受けて家族が引取りに行ったのか。

どちらにしても、昨日まで普通に暮らしていた娘の変わり果てた姿を見ることになった時のやり切れなさはいかばかりだっただろう。

親としては、せめてお墓は一緒に入りたかったと思う。

大叔母の遺骨がお墓に納められていたのかは、墓じまいの時もわからなかった。
その時の空襲で亡くなった人の遺骨が納められた供養塔もあるけど、そこではなく、家族のお墓に入っていたのだと思いたい。

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