見出し画像

明石城を訪ねる (PENTAX K-70 / smc PENTAX-DA21mmF3.2 Limited)

外出自粛の風潮があれど、別に蔓延しそうな場所に行くんじゃなけりゃいいじゃない、ということで、城でも見に行こうかとなるわけですよ。
で、何度も電車から眺めてるけど、行ったことはなかった明石城あたりが手軽だな、と、ちょいと出かけてきました。

画像1

 駅から降りたら雨降ってたので、ちょっと商店街でも覗いてみるかと。
 なんか異常に多数の魚屋があり、そしてやたらと多数の明石焼き屋がある謎の商店街だった。偏りすぎとらん……?

画像2

 ピーナッツくんの亜種か。


画像3

 明石にはもともと船上城というのがあって、高山右近の城だった。
 築城したか、もともとあった林ノ城というのを改築したかが定かでないらしいけど、ともあれ高山右近が高槻から明石に移封されて城とまちづくりをした。
 が、バテレン追放令が出ちゃって、コテコテのキリシタン大名だった右近は船上城を取り上げられてしまった。

 その後、江戸時代に入って明石藩の立藩に合わせて、藩主として明石に入った小笠原忠真が船上城に入った。
 そして小笠原忠真は、船上城をバラして建築資材にして、明石城を建てた。

 ところで、「明石城巡り」という案内アプリがあって、スタンプラリー的にGPSを使いながら見どころをチェックできた。なかなか便利だったからおすすめ。


画像4

 正門入ってすぐ右、武蔵の庭園と称する庭園があって、なかなかきれいに整備されている。
 武蔵ってのは宮本武蔵のことで、あれは剣術家でもあるけれど、明石にあっては庭造りとか、城下町の町割りとかをやっていた。多才というか、どこでそんな知識身につけたんだろう。(なお武蔵が作った庭園の場所は、この庭園とは場所が違うらしい)

画像5

 明石城って、なんだかいい感じの大きな樹木がよく見られる。
 城だった頃から植えられてたのか、あるいは公園になってからだとしても、明治時代からある公園だ。
 明治の頃、皇太子の明石離宮にされかけたけど、明治天皇の崩御で皇太子が即位することになって話が流れたことがあるそうな。

画像6

 日時計。すごいデザインや。

画像7

 かなり堂々と建っている三層の櫓。こっちは本丸南東角の巽櫓。
 たかが櫓というなかれで、当時のものが現存している三層櫓は日本で12箇所しかないそう。

 巽櫓は、先述のようにバラして資材にされた船上城の、天守あるいは櫓が移築されたものだとか。
 一国一城令以後に建った城、例えば彦根城とかもそうだけど、けっこう周囲の城からあれこれかっぱらって寄せ集めて作ってたりする。
 船上城以外にも、三木城も使われてるらしいし、細川忠興が中津城の天守を贈ったという書状もあるとか。

画像8

 一つ前の写真、巽櫓に向かって右側のあたり、いかにも階段でもありそうな形してるんだけど、あそこ空堀になってて登れないの。
 この幅が広い階段は、いかにも巽櫓へまっすぐ上がれそうに見えるんだけども、上がったら細い通路が東西に走ってるだけ。端まで回らなきゃ進めない。
 戦後の城といっても、ちゃんと攻めるのがめんどくさい縄張りにはなってるのだなあ。

画像9

 石垣に、なにやらマークが彫ってあるのがある。
 多分、工事に参加したり石材を供出したのが誰かわかるようにつけてたものかと思う。和歌山城だとどれが誰かある程度調べられてたと記憶してるけど、明石城じゃあまり情報がないらしい。

画像10

 巽櫓を東側の二の丸から。空堀で本丸と二の丸が隔てられてるのはこの写真で伝わろうか。

画像11

 そっくりの形だけれど、こっちは本丸南西側の坤櫓。巽櫓よりすこし大きい。
 櫓の中も、コロナウィルスの影響で観覧停止になってたけど、普段は入れたみたい。

 こっちも当時のものが現存していて、木幡山伏見城から移築したとの話。というか、巽櫓と違う城から移してるのにこうも形が似てるのも妙だから、バラした櫓を資材として再設計して建て直したのかな。
 伏見城も、関ケ原の時に焼き払われてから家康が再建、でも二条城があるのに一国一城令を無視してふたつ維持してるのも……とすぐ廃城になってる。つまりわりと新しい建物があっただろうから、流用にはちょうどよさそうだ。時期的にもちょうど、伏見城解体と明石城作事が合うし。

画像12

 坤櫓のすぐ近く、けっこう立派な天守を建てられそうな天守台がある。
 が、明石城は江戸時代に入ってからの城ってこともあって、わざわざ天守までは建てなかったそう。そのかわり、本丸四隅にきっちり櫓を四つ建てていた。

 天守台にもいい感じの木が立っていた。

 ほか、北西の艮櫓、北東の乾櫓(なぜか明石城巡りアプリでは南西だと誤記されてるが、南西には現存の坤櫓がある)がかつて存在したけど、明治に入ってすぐに小学校を建てるために解体され、資材にされてしまった。

画像13

 どうも縄張りというのは写真に撮って表現するのが難しいのだけど、本丸があって、空堀で区切られて東側に二の丸、さらに東に東の丸。南側の公園エリアは三の丸。
 本丸西側にある稲荷廓という小さめの廓からの坤櫓。左手にちょっと見えてるのが天守台の石垣。

画像14

 ふたつの櫓を一線につなぐ白壁が、かなりの長さ。
(最初「壁の長さが380m」と書いてたけど、380mは本丸~二の丸~東の丸までの石垣の長さだった。壁は150mくらいか?)。

 けっこう本丸は高いところになってるんだけど、城主の居館も本丸にあったからいつもこの程度は登ってたようだ。居館は二の丸にあることが多い気がするんだけどな。
 居館も3階建てで、長谷川等仁の花鳥山水図が襖絵にされていた。今は愛媛県美術館にある。


画像15

 場内にはスポーツ施設とかが多数ある他、顕彰碑や記念碑などもいくつか見られた。(公園の規模が巨大な割には少なめかも)

 明石空襲の碑、というのがあって、大戦中の明石への空襲を記録していた。昭和20年6月9日、明石公園に3度に渡る空襲があって、公園で269名、近隣でも373名の死者が出た。明石市の総計で1596名の死者があった。

 さらに、阪神淡路大震災で、4トンもあるこの碑が、5cmほど北東へ移動した。明石では北東の方に地盤自体がズレたとの話で、その話もこの碑に記録されていた。


 それで、「明石城巡り」アプリなのだけど、今は失われた櫓とかをARで再現する写真が撮れる、っていう機能がある。
 GPSでその場所まで行って、AR撮影をしていくことでポイントがチェックされていって、チェックしていくことでさらに、明石城ゆかりの宮本武蔵や小笠原忠真、松平直明(明石藩八代藩主で、タバコ栽培の奨励などを行った)の肖像画と記念撮影ができる機能がアンロックされる。

画像16

 はい、そのAR写真がこちらです。
 なんちゅうかその、単にカメラ映像にCG静止画の櫓とかの画像がオーバーラップさせるだけで……。超プリミティブなスタイルのARだ。
 カメラのファインダーに「見本のように位置を合わせて撮影してください」ってガイドが出るんだけど、見本も小さくって、どこからどっち向きに撮るのが正しいのかさっぱりわからんかったりも。
 それと、なぜかカメラを横にできなかったな。

画像17

 さらに、アンロックされた宮本武蔵との記念撮影がこちらです。
 なんと武蔵のポジションは移動可能!

 武蔵と撮影するには、武蔵の居る場所に近づく必要があるから、撮れる場所はごく一部に限られる。そこから、武蔵や小笠原忠真、松平直明が映える場所を探さねばならない……と。なかなか難題だ……。


 ARカメラに関してはちょっと素朴だけど、アプリ自体は見どころチェックに役立つし、周遊モデルルートも歩行距離に応じて選べる、クイズなんかも出題されたりと、かなりいい感じ。
 ARカメラはともかく、明石城に来るなら落としておこう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?