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犠牲の規模が凄まじい優しさ

家の中に蜘蛛の子どもがいる話をしましょう。虫が苦手な方は観るべきではない。ヘッダ画像をお借りしています。

蜘蛛は虫ではないのですが、虫みたいな嫌われ方をする。虫よりも足が多いから余計嫌われるのでしょう。蜘蛛について思いを馳せると、なぜかコンビニみたいにフル営業している西友の駐車場について思い出してしまう。しかしながらそれに理由などなかった。あの白線の削れ方が蜘蛛を思い起こさせるのだろうか。あるいはエガちゃんねるの胸部が巨大な女の人がえがちゃんのお車を運転して温泉で混浴しに行くやーつの温泉の駐車場が西友に激似だったから思い出したのだろうか?

蜘蛛の子どもとはおそらくアダンソンはえとり蜘蛛の子どもだと思われる。

蜘蛛についてのステレオタイプといいますか一般的なイメージが間違ってないのであれば、蜘蛛の子とは生まれ方がえぐい。つまり母さんの背中でぶわーっと卵が孵って、いきなり世界に生まれて植えないように母さんの体を食って大きくなるというものです。

ぼくの身の回りにいる蜘蛛の子たちがそのような生まれ方をしたのかどうかはわからないが、ぼくがそれまで見ていた大人蜘蛛が母さんなんだったとしたら彼女の大きさは手を広げてもようやく1cmを越えるかどうかというものでした。

最近ぼくが見かける蜘蛛の子たちは大きさにして1mmあるかないか。横幅でいえば確実に1mmはないのだが、その程度の大きさでさえ育つのにそれなりの食べ物を要したのではないだろうか。それが母さんの体という蛋白質だったのだろうか。蜘蛛の母さんは身を挺して自分の子らをある程度の大きさにさせるために身を投げ出すのだとしたら?それがなかったらとても大量の卵があろうと即座に全滅してしまうほどの大きさにしかならないのだとしたら?それは優しさなのではないだろうか。あまりに犠牲の規模が凄まじい優しさである。

斯くして、ぼくの家ではその構図がまんま当てはまったのか―――――大きな蜘蛛を見かけなくなってしまった。その代わりこのことに気づいたから書いているんだけど、天井からゆっくりとかつて大きな蜘蛛が見せたように糸を伝ってぼくの手元に恐ろしく小さな蜘蛛が落ちてくるようになった。

また彼女/彼らは洗面所の水場にも居るようになった。いくらなんでも水流に流れたら一発だと思うので助けてやりたいんだけど、助けたらその生命をやってしまうんじゃないかと思えるほど小さく、水場から離れるように仕向けることしかできない。

想像が正しいのならばたくさん繁殖してくれているんだろうから、何人か生き残ってくれと思う。水場は危険だと学ぶ余地を周囲に残してから逝けただろうか。

他の生き物の蛋白質が意図せずとも残る場所とかが蜘蛛にとって都合がいいのであれば、巨大な生き物がいる場所とは常に彼らの老廃物とともにあるため共生は自然なことであるように思う。細胞が常に入れ替わる生き物は普通に生きているだけでそのへんに細胞なり角質なりを撒き散らしてい、多分蜘蛛はそれぐらい食えるはずですね。

あんま嬉しい人はいないだろうけど、願わくばそのへんの家庭が蜘蛛にとって住みやすい場所であり続けますよう。

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