自分の頭で考る?

前回:学校より協調性を育むのに優れた場所

1. 学校

1-8. 自分の頭で考る?

自分の頭で考える、ってどういうことだろう。

例えば、宿題の1つに九九があって、君は7の段が思い出せずググって答えを書いた。これはどうだろう。たぶんほとんどの人が、それは自分の頭で考えたことではないと言うんじゃないだろうか。

じゃあ次。宿題で、カブトムシの一生についてまとめてきなさいなんて言われたとする。君はググって、卵から幼虫になり、蛹になって、成虫になり、有性生殖をして卵が生まれてなんてことを知り、書いたとする。これはどうだろう。自分の頭で考えている、と認める人もいるかもしれない。けれど俺はこれも自分の頭で考えてるとは認めたくない。

俺が思うに自分の頭で考えるってことは疑うこと、あるいは信じないことと関係している。どういうことかっていうと、先生や親から「床が汚いから雑巾で水拭きしておいて」なんて言われたときに、ただそのまま言われたことを忠実にこなしてたんじゃ自分の頭で考えてるとは言えないってことだ。それくらい近いうちにロボットだってできる。

同じことを言われたときに、「本当に水拭きが適切だろうか」とか「雑巾より良い道具があるんじゃないか」とか、「そもそも本当に掃除すべき程度に汚れてるか」なんて、言われたことを疑い、問い始める。それが自分の頭で考えるってことだ。

こういう疑い、問いを持つ態度は批判的って呼ばれている。批判っていうと一般的にはどうしてもネガティブな意味にとられがちだけど、感情的な反対は非難や否定と呼ばれるべきものだ。批判は色んな立場から物事を見てみて、疑い、問い、答えては問いを進める、つまり考えていくことなんだ。

批判の精神を持つと、少し生きづらくなるかもしれない。それは、組織に所属しているときだ。組織が権力によって支配されていたり、組織の規模がとても大きくて効率が最優先されているような組織では、批判精神を持った人は嫌がられる。だってさっきの「そもそも本当に掃除すべき程度に汚れてるか」なんて小学生が言い始めたらほとんどの先生は嫌がるだろうし怒るかもしれない。

もしそんな組織に自分が所属していることに気づいたら、すぐに辞めてしまえばいいよ。そういう人たちに囚われる必要は一切ないんだ。なにより俺が恐いのは、せっかく育んだ君の批判精神が枯れていくことだ。

人間っていうか生物ってのはすごいもんで、ある程度時間が経つとたいていの環境には適応していくものなんだ。この自然の力に対抗するのは至難の技だ。

だから、批判精神が枯れていくリスクに気づいたら、すぐにそれを自分で守らなくちゃだめだ。なんで俺がこんなに批判精神の肩を持つかっていうと、批判は教養や自由ってものと結びつく、とても大切なことだからだ。これはまた後で話していこう。


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