「子そだて」がクリエイティブに教えてくれたこと。
4月に子どもが小学校に入学。
これまでの6年間、個人事業でデザインの仕事を続けつつ、子育てをどうにか乗り切ってきました〜。
今までは、余裕がなく、子育てに関して、自分の中で言語化してきませんでした。
子供が授かったことで、それまで見えていなかったことが見えるようになったと感じています。今日は意を決して、それをざっくりとですが書いていきたいと思います。
人になってく人。親になってく人。
人になっていく。
生まれたばかりのときは宇宙人のような存在だったが、今ではそうと思えないような人間っぷりだ。
私も、子供が生まれる前と後では、違う人間のようです。
デザイン事務所で修行した後、独立。6年目の時期に子供を授かりました。私は割とドライなところがあり、子供が生まれる前は、会ってみないと、人と人だし気が合うかなんてわからないなぁと、本気で思っていました。(今もそう思う)
そんでもって出産。(色々大変だったけど割愛。)
会ってみたら、その存在感に、圧倒された。
しっとり重くて、熱を持ってて、ふにゃふにゃで、どこをみているかわからない瞳。
言葉にできない感覚で、それをなんとか言葉にしたら「生まれてきてくれてありがとう」と言っている自分がいました。
初めから決まったことのように、泣いたり飲んだり、排泄したり。手を伸ばしてあたりを触り、だんだんと目の焦点が定まってくる。生きていきていく姿に、次第に魅了されていきました。
寝たままが、もぞもぞとしながら、
ついには歩いて、「あーあー」とか「なんなん」とかの発声が、何か特定のものを持った時に「たんたく」と言ったり「たった」と言ったりする具合に、何かを示すようになり、二語文になり、しばらくすると、私が差した指が、その先にあるものを意味してると理解するようになり、…今やはっきりと自分のかんがえを話すようになった。
ここまでの一連の流れだけでも、大変興味深くて刺激的でそして大変可愛らしかった。
そして子供の作るものの変化も面白い。
興味が余って、私は娘が描いたものを0歳から今までほとんど捨てずに保管しています。
子育てと仕事
とはいえはっきり言って子育てによる消耗は半端ない。
まずもって、思い通りに動けることはなく、仕事面では厳しい場面もありました。
一番わかりやすいハードルは保育園に入れるかどうか。
今は分かりませんが、6年前の考え方は、なるべくふるいにかけて、落とす向きが強く、個人事業主には(育休という制度がないので)厳しい制度だったように思います。
区に問い合わせると、提出までに仕事をしてお金が振り込まれている実績が必要、とのことだったので、出産1ヶ月後くらいに無理やり復帰して、どうにかその要件を満たしました。
デザインはずっとやってきた、大好きは仕事で、やめるなんて選択肢はなかったけれど、調べるほどに続けるなというメッセージを感じてしまい、心が暗くなったことを覚えています。今はどうなんだろ。
当然ながら子育ては24時間年中無休。
・低月齢時:まぢ寝れない。今日が昨日か明日なのかわからなくなる。
・それ以降:なんだかずっとイヤイヤ期。
・ご機嫌時:今ヘトヘトになるまで遊んだ→少し休憩、その間に少し自分のことを進めよう、→「あそぼー」→あれ既視感…→遊ぶ→以下ループ…
・不機嫌時:自分で髪の毛結ぶ!と主張→うまくできない→ママのせい!→泣く→遅刻→泣く→…
外に出たら出たで、ぐずると知らない人から要らない言葉を投げかけられてしまう、なんてこともありました。
世間は、私が子供の頃より、はるかに寛容性を失っているようです。(東京だけ?)
そしてそして……
時折現れるどうしようもない罪悪感。
仕事をしてても罪悪感、面倒見てても罪悪感。仕事や子育てをちゃんとできてるか常に罪悪感を感じていました。
私だけだろうか。
デザイン事務所での修行してたので、寝れない、トライアンドエラーなどには慣れていた身ですが、こちらは全く別の精神修行でした。
そんな時、保育園の先生は猫の額メンタルな私にいつも心強い言葉をくれました。
それは親は子供を愛して良いのだ、
ということだった思う。
保育園の先生方は、子供に対する考え方と、専門性がすばらしい方が多かったです。本当にもっと良い待遇になっていってほしいと心から思います。
街で通りかかった人から声をかけられて、救われた気持ちになったこともありました。
…そして私は、初めて、
人間の優しさというものを、
知っていったような気がします。
これらは、それまで私がいた、理性的で、体が自由に動く、大人同士の世界では得られなかった、感覚かもしれません。
子供自身の魅力と、
毎日繰り返し向かい合った時間、
家族での分担、
保育園の先生など周りの支えや理解、
そして休息。
これらの要素があり、5万時間を超える時を経て、なんとかここまで来ました。
みんな子供だった
ここまで辿り着いて思うことは、
自分もまた、このように親やその他の人を手こずらせながら生きてきた、ということ。
子供の頃、泣いて騒いで、遊んじゃいけない方法で遊んで、失敗して、
それでも許容されおおきくなる。
多かれ少なかれ、ほぼ全員がこの過程を経ている。
どの人も、この神秘的な過程を経て今生きてると思うと、ぐっとくる。
私は特にハートフルな人間ではないけれど、普通にそう思うに至りました。
子育てを通して、先人たちみんな、こんなに大変なことをしてたんだ、と目が覚めたような気分です。
この膨大な根気のいる役割を果たしてる人は(たとえ親という立場じゃなくても)、ヒーローなんじゃないかと思ったりしています。
「子そだて」がクリエイティブに教えてくれたこと
子ども、って、
社会的な規範を基準にしてしまうと、
「正しい社会人」にとっては迷惑とされる
逸脱した行為をする存在ではある。
乗り物に乗る時にはもたつくし、ふらふら歩くし。楽しくしすぎる。
大人の思う通りには全く行かないし合理性は通用しない。
それであれしちゃダメこれしちゃダメと、規制を強めたくなる。
でも、そのコントロール不可能な存在が、
その逸脱した性質ゆえに、この瞬間、
社会に対して、明るい影響を与えている。
その連鎖があることで人類が今のところ継続している。
当たり前かもしれないけれど
私はこのことを、
リアリティと喜怒哀楽と、長い時間とを
体験して、理解することができました。
これは私にとってはとても大きな発見で、無力で無鉄砲と思われている(一般的には)存在が、いるだけで、世界への視野がひらけてきます。
子供自身の思いもよらない考えや面白い発言や、つくるものはもちろん、子供の視点になると、東京に手で触れる自然がないことや、
どんな時に弾ける表情を見せて、どんな時に不安が強くなるのか。
少しずつわかってきました。
子供を授かるまでは、
このような感受性がなく、
クリエイティブで自分が研究してきたような、
ある種抽象的な部分に没頭し、
大人だけの世界で生きてきたんだなと言うことを改めて思います。
こういったリアルな熱を持った気づきを持ったことは、私がアート活動を始めたことに直結しています。
世界の視野が広がったような気がしています。
このコントロール不可能な、
自分ではない存在、と過ごせていることは、私がものを考え、作る仕事をする上で、何にも変え難いものになっていると思います。
これからもたくさん子供と遊びたい。
子育てで得た気づきを、少しずつ、
デザイン的にもアート的にも
形にしていきたいと思います。
子供向けの、デザインのワークショップなんかも、していきたいなと思っています。
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