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『普通』の生き方。

皆さんは「普通」に対してどんなイメージをお持ちでしょうか?
平凡、ノーマル、普通、害なし..etc 

「普通」というとどちらかといえばネガティブな響きのある言葉ですが、とある辞書を引いたところ「普遍的に通ずること」とありました。

この意味で私は「普通」という言葉が昔から好きです。

我々人類(ホモ類)が登場して600万年、700万年とも言われますが、とてつもないスピードで進化し、発展し、文化や知恵を後世に紡ぎながら今の世を築いてきました。

100年ほど前まで50歳程度だった寿命は100歳まで延び、食べ物もさほど苦労せずとも簡単に手に入れることができます。
人が移動できる距離も大幅に延び、私達の今生きている時代はかつてないほど格安に早く、遠くにいくことができます。

しかしながら、物事には必ずトレード・オフ(目的に向けて、一方を立てれば他方がまずくなるといった、二つの仕方・在り方の間の関係)があります。

寿命は伸びましたが、その分生きるのにかかる費用が増え、資産の有無による経済格差は拡がります。
更に、国の社会保障費も増えるため若年層の負担が増える一方、老年期に向けた資産形成のために支出を減らしていくと経済が回らなくなり、収入が増えていかないという悪循環も起こります。

重労働がなく、歩いて移動しなくても食べ物がすぐに手に入る環境では身体機能が衰え、文明病と言われる生活習慣病や認知症、腰痛や骨粗鬆症などの運動器障害も増加し、生活の質を落としています。

まさに今現在、猛威を奮っている新型コロナウイルスなどの感染症はグローバルな移動が容易になったことで国境をいとも簡単に超えて拡がり、その影響は特に医療や経済水準の低い発展途上国にとって大きく、甚大な被害を及ぼしています。
過去も今も人類の命を最も多く奪ってきたのは感染症です。

このように物事には必ずトレード・オフがありますが、一度その便利さを経験してしまうと、そのデメリットを覆い隠してしまい、それを手放すことはとても難しいと思います。

スマートフォンが登場し、誰でも手のひらで世界といつでもどこでも繋がることができ、多くの情報を扱うことが可能となりましたが、それがどれだけ私達の注意や時間を奪い、微細な感覚鈍らせているのか、私たちはそれに気づくことができません。

手のひらの上で明日の天気を知ることはできるようになりましたが、細かな気圧の変化や風の向きを感じたり、雲の動きや他の動物の行動を読み取る能力は確実に落ちています。

現代に生きる私達と約20-30万年前に誕生したホモサピエンスの身体構造はほぼ同様であり、大幅なアップデートはされていないと言われています。

つまり、アフリカの荒野を裸足で駆け回っていたヒトとアスファルトで舗装された道で靴を履いて、車を運転する私達と身体構造に変わりなく、大きく変わったのは環境だけなのです。

病院で運動器障害抱える人の生活を辿っていくと、そこには「きちんと歩けない、歩かない」ことによる身体機能の低下が隠れていることを多く経験します。

私達は朝起きれば活動的になり、ご飯を食べれば眠くなります。
不安やストレスに晒されれば身体は緊張し、こわばり、消化は悪くなります。

蛇や虫を気持ち悪いと感じ、人の痛みに共感し、痛いエピソードにはゾワッと鳥肌がたちます。
触れられば安心し、信頼し、愛情を育むことができます。

あたりまえですが、どんな時代に生まれ、育っても私達は「ヒト」であり、動物であり、生物であり、それは「普遍」なのです。

今は身体だけの話をしましたが、それはこれまで受け継がれてきたミーム(生物学者リチャード・ドーキンスが名付けた技術や文化の遺伝子)にもこのような「普遍性」はあると思います。

どんな時代にあっても、変わらない「普遍性」を見つけながら、自分が生きる環境に合わせて、身体や心への負担(ストレス)を減らしながら、自分らしく健康に生きることが私の考える「普通=普遍的に通じる」に生き方であり、私の目指すところです。

私のペンネームである「ふつうびと」にはこうした願いが込められています。

しかし、先に述べたように、手軽な「便利」さで誤魔化され、多くの情報を目にすることで人と自分を比べてしまい、「いいね」の評価によって価値が決まってしまうように錯覚させられる現代の世では「普通」に、自分らしくいることすらとても難しく感じます。

NHKのプロフェッショナル仕事の流儀でブランドプロディーサーの柴田陽子さんを特集した回を見たとき、柴田さんが「陽の当たる道の真ん中を堂々と歩む」という仕事のスタンスについて語っていました。

これは「当たり前のことの当たり前に、誤魔化さず、堂々と行う」ということであり、時代、環境、立場などなど様々な変化がある中で「普遍性=真ん中」を保ちながらも「堂々と=自分らしく、個性的に」に生きることだと解釈しました。

道の真ん中を歩くということは、常に真ん中にいるのではなく、絶えずバランスを取りながら、真ん中にあり続けるということであり、それは変化を取り込みながら「自分の真ん中=自分らしさ」を保つことでもあると思います。

地球上に立つヒトの体も同様、常に重心を真ん中に保つように絶えずバランスを取ることでエネルギーを最小限に安定し、活動することができます。儒教の中心的倫理には「中庸:極端な行き方をせず穏当なこと、片寄らず中正なこと」があります。極端に偏ることは確かに目立つし、個性的で刺激的かもしれませんが、その分不安定なため、リスクが大きく、バランスを取るには大きな力が必要になります。

「ヒト」として受け継がれてきた変わらない「普遍性」を土台として、自分の生きる時代や環境によって変わっていく「普遍性」の道を見つけ、その真中を堂々と(自分らしく)歩むことができれば、それはとても地に足のついた安定した生き方ではないでしょうか。

当たり前のことを当たり前にできるという「普通」の幸せは現代ではとても貴重で価値のある生き方のように思えますが、それは決して難しいことではなく、これまできちんと受け継がれてきた知恵や文化、そして自身のこの身体の中にきちんと答えがあると思います。

今はホコリに覆われて見えてないかもしれませんが、これからそのホコリを1つ1つ祓うようにお話ししていければと思います。

最後までお読みいただきありがとうございました。


身体の普遍性を読み解くためのおすすめの1冊


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