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本を読むこと ~ 何もしないという哲学 ~

真っ白い表紙に一言「何もしない」と書いてある本があります。
吸い寄せられるようにその本の前に立ち、手にとった最初のページはこの一言ではじまります。

「何もしないでいることほど難しいことはない」

「ん?そうか?」と一瞬考えてみましたが、つぎに続く文でその言葉の本質がわかります。

人間の価値が生産性で決まる世界に生きる私たちの多くが、日々利用するテクノロジーによって自分の時間が一分一秒に至るまで換金可能な資源として捕獲され、最適化され占有されていることに気づいている
本書「はじめに」より

私がこうしてPCに向かって文を打っている時間も同様です。
トイレに行ってもスマホを片手にSNSをチェックし、ちょっとした時間の隙間があれば私たちはテクノロジーの力を借りて何かを生産しようとします。

それは数値的評価に基づいた個人ブランドの構築だったり、欲求を満たすことだったり、私たちは知らず知らずのうちに本能的な欲求を刺激され、私たちの「時間」や「注意」は「注意経済:アテンション・エコノミー」として搾取され、利用されています。

ジョニー・オデル著書「何もしない:HOW TO DO NOTING」はそんな私たちの価値を生産性から取り戻し、注意と時間を奪う「注意経済」に対抗する術「何もしない」ことの実践的哲学の書になります。

今回はこちらの本のエッセンスをご紹介しながら、「何もしない」ことについて考えていきたいと思います。

本書を紹介するのにnoteに「書いている」という矛盾の指摘はご容赦ください。

記憶をたどってよく考えてください。ご自分で何を失っているか気づかぬままに、いかに多くの人間があなたの人生を奪っていったのか。
無益な悲しみ、愚かな喜び、尽きせぬ欲望、社交の誘惑にどれだけのものが奪われ、その挙句あなたには人生の時間がほとんど残されていないということを。
セネカ「生の短さについて」より引用

「何もない」ということ

私たちは無用の言葉によって、さらには途轍もない量の言葉と映像によって責めさいなまれている。(中略)今求められているのは言うべきことが何もないという喜び、そして何も言わずにすませる権利なのだ。これこそ、少しはノベルに値する、もともと稀な、あるいは稀になったものが形成されるための条件なのだから
ジル・ドゥルーズ「記号と事件 1972-1990年の対話」より

ドゥルーズが記した、「何もない」すなわち「何も言わずにすませること」はここでは何か言うべきことに到達する準備段階として機能しています。

つまり「何もない」とは贅沢品でも時間の浪費でもなく、意味のある思考と発話に欠かせない一部なのです。

それは「注意」を自分自身に向けて、自分の幸福や自分の生きている環境に対して自分が果たす役割や責任について「気づく」ことに繋がります。

このような「気づき」は慣れ親しんだ領域からの「離脱」であり、そのような状況を伴う場所は時間は「隠遁:リトリート」であり、日常生活の視点に影響を与えます。

ここでいう「慣れ親しんだ環境」とは現代においては世界に常時接続された環境であり、このような環境では言語化できないものは過剰であったり、互換性のないものとしてみなされてしまいますが、対面でのコミュニケーションにおいては非言語的表現や共感によって自分の「身体性」に気づくことができます。

つまり、常時接続された慣れ親しんだ環境におけるSNSを介したコミュニケーションは言語化できないもの、体系化された記号で表せないものを人間が識別できるようにする感覚が崩壊してしまい、身体性を失うことに繋がります。

昨今の学生アルバイトや新卒社員は「電話対応」や「対面でのコミュニケーション」が非常に苦手だということも耳にします。

これはまさにコミュニケーションにおける「身体性」を失っている状態を示しており、身体性を取り戻すためにも「何もない」ことは有効に働きます。

このように「何もない」の実践は私たちヒトの身体性と動物性の維持とケア、自立共生のための空間と時間を守ることに繋がるのです。

「何もない」は難しい

冒頭に文章に戻ります。
いま目の前にあるスマートフォンや他の電化製品の電源を切り、目の前から遠ざけたとき、あなたの身体はどんな反応を示すでしょうか。

心拍数は上がり、少し冷や汗をかき、軽い不安が襲ってくるのではないでしょうか?

少なくとも私はいまそのような状態を想像しただけで、上記のような状態になりました。

もはやそれぐらいデバイスは私たちの生活に入り込み、欠かせないものになっています。

そして「デジタル・デトックス」のようなリトリートはパッケージ化され、商品化されており、それが売れるのだから現代において、それはとても難しいことなのだと気づきます。

先日も家族でキャンプに行きましたが、キャンプ場までの道のりはスマホのマップ機能を使い、雨雲をみながら、時間を調整しました。

当たり前のようにキャンプ場では電源が使え、スマホを充電でき、目の前の自然とスマホの画面を行ったりきたりしながら、食事の写真をSNSにあげて、ともに行った家族とその場で写真交換をします。

音楽はストリーミングサービスを利用し、Bluetoothで繋いだスピーカーで流します。

職場からのLINEや電話で中座することもしばしばありました。

たしかに便利だし、面倒も荷物も少ないです。

しかし、私が20年前に行ったキャンプは違いました。
携帯の電波は届かず、充電もできないため、携帯の電源を落としかばんにしまいました。

目の前の人との会話を楽しみ、目の前の食事や自然を味わい、野鳥のさえずりや川のせせらぎの音に耳をすませ、朝は鳥の声で起こされます。

このときは「何もない」ことの幸せを感じていたはずなのに、いつの間にか「何もない」は私たちの前から遠ざかっていき、手に入れることがとても難しいものになってしまいました。

しかしながら「何もしない」の実践が「やるか・やらないか」の二項対立ではなく「どうのように、どうやって」と問いかけるところから始まります。

生きる時代は自分で選べないにしても、今まさに進行中のできごとにたいしてどんな態度をとりるか、どうやって、どの程度それに関わるのかは選べる。世界を選択するということはこの世界でやるべき仕事と使命を、歴史と時代の中で受け入れるということだ
トーマス・マートン Contemplation in a World of Action(1971)より引用

完全な離脱は難しくてもそのものと「距離を取る」ことは可能です。
これは「自分だったらどうしていたか」について常に注意を向け、部外者の視点で考える行為であり、私たちが日々向き合っている世界への大切な態度となります。

このような態度を取ることはメディアの情報サイクルや話題に埋もれていては不可能な大切な休養を取ることができ、この世界に身をおいたまま別の世界を理解し、別の観点から眺めることができるようになります。

こうして現在とは距離を取りながらも、現在に対して責任を持ち続けることで人種差別、性差別、同性愛嫌悪、トランスジェンダー嫌悪、外国人嫌悪、気候変動、そして現実になんの根拠もない他の不安や怖れからも開放されることができるようになるのです。

「何もない」ことへ注意を向ける練習


「見ることは積極的な行為である」、デジタルアーティストのデイビッド・ホックニーは「見ること」をこのように定義し、見ることは人々があまり実践できていないスキルであり、意識的な決定だといいます。

今、目の前にあるものをあたなはどのように見ていますか?
おそらくは視界に入っている像として捉えているだけで、積極的には「見る」ことはしていないと思います。

そこでもう少し目を凝らしてみると、どうでしょうか?画面に写った自分の顔や画面の汚れなど、いままで視界には入っていたけど見えていなかったものが浮かび上がってくるかもしれません。

それが意識的に「見る」という行為であり、注意を向けることになります。
耳も同様に、いま聞こえている音に注意を向けてみることで、いままで聞こえなかった音が聞こえてくるかもしれません。
それが「聞く」という行為であり、注意を向けることになります。

一度この知覚の世界に歩み出すと、それが気分を高揚させるものであり、いままでいた現実の世界の方向感覚を失わせるものであることは、皆さんも経験的に理解できることだと思います。

私も日々の臨床でこの「注意」をよく利用します。
例えば自分の呼吸や呼吸しているときの胸の動きや、肋骨の動き、背骨の動きまで感じるように注意を向けさせます。

すると今まで感じることのできなかった細かな動きに対して気付けるようになり、意識を向けることで動きを引き出すことができます。

そのようにして得た動きはまさに「今までの自分がしていた現実の動き」とは異なり「新たな世界の動き、感覚」となり、今までできないと思い込んでいた、痛いと思い込んでいた信念や価値観の土台を揺らします。(これが現実の方向感覚を失うという感覚になります)

このような経験によってヒトは新たな視点を獲得することができ、選択肢が増やすことができます。

また、芸術に触れることも直接的に自分の感覚を別の世界へいざなってくれます。

特に優れた絵画は物理的空間の中で鑑賞者に対して対峙するものであり、絵画の世界と当事者の世界を現実の中に共存させるものになるといいます。

現実の世界と異なる規模と速度で知覚することを促す芸術作品は、自分の注意を維持する方法だけではなく、注意を自在に操る方法を教えてくれるのです。

また、速読や視覚訓練アプリなどで自身の動体視力をきたえることや多言語音声を聞いて聴覚に対して新たな刺激を入れることなども自身の「知覚世界」を広げることに役立ちます。

注意はそのままだと常に新しいものへと漂っていく自然な傾向がある。そして、対象への興味が尽きて、どんな新しさもそこに感じられなくなると、意思の力に逆らい、すぐさま別のものへと移ろう。注意を同一の対象物にとどめておきないのなら、その対象物についてつねに新しいことを見出すようにしなkればならない、とりわけ、われわれの注意を逸らそうとする、別の強烈な印象が存在する場合は。
ヘルマン・フォン・ヘルムホルツ(医師・物理学者)
ウィリアム・ジェームス 「心理学原理」より

まとめ

私たちが生きる現代は、テクノロジーの進化によって自分の時間が一分一秒に至るまで換金可能な資源として捕獲され、最適化され占有されている。

私たちはテクノロジーによって奪われた時間を「何もしない」ことで取り戻し、自分自身に対して「注意」を向けること自身の思考や幸福を取り戻すことができる。

「何もしない」ために自身の習慣や凝り固まった思考や身体感覚、偏見に気づき、新たな視点や身体感覚を手にいれるため「変化」すると心に決めて、それを別のものに置き換える戦略を持つ必要がある

芸術や運動は身体に直接的に感覚や思考に対して影響を与えるものであり、「注意」を取り戻すのによい習慣となる。

私にとって「何もしない」とは、ひとつのフレームワーク(注意経済)から離れることであり、それは考える時間を持つためだけでなく、別のフレームワークで他の活動に従事するということなのだ。
健全なソーシャル・ネットワークとは「出現の空間」であり、それは仲介された対面での遭遇、友人との時間をかけた散歩、電話での会話、仲間内での話し合い、公会堂での集会などが組み合わさってできており、真の自立共生の場である。(中略)そのネットワークによって、私たちの現在いる場所が、共感、責任、あらゆる場所で役に立つ政治的革新が生まれる孵化の空間となるのだ。
本書 第272項より引用

本書をよんで、私は自身のSNSの習慣を改めました。
自分で想像しているよりも、私がスマホに触れている時間は長かったのです。

そこで得た時間で私は散歩をしています。
たまに美術館へと赴き、じっと気になった絵を見つめています。
筋トレをして自分自身の身体と対話をしています。
ゆっくりと活字に目を通し、好きな読書をしています。

常に「何もしない」わけではありませんが、自分自身に対して考える時間は多くなりました。

そして自分の周りの世界について、環境について、関係についても考える時間が増えました。

それは間違えなく自分自身の「幸福」に直結しています。

これを読んでいるあなたの「時間」をいただいたことに感謝し、この文章があなたの幸せを取り戻すのに役立つことをお祈りしております。

最後までお読みいただきありがとうございました。


今回の紹介図書

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