実はアダルトチルドレンだった
アダルトチルドレンという言葉をご存じだろうか?
この言葉は、もともとアルコール依存症の治療の中から生まれた言葉で、アルコール依存症患者の子どもたちに共通する特徴があるということから、この特徴を持つ人たちのことをアダルトチルドレン(Adult Children of Alcoholics)と呼ぶようになった。
その後、アルコール依存症だけではなく、虐待や親の不仲など、何らかの問題を抱える家庭で育った人たちにも同じような特徴があることから、今では、機能不全家庭で育った人たちを広く、アダルトチルドレンと呼ぶようになった。
僕は、典型的なアダルトチルドレンだった。でも、そのことに気が付いていなかった。
僕の育った家庭には、一見問題などないように見えたからだ。
おそらく外部から見れば、という話だけれど。
機能不全家族といえば、先に上げたアルコール依存症とか、児童虐待とか、DVとか、とにかくわかりやすい例を思いつくのだけれど、僕の育った家庭は、そのようなはっきりとした機能不全家族ではなかった。
でも、七つ年上の双子の姉たちも、そして僕も、そのことで傷ついていたのは明らかだった。
理想的な家族に見えた
僕の父は、高校の英語教師をしていた。
母は、ウーマンリブ運動に影響を受けて、自分でも仕事に就こうと模索をしているような人だった。
双子の姉はおとなしく、学校の成績も優秀で、いわゆる出来のいい子供だった。僕にしても、性格はおとなしく、問題を起こすような子供ではなかったし、成績もそこそこのいい子だったと思う。
そんな5人家族だったから、おそらく、他人から見えれば、何の問題もない、ごく普通の家庭に見えただろうと思う。
感情の起伏が激しい母親
僕の母親は、僕が小学生のころに子宮筋腫を患った。その治療の過程で、子宮の全摘出の手術を受けることになった。
今ならそんなことはないだろうけれども、この時の手術で卵巣も一緒に摘出されてしまった。
卵巣は重要な女性ホルモンを分泌する器官などで、一気にホルモンバランスを崩すことになった。
これによって、激しい更年期障害が襲ってくることになり、体調もさることながら、精神状態もとても不安定になった。
当時は母、まだ40代の前半だったと思う。
その年齢で、いきなりホルモンバランスが崩れてしまったのだから、母もとてもつらい思いをしたのだろうと思う。
もともと気性が激しい人だったので、これによってさらに拍車がかかるようになった。そして、お酒が入ると大爆発を起こすこともあった。
ある日の朝、僕が目覚めて台所に行くと、台所の天井に味噌がべったりとこびりついていた。
台所のお勝手口が開いていて、その外側には、食器やら鍋などが散乱していたことがあった。
母親が何らかの理由でキレて暴れたことは想像がついた。
父親はおとなしい性格だったので、そんな母親に手を焼いていたのだろうと、今になってみればそう思う。
そんな感じの家庭だったので、いつ母親がキレるのかわからないという緊張感があった。
でも、普段の母はとても明るく情に厚く面倒見がよかったので、母を慕う人は沢山いた。そんなわけで、母親は人気者だった。
家を飛び出した母を追いかけた夜
記憶は定かではないけれど、僕が小学五年生の時のことだと思う。
僕が家の2階にある自分の部屋にいると、階下から母の怒鳴り声がして、玄関を勢いよく締めて出ていく音が聞こえてきた。
何が起きたのかと慌てて階段を駆け下りていくと、リビングのこたつを囲んで父と二人の姉が放心状態で座っていた。
「どうしたの?」と聞く僕に向かって、父は力なく「もう、どうしていいかわからない」と言った。
僕は子ども心に、「なんで追いかけないんだ。」と思った。
「誰も追いかけないなら、僕が行くしかない。」
そう考えて、母の後を追うことにした。
もうすでに外は暗くなっていた。
母はどこに行ったのかわからないけれど、きっと駅に向かったに違いない。
そう思った僕は、駅に向かって走り出した。
駅に着くと、ホーム上にいる母に気が付いた。
「お母さん!」と叫んでも、無視しているのか、こっちを見ようともしない。
僕はお金を持っていなかったので、改札を通ることが出来ないと考えて、駅の反対側の母の近くまで行って、小石を拾って母に向かって投げた。
それに気が付いた同じホームにいた女性が、何やら母に話しかけていた。
そして、母がこちらを振り向いてから、改札に向かって歩き出した。
その女性のおかげで、僕は、母を家に連れて帰ることに成功した。
後でこの時のことを母に聞くと、家出をして遠くの親戚の家に行こうと思ったと言っていた。
母の側に付こうと考えた
この日の出来事は、僕の中にある変化をもたらした。
ひとり家を飛びだした母を、父も二人の姉も追いかけようとしなかった。
その光景が、僕には、父と姉二人はグループになっていて、母は孤独である映ったのだ。
だから、僕は母の側に付こうと考えた。
もちろん、それをはっきりと自覚したわけではないけれど、母の側に付くことによって、パワーバランスを取ろうとしたのだ。
子どもというのは、そういうことを考えるものなのだ。
自分の家族が崩壊していくのを何とか食い止めようと、子どもながらに考える。
そのためにできることをやろうと思うのだ。
この時から僕は、母を苦しめてはいけない、母に心配をかけてはいけないと思うようになった。
それはすなわち、母の言うことをよく聞いて、母が嫌がることはやらないと決めたということだ。
これは、母親の意向に沿って生きていくことになったということなのだが、幼い僕には、そこまで考えることは出来なかった。この決心が、この後長い期間にわたって僕を苦しめることになった。
常に母親の意向を気にしながら生きるようになる。
母親の意向に反することは出来なくなる。
母親の目が気になる、評価が気になる。
母親の掌の中でしか生きられなくなる。
そういうことになってしまったのだ。
(つづく)
自分がうつ状態に陥って、そこから這い上がってくる過程で考えたことなどを書いています。自分の思考を記録しておくことと、同じような苦しみを抱えている人の参考になればうれしいです。フォローとスキと、できればサポートをよろしくお願いします!