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役に立ったはなし

こんにちは。

二日です。

私は大学生になってからカメラで写真を撮るようになって、大学のサークルの展示にも写真を出展するようになり、整った写真だったり、自分のイメージや考えを反映させた作品を、サークルから離れた今も、のんびり目指しながら写真を撮ったり、あれこれ考えたりしています。

そんな中で、よくよく考えたら、自分がしてきたあんなことやこんなことが、写真を撮ったり、作品の案を考えたりする上で役に立っているなぁと実感したので、書いておこうと思います。今は2つだけですが、将来また別のことが役に立ったと気づくかもしれませんね。

1つ目:読書

これは、作品の案を考える時の想像力を養われたと思うのもそうなんですが、1番は、写真の構図を考える時に実感しました。

読書と言っても、私は基本的に小説しか読まないのですが、私は小説を読む時に、「文字を見る→意味を認識する」というよりは「文字を見る→頭の中で映像を作る」という読み方をしています。他の人がどういう小説の読み方をしているのかわからないので、「普通だろ」と思われるかもしれませんが、それならそれで良いのですが、とにかくこの「映像を作る」という作業が写真を撮る時にとても役に立っている気がするのです。

小説は当然ことながら、文字のメディアなので、文字を認識してから、自分の頭の中で「像」を「想う」ということをしなければなりません。そのときに作られる脳内の映像は、どれだけ正確に文章を読み取れるかで多少変わってきますが、それも含めて基本的には自分の「経験」によって、人それぞれに作られる映像が変わってくると思います。言ってしまえば、その映像が、自分の「想像の限界」なのだと思います。ただ、その「想像の限界」は、色んな「経験」を新たに積んだ上で、また小説を読んで脳内で「映像」を作ることで、少し拡張されていきます。なぜ拡張されるのかというと、以前は意味がわからなかった言葉の意味がわかるようになったとか、違う作家の小説を読んで新たな表現にで会うことで、映像の緻密さ、リアルさ、ディテールが増えてくるのだと思います。

写真を撮る時、特にその構図を考える時、「通常」の視点からまずは撮ってみると思いますが、多分その視点で撮った写真は、既に誰かに、というか万人に取り尽くされた写真であり、周りから評価されない以前に、「自分が」ワクワクしない写真になってしまいます。

自分がワクワクする新鮮な写真を撮るために、小説を読んで養った「想像力」が役に立つのです。「この角度から撮ったらこう見えるかもしれない」とか「他の人は近づいて撮っているけど、離れて撮ってみると違う雰囲気になるかもしれない」とか、それこそ「こうしたら、あの小説を読んで自分が想像した景色が撮れるかもしれない」と思ったりもするかもしれません。まぁ「考える前に足を動かせ」ということも一理ありますが、結局脚の神経が脳に繋がっている以上は、その移動範囲は、本人の「想像力」の内側から出ることはできないので、脚を動かすのはもちろんとして、「想像」の幅を広げることが、「見たことない写真」に繋がるのではないかと思います。

2つ目:書写

書写と書きましたが、いわゆる習字です。ただ、話を進める上で「書写」の方が適当な表現だと思ったのでこれで進めます。

私は小学1年生から大学4回生になった今まで、15年近く書写を習い続けています(と言っても最近は2週間に1回とかの頻度になっていますが)。習い始めたきっかけは、子供ながらに「字を綺麗に書きたい」と思ったことで、そこから中学生くらいまでは「なんとなく」で習い続けて、高校生あたりからは、「楽しいから」続けるようになって今に至ります。

私はほぼ趣味程度の軽い気持ちでやっているのであまり知識とかはないのですが、この「書写」というのは、よくイメージされるような「書道」と違って、「いかに手本に忠実に書くか」が重視されます(その中で各々の書きぶりに特徴が出たりするのですが)。皆さんが学校の授業でやった「手本通りの字を書く」授業は「書写」と言われるものということです。

私が「書写」をやってて、「写真」に役立っていると感じたことは大きく2つあります。

1つ目は、線の角度や、画面内の物の配置に対する「違和感」への感度が高くなるということです。書写、習字をやったことのある人ならわかると思いますが、自分ではいくら「手本通り」にかけたと思っていても、他の人と比べてみたり、誰かから指摘されたりして、手本との違いに気づくということが多々あります。というか、おそらく何枚書いてもそういうことが起きます。

じゃあ次はもっと綺麗に、手本通りに書こうと思うとどうすれば良いか。それは「手本をとにかく『見る』」んです。ただ枚数を重ねるだけでは意味はなく、書く前にも後にも、手本を目に「焼き付ける」ことが重要になります。書写は「書」き「写」す書きますが、実際のところは「紙」に写しているというよりかは「目」に写して、それを紙の上でなぞっていくというのが、書写の本質なのだと、勝手に解釈しています。この「手本を見る」ことを続けると「ここの横画は、こっちの横画よりも急な角度で右上がりになっている」とか「ここの払いは、ぱっと見ではここの払いはより角度が急に見えるが、書いてみると同じか少し浅いくらいで良さそうだ」とか、「この点は気持ち高めのところに配置した方が良いな」とか、大きな違いから小さな違いまで、とにかく「違いを探せる目」になってきます。

写真を撮る時も、画面内の物の配置が整っていると綺麗な写真になりやすいですし、何より個人的には、(そこに意図を持たせていない限り)水平な線は水平に、垂直な線は垂直になっていることが、綺麗な写真の大前提だと思っています。自分で撮った写真にしろ、他人の写真にしろ、そこで線の角度の違和感に気づけるかどうかは、とても重要なことだと思います。私もカメラでもスマホでも、撮った写真が「なんかしっくりこない」ときは、とりあえず写真の水平を整えると、結構綺麗な写真に近づきます。最近は、SNSとか、時々展示とかで写真をみる時にそういう線の角度に違和感を持つと少しイラッとしてまうようになってきているので、そういうことに囚われすぎている節もあるのですが。

何せ、水平な線は水平に、垂直な線は垂直に、あと、あえて傾けるときでも、綺麗に見える傾きがあると(自分では)感じるので、とにかく線の角度の違いにある程度気付けるようになったのは、書写をやってて身についたことだなと思います。

2つ目は、1つ目と似たような話にはなりますがある程度の美的感覚が養われたことです。これは、例えば「余白の美」とか言われるように、日本の芸術はしばしば、余白に美しさを感じさせることがありますが、「書写」をやっていると、先ほども述べたような線の配置や角度の違いに気づくことの延長で「この辺りにこのぐらいの余白を作ると良いかも」というのがなんとなくわかってきます。これはあくまでも感覚的な話なので、自分の感覚と他人の感覚にズレがあるとは思いますが、少なくとも、自分にとって何が「良い余白」なのかの基準を持つことができます。あとは色んな写真をみたり、また「書写」で字を綺麗に書く練習をしたりして、美的感覚をアップデートさせていくという感じです。

まぁこの美的感覚というのは、あくまでも写真の表面上の話なので、内容的なところの感覚は、写真や芸術に関する色んな知識が必要になるかもしれませんが、自分が表現したいことを形にする上では、自分にとって何が美しいのかを把握しておくことは大切なことなのかなと思います。

まとめ

私の場合は、「読書」と「書写」が写真に役立っていると感じていますが、私とは異なる経験をされた方なら、また別の事で役立てられることがあると思います。これは写真に限った話ではなく、あらゆることに言えることだと思います。「学校のこの教科は勉強する意味がない」という話がTwitterとかで度々話題に上がりますが、そういう考えはかなり勿体無いなといつも思ってしまいます。「とりあえず経験しておく」というのが、その後の自分の「好きなもの」にも役立てられると思うのです。

最後までお付き合い頂きありがとうございます。

ちょっと話題のストックが減ってきたので、今後は投稿頻度を下げようと思います。

また話したいことができたらぼちぼち上げます。

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