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視覚のはなし(「情報」編)

こんにちは。

二日です。

普段写真という、受け手にとって視覚による情報が全ての媒体を扱っていると、自然と「視覚」について色々考えるようになりました。

今回から何回かに渡って、「視覚」に関して私が考えていることを書いていこうと思います。

今回は、視覚から入ってくる情報量について。

人間が五感で知覚する情報のうち、視覚からの情報量は、かなりの割合を占めていると言われるように、人間は、日々たくさんの情報を「目」から取り込んでいます。「この木の実は赤色だ」「あの建物は6階建てだ」など、意識して得ている情報から、通り過ぎる人の服装、通勤途中に前を通る店の様々な看板など、無意識のうちに得ているような情報もあります。

ここで言うところの情報というのは、それ自体に意味を持っているような情報と、それ単体では意味を持たない情報とがあります。前段で述べている「情報」は前者に当てはまります。対して後者は、あらゆる物体の輪郭線や色自体のことになります。様々な輪郭線や色といった単純な情報を集めて、組み合わせることで、前者のように意味を持った情報が構築されます。

写真においては、後者の情報(差し当たり「単純情報」と言うことにします)の量を調節することで、パッとみたときに「見せたいものがわかる写真」であったり「ごちゃごちゃしていてわかりにくい写真」であったり、逆に「何も無さ過ぎてわかりにくい写真」といったものにします。

例えば、真ん中に被写体としてモデルさんを写すときに、モデルさんにしっかりピントを合わせて背景をぼかすことで、モデルさんの「単純情報」は増え、背景として写っている物の「単純情報」は輪郭線が曖昧になることで減り、「この写真はこのモデルさんを見せたいんだ」ということが明確になります。逆に画面全体にピントを合わせる、つまりモデルさんにも背景にもピントを合わせると、先程と同様にモデルさんの「単純情報」も増えますが、同じくらい背景の「単純情報」も増え、情報量の差が小さくなり、「どれを見せたいのかわからない」写真になってしまいます。これは撮影者の意図によるので一概に当てはまる話ではありませんが、写真の基礎的な理論としては、こう言えると思います。

ちなみに、前段ではピントによる線の「単純情報」の調節に着目しましたが、色の「単純情報」を調節する方法もあって、その代表例がモノクロ写真になります。脱線します。「モノクロ」写真は、monochrome(単色)が語源なので、必ずしも黒の濃淡で表現しないといけないわけではなく、赤や紫や緑などの色でも単色の濃淡での表現であれば「モノクロ写真」と言えるのです。いつかそういう表現もやってみたい。間違いなく加工必須ですけど。脱線失礼しました。で、「モノクロ写真」は文字通り「単色」の写真なので、カラー写真に比べて色の情報が格段に減ります。なので、その分背景にもピント合わせるなどして輪郭線の「単純情報」を増やしても、カラー写真よりも「すっきりした写真」になることが多いです。むしろ「色」というわかりやすい情報がほぼ無くなる分、輪郭線の情報が少ないと、見ていて「物足りなさ」のようなものを感じることもあります。

写真は人間の視覚に100%頼った媒体なので、こんな風に「単純情報」を調節することで、見せたいものを正確に見せることが必要になります。特にモノクロ写真は「色がないから面白くない写真」と思われがち(私の周りには割といたので)ですが、その特性上撮影者が、例えば「このモデルさんの表情を見てほしい」とか「この建物の形を見てほしい」とか「この街並みを見てほしい」など、見せたいものがはっきりしていることが多いので、写真を「見る」という点でも、意外と面白い表現だと思います。

(ここからは写真の話から逸れますが)ちなみに、写真がこのように実際の人間の視覚で得られる情報から「単純情報」を「調節」しているのに対して、「単純情報」を「省略」しているメディアが、「漫画」や「アニメ」などの「絵・イラスト」です。特に「漫画」や「アニメ」については、この「『単純情報』を『省略』している」ことを背景として、現代の日本においてメジャーな文化になったのではないかと思っています。

これは私の意見というか、もはや妄想の域の話になりますが、「日本人は勤勉である」という通説がありますが、真偽はともかくとして、実際日本人の睡眠時間は、海外諸国と比べて少ないと言われています。これは当然「遅寝早起」もしくは「早寝超早起」みたいな生活習慣によるものだと思いますが、後者の場合はもちろん働き過ぎ、前者の場合は昼間働いたりする結果、ほとんど自由な時間やプライベートな時間が取れないことによりそれが夜に食い込んできているので、これもある意味働き過ぎと言えると思います(社会人でもない学生の身分でこんなことを語るのはどうかと思いますが)。

つまり何が言いたいかというと、日本人は「慢性的に」疲れているのだと思います。昼間働いて、それだけだと疲れるから夜に楽しみなことをして、結果睡眠時間が削られて、朝起きた時点で疲れている状態から1日が始まる。そうでなくとも、夜の最低限の睡眠以外は働きっぱなしという人もいるでしょう。

疲れているときというのは、「人の話を聞きたくない」とか「何も考えたくない」とか、学生なら「宿題なんかしたくない」とか、外界から「情報」を頭に入れたくなくなるのです。そもそも「睡眠」という行動自体、目を閉じ、視覚情報を始めとした様々な知覚情報の取得量を減らすことで脳を休ませているのですから、疲れたら「情報を欲しなくなる」というのはそれなりに当たっていると思います。

この「情報を欲していない」疲れたときの娯楽として適しているもの、というのに当てはまるのが「漫画」や「アニメ」ということになります。

先述した通り、人間が得る情報は「単純情報」の組み合わせで成り立っているので、知覚する「単純情報」を減らすだけで、脳への負担も減らすことができます。アニメや漫画というのは、実際の視覚から得られる映像から、輪郭線や色の情報を「省略」して様々なものを表現しています。漫画で言えば、モノクロ写真同様に「色」の情報や、絵として表現しているので「線」の情報や、実際の視覚による映像を静止画にすることで「動き」の情報も「省略」しています。アニメでも「線」の情報を「省略」したりしています。そのため実写の映像を見るより脳には負担がかからず、「慢性的に疲れている」日本人にとっては「ちょうど良い」娯楽であると言えるのです。

もちろんこの他にも、日本で漫画やアニメがメジャーな文化になった理由はいくつも考えられると思いますが、このようなことが理由の1つになっていることは、割と当たっていると思います。

少し論理が雑な部分もありましたが、ひとまず、視覚と「情報」については以上となります。お付き合い頂きありがとうございます。

次は、今回も度々出てきた「実際に視覚から得られる情報」、つまりは、「肉眼で見える景色」の話をしたいと思います。

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