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価値観は簡単に変わるのか?(根本について)

「〇〇すると価値観が変わるよ」と言われるのが苦手だ。


自分は海外へ暮らしたことがあるが、通算すれば僅か二年程度。加えて今は日本に戻り、日本の暮らしを満喫中だ。
やはり暮らすのは日本が良い。

海外へと渡った経験がある人達の中に、「価値観が変わりました」と語る人達がいる。価値観が変わるから海外へと行くべきだ、と言うのだ。
何度もそれを耳にした。そして言うだけ言って、その後は何もしないのだから何とも無責任だが、これはまた別だ。置いておく。

ともかくも、価値観が変わるから海外へ行く。海外さえ行けば、価値観が変わるのだと言う。
それはまるで、こう言われているようだった。
「貴方の価値観では駄目だ」と。

そも、価値観とは何なのだろうか。
物や事等の価値についての考え方とはある。そして、価値だと判断するための根本的なもの。
なればこそ、この根本たるそれを容易に否定出来るのか。そして容易に変えられるのだろうか。
自分を容易に変えることが出来るというのだろうか。

これを書いている時、自分は三十になった。
「三十にして立つ」と孔子が残した言葉があるその年だ。
この言葉はその前に「子曰く、吾れ十有五にして学に志ざす」とあるが、自分が十五の時に、今を考えることが出来たのかが分からない。
ただ言えるのは、なんだかんだ価値観はその頃から今に至るまで変わってはいなかった。

常に諦めがある。諦めた上で、何が出来るのかを考えた。
十五と言うと中学生時代、本当に勉強が嫌いで嫌いで仕方がなかった。海外へ行った経験はあるが、中学時代の英語の成績なんて本当に目に余るものだった。
受験勉強からも逃げたかった。
勉強が嫌過ぎた。
兄がいるのだが、兄が受験勉強で苦労していて、母とのやり取りを目の前にしてきたから余計に勉強というものがおろそかになっていた。
そして何よりもその時、父は職がなかった。母が稼ぎ頭だったからこそ、未成年だった自分達に期待を寄せていたのは明らかだった。

母は真面目な人だ。だからこそ、母として十二分に役目を果たそうとしたが故の重圧を真っ先に兄に向けていた。
自分はその重圧を見て、こちらの意見なんぞ聞いてはいないのだと諦めをまっさきに覚えた。確かに苦労させないようにしようとしていたのかもしれないが、こちらの言葉には耳を貸さない姿を見せられてしまった。

だからこその諦めだった。言葉を発しても意味はない。だからこそ、やれることをやらなければならないし、信じれるのは自分しかいないのだと思う他なかった。
そして孔子の言葉と違うとすれば、学なんて志しはしなかった。

諦めることを覚えたら後はずいぶんと楽になった。
「為るようにか為らない」のだから、この勉強嫌いの自分がやれることはいかに今の成績で、いかに勉強せずに、最低限の高校へと入れるかと考えれば良いだけだったからだ。
そして父の稼ぎなんて当てにならない状況下、やれることは公立の高校で卒業後すぐに働ける場所へ進む他ないと判断した。

もちろん本当にそうした。そうすると決めればすぐだった。
就職に特化している高校へと入学し、そして今に至っている。その間になんだかんだとあったし、ほんの少し自分というものを表に出しても良いのだと知ったりとあったが、結局は「為るようにしか為らない」世の中なのだという認識は変わらず、常に諦めることは変わってはいない。

中学生の時からなのだから、通算して十五年ほど。
これを頑固な性格というならばそうなのかもしれない。面白いほどに、自分は変わってはいない。
確かに年齢に応じた知識や経験からの物は身についてはいるが、こんなものを書いている時点で変わりようがない事実だった。

(なんだか変なことを書いている気がするが、アルコールが入っている時の文章だからという言い訳を脇に置いておく)

「為るようにしか為らない」という考え、というよりも価値観の元、自分は三十になる。
決して前向きではないこれを全面に掲げているわけだが、この価値観を変える必要があるのか、いささか疑問だ。
きっかけは書いた通りの内容だが、なんにせよその頃からの価値観が今もこうして根付いている。そして海外へも行ったが、なおさらに抱いている価値観はより強固なものとなった。

ここで疑問に思うのだが、元々あったであろう価値観は変えなければいけないほどのものだったのだろうか。
今すぐに変えなければいけない価値観とはなんだったのだろうか。
変えた価値観というのは、日本の風土に合うものだろうか。あくまで、そこの海外の風土に合うものというだけで、日本に新たに取り入れようとしても周囲は納得するのだろうか。

日本という国にとっての善は、海を渡っても善であるなんて決して言えないし、逆もまた然り。
善の基準が違うとすれば、価値観というものも大きく違うのもまた当然のことと考えられる。
根本的な考え方が大きく変わった瞬間だったというのではれば、確かに価値観が変わったと言えるのではないだろうか。
何が善となったのか。何が悪となったのか。人に対する見方はどのように変わったのだろうか。

海外へと行き、「価値観が変わった」と言う。
今までの価値観に疑問を抱いて、だからこそ環境の違う海外へと飛び立つことに決めたのだとすれば、それは行ってもいいのかもしれない。
けれども、期待するほどに価値観は変わるのかは疑問だ。

もちろん全ての環境、文化、その他諸々が違うということを「知って」行くわけだ。知ってしまっている以上、ある程度が予想出来てしまうのではないか。予想出来てしまえば、おおよそこういうことかと考えられるわけで、それは正しく「価値観が変わった」と言えるのだろうか。
それはただ単に、違うということを知っただけに過ぎないのではないだろうか。

母の話に戻る。
自分にそのようなことを言ったのは、まぎれもなく母だ。とくに支援をすることもなく、他人事に言うだけだった。
夢を未だに見続けているような印象さえあった。

自分は負けず嫌いなところもあるし、ちょうど良いタイミングもあって海外へと渡ったが、言うほどに価値観が変わるようなことはなかった。
自分はおそらく、違うことを「知った」だけなのだろうと思う。そして価値観が多く異なることを理解しただけだった。

ただ知ることは重要だと思う。
知ることが価値観に対して、変化を促すものだと思うからだ。
根本な考え方は変わることはないが、おそらくは多少なりとも、周囲に対する考え方等々は年々変わってきている気がする。
これこそが価値観だというのであれば、わざわざ海外へ行かなくても、今の時代はこの場にいながらに知ることが出来るのだから、そこまでに重要視しなくても良いのではないかと思わざるえない。

いや、しかし待て。
知る以外に、体験したという経験もまた価値観を変化させるものの一つとなれば、こればかりは知識ばかりでは補う事は出来ないだろう。
なるほど、だからこその海外かと思い至る。
海外は知ると経験を同時に出来る。だからこそ、他所なりともの価値観の変化が味わえるというのだろう。
加えて分かりやすい経験なのだろうとも思えた。


まとめる。

結局のところ、何かのきっかけで価値観を変わることはある。しかしそれは海外へと必ず行かなければいけないというわけではない。
だが、文化や暮らしが分かりやすく大きく異なるから海外へという話に発展しているに過ぎない。
おそらく、「価値観が変わる」からと海外へ行くことを勧めるのはある種、自分の成功体験を同じようにさせたいが為であろうと今は結論づけておく。

そして他者へ価値観が変わるからと勧めるのは、やはり控えておいた方が良い。
人によって価値観の変化のきっかけは異なるし、その価値観ではよろしくないと言っているようなものだ。
また、自分自身を変えるのにさえ手こずることを、他者に求めるのも考え物だ。例え、自分自身を変えられたとしても、求めてしまえば場合によっては今まで築き上げてきた関係が変わってしまう可能性だってある。
せめて、何かしらの気づきなりに近づける行動ぐらいに留めておくのが唯一の出来ることぐらいだろうと、自分は思う。

自分が思うに、価値観はそう簡単に変わるものではないと今はそう考えている。もしくはきっかけに未だに出会えていないだけかもしれない。
それにしてもだ、偉そうなことばかり書いていて本当に良くないなと思ってはいるが、今の自分がこうして考えているのだという記録ということで残すことにする。
何年後かに読み返して、価値観が変わっていたらそれはそれで面白い。
その時が来ることを楽しみにしておく。

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