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手段があふれる世界で

今の時代、解決のための手段というのは世の中にたくさん溢れている。「どうすればそれを解決できるか」を考えるよりも早く、調べればすぐにその情報がたくさん手に入る時代なのだ。
そんな今の時代に大切な力が、「何が問題なのか」と問題を発見し、意味を創る力である。と山口周さんの『ニュータイプの時代』という本のあらすじに書いてある。つまり、ぼくはまだあらすじしか読めていないということだ。

なぜ、このあらすじを書いたかと言うと、あらためてこのブログで「何をどう書くか」ということを考えてみたからである。
これまでもそうだが、いつも思いついたことをただ書いていた。けれど、それを一体誰が読みたいのか、という話である。それを「読みたい」と言ってくれる人がいるのならば、それはとてもうれしい。「一度、お茶でもいかがですか?」という気分だ。
しかし、そんな人はほぼいないだろう。「ほぼ」という含みをもたせたのは、かすかに淡い期待を抱いているからである。そう、ぼくは正直者だ。

書く内容についての話である。たとえば、専門的なことを書くにも、もっと詳しい人達がいることを知っている。それは解決するための手段は世の中に溢れていて、今日もまた更新されているからだ。
ぼくが書く理由に「書くじぶんがじぶんを楽しませようとしていること」が挙げられると思った。日々の暮らしに楽しみを創ろうとせっせと励んでいる。
そして、そこから誰かと繋がりたいという想いがある。できればたくさんの人と繋がりたい、という欲張りな想いがある。そんなことはSNSでいくらでもできるだろうけれど、流れるタイムラインを担う一人ではなく、じぶんの部屋に招いてできればゆっくりしてもらうという感覚からブログなんだろうか。「ちょっと汚いですけど、よろしければどうぞ」という気持ちだ。
自分の部屋として、だれでもいくらでも出入り自由で、一度に何人でもお越しいただくことができるところがブログだと思う。

でも、人がブログを読むということは、その人の時間を使う、つまりこちらからすると、「その人の時間をいただく」ということでもある。だとすると、見合った「価値」が読み物になければ、だれも読みはしない。また読みたいと再び訪れる人はいない。多くの人が読む日なんて一生やってこない。

そこで一つ思ったのは、じぶん以上にじぶんのことを知る人間はいないんじゃないか、ということだった。もちろんじぶんの知らないじぶんを誰かが知っている(ジョハリの窓的な)ことはあるだろうけれど、じぶん以上にじぶんについて考える機会が多い人はいないと思った。
だとすれば、じぶんの問題を発見して(きっと想像以上に多いはず)、そこから少しずつ行動による変化を起こしていき(これが一番たいへん)、ぼくなりの意味を模索していく(ここがこのブログの価値)、ということをこのブログの定義にしても、おもしろいんじゃないかと思った。できる、できないはおいておいて、そこに向かって取り組むという姿勢だ。とにかく気分だけはすごく前向きだ。そのほうがぼくは読みたい。

しかしながら、ブログというものは、そもそもがこのような定義に該当するものかもしれないとも思った。みんな定義なんてしていないだけで、そんなようなことを自然とやっているような気がしてきた。というわけで、やってることがだいたい同じならばと、ぼくは「やらないこと」も決めてみた。

【7つのやらないこと】
・知ったかぶりをしない。
(やりがち)
・決めつけない。(やりがち)
・えらそうにしない。(気がつけば天狗)
・わかりにくい文章を書かない。(むつかしい言葉も使わない)
・いわゆる時事ネタは書かない。(他の方におまかせします)
・悪口は書かない。(正直、書く気にはならない)
・人を評価しない。(じぶんはそんなに偉くない)
・読みたくないことは書かない。(書きたくないことは書かない)

これだけやらないことがあると、書くこと、書き方も考える必要がある。考えながら試行錯誤していく。目標とする定義とやらないことを決めてみて、このブログの価値を判断する軸ができたと思うので、ぼくなりの意味をここから創っていきたい。

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