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内的融和、そして「身体知性としての私」(2023年6月10日時点の「私」の傾向性)

パニック障害という診断で体調を崩してからそろそろ1年が経とうとしています

私はパニック障害を治すに留まらず、「パニック障害というサインで私自身が気づかないといけなかった身体的、心理的、人間関係的歪みを解消する」という目的でここまで歩んで来たように思います

そのプロセスの中で非常に大きな学びを得てきました(そのプロセスのほとんどは全てこちらのnoteに綴ってきました)

それは私自身の中に常にあったにも関わらず、私自身が全く気づけていなかった歪んだ身体的・心理的傾向性への気づきとその解消であったり

私自身と家族、私自身と職場といった関係性の中で起こる消耗的で不健全な状態への気づきとその解消であったり

また私だけでなく、他の人の中にも存在しその人を苦しめる傾向性への気づきとその解消の支援だったりしました

私の中で今見えてきていることは、結局のところ内的闘争が人を苦しめるということです

そしてその内的闘争とは、内なる大人(インナーアダルト)と内なる子供(インナーチャイルド)の闘争です

インナーアダルトとは、思考、理性、規範、善であり、主に頭部に宿ります

インナーチャイルドとは、感情、衝動、悪であり、主に身体部(特に胸部や腹部)に宿ります

私たちは、規範というものを先天的に待っているわけではありません

規範は受け取るものです

親や教育者といった存在から教育という手段を通して、社会的規範を教え込まれます

そして私たちの外に存在していた規範はいつからか内在化します

内在化した規範は、私たち自身の独り言となって自分自身を縛りつけます

「そんなことしてはダメだ」「そんなのおかしい」「もっと頑張らなくては」

子供は自らそんな言葉を創造し、発したりしません

誰からか授かった規範的な言葉を内在化することで、自己規範として自分の中に内的規範を宿し、そうした言葉を独り言として自分自身に向けていきます

そして外的規範が担っていた、自分の衝動を抑圧してでも社会適応させようとするその役割は、いつしか内在化した自己規範が担うようになり、独り言として自分自身を抑圧していきます

そして私たちは、自分自身の中に内なる大人(インナーアダルト)と内なる子供(インナーチャイルド)の闘争として私たち自身を表現していきます

この内なる大人と子供は、ほとんどの人の中では、内的闘争として常に喧嘩をしているわけです。これは意識で顕在化していないことなのでほとんど自覚できません

そして、この内的闘争はとてつもないエネルギーロスとなります

またこの内的闘争は、外の世界に投影されます

親子に対してカウンセリングすると驚くべき事実に気づかされます

それは、親が自身の中でインナーアダルトを使ってインナーチャイルドを抑圧し虐げるのとほとんど同じ様子で、親は自分の子どもを抑圧し虐げてしまうのです。しかも、ほとんど無意識に

そして親はこう独り言を自分に述べるのです。「これは子供のためだ」「これは大人になる上で仕方のないことだ」「自分は正しいことをしている」

これはそっくりそのまま、その親自身のインナーアダルトがインナーチャイルドに向ける言葉と同じなのです

これは親子だけでなく、夫婦や家族、会社といった集団における人と人の関係性にも投影されます。更に大きな図式で言うと、信仰同士および国家同士の外的闘争などとして現れ出るのだと思います

この内的闘争が投影されて外的闘争を作る構図は、驚くべき人間神秘だと思います

こうして親子、会社、信仰、国といった世代を超えた傾向性がバトンのように次世代に受け継がれていくわけです

さて、そうなると、肝要なのは内的闘争の終焉、つまり内的融和なのです

私は今、親向けに内的融和を目指したワークを行うサービスを企画してます

これは自分の会社を設立して進めようと思っていますが、その会社のビジョンは当分の間は「内的融和」になると思います

なぜなら、内的融和こそが始まりかつ全てであり、一人ひとりの内的融和が起これば自ずと外的融和につながると考えているからです

一方で、内的融和をせずに自分の外の世界に矢印を向けて、やれ世界平和だの、やれSDGsだの叫んだところでそれは結局新しい外的闘争を生み出すだけです

私たちは、気づいた人から、自らの内的融和を実現するための内的探究に取り組み、そしてその人々を起点とした新たな内的融和を周囲に広げていくこと。これが重要だと考えています

そして何より、私自身も、グダグダとこうして外の世界について述べることはほどほどにして、何よりも自分自身の内的融和に努める必要があるわけです

その私自身の内的探究プロセスに、然るべき他者が自然と巻き込まれ内的融和が起こるなら、必然的に私の周囲の人にも内的融和が起こるでしょう、という感じです。いやむしろ、それしか願いようがないのです

さてさて、では内的闘争を終え、内的融和に向かうためには何が必要なのか

それはつまり、インナーアダルトとインナーチャイルドの融和です

そのためには規範を緩め、あらゆるインナーチャイルドのあらゆる感情を吐き出し切る必要があります

それは、脆く、弱く、時に憎悪に満ちた悪でもあり、私たち自身が決して出会いたくなかった自分自身の姿でもあります

しかしそれを悪としたのは内的大人であり外から授けられた規範でしかありません

結局のところ、内在的善悪などなく、全ての善悪は社会によって作られ、外から条件づけられたものです

その事実に対して、頭での理解ではなく、体感での理解が必要です

そうしてインナーチャイルドにあらゆる感情を吐き出させる必要があるのです

一方で、内的融和は何も、インナーアダルトを殺してインナーチャイルドにわがままをさせることではありません

あくまで融和なのですから、インナーアダルトの言い分もインナーチャイルドの言い分も共に汲む必要があるのです

インナーアダルトも、私たち自身を守るために必死に規範を身につけてきたのです

子どものままの精神だと傷ついてしまうどうしようもない状況に置かれたが故に、自分自身を守るためにインナーアダルトは必死に理性を働かせたわけです

つまりはインナーアダルトとは、傷つくことを恐れたインナーチャイルドを守るために必死に理性による防壁を作り上げたと言えます

しかし、不思議なことに、今度はその防衛が理性的規範として自らのインナーチャイルドを抑圧し、虐げてしまうのです

このインナーアダルトとインナーチャイルド双方の立場に立った融和が必要不可欠です

しかし、私たちのほとんどはインナーアダルトと自分自身が自己同一化してます

そして自己同一化したインナーアダルトを優先するが故にインナーチャイルドの存在に気づけなくなっています

インナーチャイルドはあまりにインナーアダルトによって虐げられたが故に、無意識の中に逃げ込み、怯えています。そしてややこしいことに、インナーチャイルドの周りにはインナーアダルトによる理性の防壁が厚く築かれ、インナーチャイルドの声は私たちにはほとんど聞こえません

しかしインナーチャイルドは、時に暴走してでもその存在を私たちに表明してきます

緊張、恐怖、憂鬱、虚無、身体や精神の不調、他者への怒りや攻撃

そうした無意識による反応としてインナーチャイルドは叫びを上げます

インナーアダルトとインナーチャイルドの内的闘争があまりに肥大化しすぎると、インナーチャイルドは声にならない声で叫び始めるのです(私のパニック障害もその一例だと考えています)

私たちはまず、こうしたインナーチャイルドの存在に気づき、寄り添う姿勢が必要です

一方で、インナーアダルトにも共感し、その立場を認めてあげる必要があります

では、インナーチャイルドにも寄り添い、インナーアダルトにも寄り添える、そのどちらでない「私自身」とは一体誰なのか?

それは「身体知性」です

身体知性とは身体感覚を通して育まれる、身体感覚より深くより広い内感的体です

身体知性は「知性」というぐらいなので思考の役割も担えるほど高次の存在と考えています

私自身もこの身体知性については目下探究中なので、説明がブレることもあるかもしれませんが、今後より詳細に私の体験を通じた学びをnoteで共有していきます

ともかくも私たちはこれまで既存社会が目を向けることがほとんどなかった身体知性の領域に目を向け、育てていかなければなりません

衝動中心の「子どもとしての私」を私たちはとうの昔に卒業しています

そして私たちのほとんどは今、理性で自分自身をコントロールできる「大人としての私」を「私」だと思って生活しています

その「大人としての私」とは、思考であり理性であり規範です

しかし私たちは、思考を超え、理性を超え、規範を超える段階にあります

それは現代社会がこれまで、宗教から科学を分離することで発達してきたように、そしてそれが行き過ぎて分断にまで達しているのを象徴するかのように、

私たち一人ひとりの内的世界においてもインナーチャイルドとインナーアダルトの分離が行き過ぎた結果として、分断にまで達し内的闘争が大きくなっています

分離から統合へ。そして、闘争から融和へ

それを進めるのは外的世界からではなく、内的世界からです

つまりそれは、インナーチャイルドとインナーアダルトの融和であり、その融和を担うのが身体知性という新たな「私」の存在であり、身体知性としての自己意識の確立が内的融和において非常に重要になるわけです

そうして身体知性としての「私」が、衝動的なインナーチャイルドに寄り添い感情を解放させ、一方で理性的で規範的なインナーアダルトの手綱を引き、インナーチャイルドを許せるように促していく

そうして一人ひとりの中のインナーアダルトとインナーチャイルドの内的融和が起こることが、結局のところ親子や家族、そして会社や国家といった集団における外的融和にもつながると考えています

これは、何かの文献に書かれた理論でも、科学的に検証されたものでもありません

私がパニック障害で倒れてからこれまで出会ってきた様々な師の教えを綜合し、かつ自分の人生を通して実践し私自身が変容することで得た経験値でもあり、同時に他者の内的状態を探る中で見えてきたある程度の普遍性を期待できるものです

私は今、インナーチャイルド(衝動)でもインナーアダル(理性)でもない、「身体知性としての私」という新たな自己意識を確立しようとしています

それが現時点での「私」の傾向性であり、徐々に私以外の人にも、届けられる範囲で、私のこれまでの学びを届けていきたいと思う段階にまで私自身を引き上げてくれました

その「私以外の人」については、一旦のターゲットとして次の三者を考えています

  1. 自らの親に授かった負のバトンを消化しきれずに自身の子育てに悩む親

  2. そんな親子を救おうと悪戦苦闘するも、結局自らの内的融和が実現していないがために悪循環に陥る教育関係者

  3. 現代の分離的疲弊社会において、理性を中心とした成長前提の課題解決モデルでは成果的にもQOL的にも限界を感じるビジネスパーソン

この三者に、内的融和を目指した内的探究の支援と、結果としてのベネフィットを提供すること

それを、ある程度の具体性を持って検討できるほど、自らの理解が深まってきたのが今の「私」の傾向性と言えます

しかし、繰り返しにはなりますが、私にとってのこの三者の変容はあくまで副次的であり、主眼は私自身の内的探究であり内的融和です

全ての矢印は私自身に向けられているのであり、その投影、反映として、外界でもそれに応じた変化が起こります

その一つの現れとして、ここまで述べてきた具体的思索が存在しているのであり、それが逆転して外の世界が目的となることは足を掬われかねないので、このことには特に注意しながら、堅実に私自身の内的探究を進めていきたいと思います

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