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異端文学『眼球譚』を読んだらとんでもなかった

最近、ジョルジュ・バタイユにハマっている。

こんなに1人の思想家にハマるのは久しぶり。

処女作である『眼球譚』を読んでみた。

裏表紙にはこうある。

1928年にオーシュ卿という匿名で地下出版されたバタイユの最初の小説。(略)サド以来の傑作と言われるエロティシズム文学として、「球体幻想」を主軸に描き上げた衝撃作であり、二十世紀の文学史上、最も重要な異端文学のひとつとして評価され続けている。
『眼球譚<初稿>』ジョルジュ・バタイユ

「最も重要な異端文学のひとつ」。

どんなエロ小説かなと呑気に読み始めたら、「なんじゃこりゃ」と出出しから唖然とする描写と展開。

「待って待って。意味わからないよ、落ち着いて君たち。」

登場人物たちにそう呼びかけたくなる。

詳しい内容は、書けません。やばすぎて書けません。興味ある人は自分で読んでください。

どんな内容でしたか?って僕に聞かないでください。公共の場で内容は話せません。職質案件です。

エロ、グロ、ゲロ、死、罪、悪、なんでもあり。

なんでもありなんだけど、もちろんただめちゃくちゃに描いているわけではない。

第二部『暗合』で著者自身が、この眼球譚で描かれた自身の衝動、欲望、葛藤がどのような記憶、無意識から導かれたのかを客観的に捉え直しています。

私としては、この第二部での捉え直しまで含めて、眼球譚は素晴らしい作品だなと思いました。

バタイユは、自己治癒のために、自分の無意識まで潜り、この眼球譚を描き上げたのだと思います。

そしてこの表現の欲求が自身のどこから生まれたのか。その源は何なのか。それを紐解いていったのだと思います。

それは冷静で、安定した、客観的な作業ではない。

ひたすらに自分の闇を、悪を、醜を、その全てを抉り出し、乱暴に、しかし全体を繋ぎ止めながら、自分の身体と精神の全てを揺り動かしながら、超主観的な態度で書き上げたのではないかと思う。

客観的な視点が混じった瞬間、この作品に眠る躍動感と狂気はその動きを止め、その生命は即死んでしまっていたのだろうと思うから。だからバタイユはひたすらに主観で、私単一の世界に潜り込み、息を止め必死に潜り切ったのだと思う。その生命の躍動を感じる。

そうしてバタイユは、自分の中に眠っていた眼球への執着と性的倒錯の重なり、その他様々な情念の棲家を暴いていった。

そして非常に不思議なのが、バタイユの闇・悪の原初表現に触れると、なぜかこちらもカタルシスが起こる気がするのだ。

バタイユと同一の欲求や異常性が自分の中に宿っているわけでない(そう信じたい笑)。

しかし、誰もが必ず待つ自分の内の悪・闇・罪といったものが、どこかで呼び覚まされ、そしてそれがバタイユの描き上げた文学を通して流れ、浄化されている気がするのだ。

それは私の中から悪といったものが流れ、失われ、健全性や善性に向かうわけではない。

むしろ自己に眠る悪が呼び覚まされ、浮かび上がり、それと対峙し、私の部分としての存在感が増すのである。

そしてそれは異常性ではなく、むしろ聖性である。その境界線で、悪即善となる。

生きていく中でどこかで失い、閉じ込め、忘却の時間の中で腐敗しドロドロとなった私の片身が甦るのである。

この悪性は私の左半身なのだ。

バタイユの悪を借りて、私は私の失われた片身と出会う。

その片身を再び嫌悪し闇に葬り去るのか、黒く燃え盛る接点から私に統合し直すのか。

この選択ばかりは私に託されているのであり、死を生きるのか、生を死ぬのか、その態度が問われているのである。

バタイユ、最高。

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