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フロイトのエス・自我・超自我の考え方がおもろい

バタイユの入門解説本を楽しく読んでいる中で、フロイトの考え方が出てくるのですが、これが結構面白い。

どういう観点から面白いかというと、私の脱枠組みのプロセスに照らし合わせると結構うまく説明ができる。

以下は厳密にフロイト先生の言っていることとズレているかもだけど、私の理解範囲での説明。

まず自我というのは「私は〜」と記述できる、私が私だと思っているもの。

そして超自我は理想・理性・道徳・規範といったものを自我である『私』に押し付けてくるもの。

私たちはこの超自我を観念として育てていく中で社会性を身につけていく。

この超自我を、自分が生存する社会・文化背景と共通のものとして形成し、自我である『私』をコントロールしていくこと。これが「教育」といえる。

さてさて、この超自我の方向性は「上昇的」だなと感じる(これは私独自の解釈です)

もっともっと。

より良く、より善く。

理想的で、理性的で、平和的で。

そんなかちっとした、一見すると美しい、目指すべき何か。

この方向性はとても上昇的で、私たちはその上昇の流れにどんどんと引き込まれていく。

それは教育でも、仕事でも、家庭でも、人生でも。

現代の全ては、非常に上昇的である。

これは恐らく、人類全体が神という宗教中心から決別を果たし、理性と科学の力を活用(度が超えて信仰)し始めてからの近代の流れなのだと思う。

そしてこの上昇的方向性を志向し、大きな機構として『私』をその機構の中の部分に落とし込み、貢献させることで維持、運営していくもの。

これが私が『枠組み』と名づけるもの。

それは会社、国家、家族、時に表面的な「友人関係(典型的なママ友とかもね)」も含まれる。

その枠組みの中にはロール(役割)が存在する。

このロールを私に被せるのも超自我の働きといえそう。

思考という観念の中で作り上げられた共通見解としての『私』の『ロール』。

そして私たちはそのロールに色々なストーリーを付け足していく。

幸福、平和、理想、成功、などなど。

そしてロールとストーリーが結びつくと、自分がロールを演じることすら忘れ、私=ロールという状態になる。

そして、ロールの成功と幸福=私の成功と幸福、という状態が生まれる。

そのストーリーのシナリオに私たちの感情は揺り動かされ、快、幸福、成功を求めて必死に走り続ける。

これが私が「モード」と名づけるものである。

さて、この超自我による理性でみんなが文字通り幸福に暮らせるなら何も問題はない。

けど残念ながら、それでは問題だらけだ。

私たちの中にある何かが疼き、葛藤し、暴れ始め、時に狂気となる。

それは暴力となったり、神経症となったり。

私が倒れたのもこれである。

この作用がフロイトの言う「エス」の働きである。

衝動的、野生的、自然的な、野蛮で粗悪な何か。

私たちの中に眠る無意識の集合。それが「エス」。

そのエスが『私』という自我に働きかけてくる。

つまり、私と言う自我は常に二つの力の間で苦しむ。

理想・理念・規範といった超自我。

衝動・野蛮・粗悪といったエス。

このエスの方向性は、下降的に感じる。

私が枠組みの中で窒息したのは、このエスが暴れ回ったからだ。

では、このエスが暴れ回るのは悪いことなのか。

私はそう捉えない。

このエスを、放出させよ、と。解放せよ、と。そう捉える。

それは非社会的な表現だ。

醜く、汚く、罪深く、闇であり、悪であり、衝動的で、狂気で、暴力的で、脆く、弱く、無用で、無意味で、死的な何かである。

それは超自我優位の自我からすると、否定したく、拒否したく、嫌悪したくなるものである。

そのエスから生まれる何かを抑圧し閉じ込めるのが、今の社会の教育でなされる上昇的な方向性。

すなわち社会適応である。

ただそれでは、人間の片手落ちである。

図示するなら、頭だけ肥大化した、それこそ化け物である。

理性と、理想と、理念と、規範と、常識と、そういった頭、思考、頭脳の産物。

頭ばかり肥大化し、心と身体を置いてけぼりにした非人間的な怪物。

肥大化した頭が前面に突き出し、矮小化した胸部と身体が後方に置いてけぼりにされたもの。

それが現代の理想的・理性的な人間感が作る教育的産物の「私たち」である。

その先に行くためには、下降的な方向が必要なのである。

醜く、汚く、罪深く、闇であり、悪であり、衝動的で、狂気で、暴力的で、脆く、弱く、無用で、無意味で、死的な何かを抱きしめにいく。

自分の中にそういったものが確実に存在していることを自覚すること。

直視すること。

受け入れること。

それを嫌悪する方向性こそ、むしろ超自我による規範、常識といった実体のない観念による作用だということを腹落ちすること。

そうした自分の中のエスを受け入れ、統合していくこと。

そうすることで頭でっかちの怪物は、動物的な自然的な血生臭と共に、心と身体を取り戻すのである。

そうした上昇と下降の統合を進めた全円的な人間が、失われた片手を取り戻した人間と言える。

全円的な人間は、他者を自分の中に観る。世界を自分の中に観る。

醜く、汚く、罪深く、闇であり、悪であり、衝動的で、狂気で、暴力的で、脆く、弱く、無用で、無意味で、死的な何かを直視し、受け入れ、統合した後、私の中に、他者と世界の全てが含まれていることを知る。

すると、他者と世界には何も嫌悪することも、反感することも、戦うべきものも、何もないことを知る。それらは全て私であり、私しかいないのだから。

それは上昇と下降の両方向性を超えたもの。

それを真の善だとか、真の平和だとか、真の人間だとか、そう呼ぶことすら避けた方がいい。

そうすることはまた、上昇的な理想・理念・理性の中に飲み込まれるからだ。

言葉にした途端、全てが理性の餌食となる。

超自我の理性を緩めて、エスを抱きしめ、自我を統合に向かわせる。

それが「脱教育」である。

そしておれがやりたいのもこれ。教育ではなく「脱教育」。

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