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傾聴とは、声の質感に全身を浸すこと

最近、仕事をする時に心がけていることがある。

それは、傾聴。

ただ傾聴と言っても、耳を使った傾聴ではない。

全身を使った傾聴である。

最近自分の中で、傾聴の質が変わってきた、気がする。

言葉の内容に注意を向けるよりも、声の質感に意識を向けている。

声の質感には言葉からは得られない情報が含まれている気がする。

私たちは向き合いたくない感情に対して、理性で解釈を与える。

「あれは仕方のないことだった」とか、「あの人のためを思って」とか、そういった綺麗でいい子な解釈を並べる。

そうして私たちは向き合いたくない「私」から目を逸らし、理性の中に逃げ込むのである。

そうした理性に紡がれた言葉は、確かにその内容だけ聞くと、それらしく聞こえる。

しかし、その言葉の内容に注意を向けても、表面的なものにしか触れられない。そこに本質はない。

そこで、言葉ではなく、声の質感に意識を向けてみる。

声の質感に全身を傾ける。預ける。委ねる。

それは声の質感に全身を浸す感覚に近い。

没入するとも言えるかもしれない。一体となるとも表現できるかもしれない。

そうすると、言葉からは受け取れない情報を受け取ることがある。

声の質感は時に角ばっていたり、滞っていたり、棘のような瞬間的な鋭さを伴っていたり、様々だ。

時にそれは、聞き手である私の身体感覚を呼び起こすこともあれば、ビジュアルのようなイメージが私の視界に飛び込んでくることもある。

理性に逃げ込んだ人の出す声の質感は、ピリピリと頭のあたりを上滑りしているようなものに、私には感じられる。

そういった理性から紡がれた言葉にはある特徴がある。

「私」がいないのである。

理性は、「私」という主語を失わせる。

「親が」「みんなが」「あの人が」「先生が」「会社が」「子どもが」「社会が」

そんな、「私」以外の主語。

理性は私たちに「他人 > 私」という優先度を与える。

そして「私」を出すと全てがうまくいかなくなるような気にさせてくる。

そんな「私」を失った言葉は、あのピリピリとした声の質感と共にやってくる。

だから私は、聞き手と共に探究する。

その人の「私」を共に探しに行く。

その人の「私」の本当の欲求、恐怖。

そういったものを一緒に探しに行く。その人自身もわからなくなってしまった「私」を探しに行く。

その時、その人にかける自分の声についても、言葉以上に質感に意識を向ける。

深く、ゆったりとした、滞りのない、広大な大河の静かな水面のような、澄んだ、澱みのない質感。

そんな質感が届くように、意識の重心を下げて、自分自身のその質感にも浸りながら、相手の質感に届ける。

そうして質感がうまく混ざり合うと、その人は「私」を探しに潜り始める。

その時邪魔するのも、理性だ。

「こんな自分を出してはいけない」「自分は親としてしっかりしないと」

そういった理性がまたその人の「私」を奪おうと迫ってくる。

だから私は、自分の質感を使って、相手の質感にこう声をかける。「大丈夫。大丈夫。大丈夫だから」と。

そうして潜ったその人は、久方ぶりに「私」と出会う。

「私」の欲求、喜び、悲しみ。そういったものに出会う。そういった「私」がこぼれ落ちてくる。

その時、相手の声の質感は明らかに変わる。

ピリピリとした質感だった声は、深く、少し微睡んだような、少し重たいような、けどどこか純粋な愛おしさを感じさせる質感に変わる。

何かを溜め込んできた子どもの涙を見た時の感覚に近いのかもしれない。

そうしてやっと、「理性」によって奥底に閉じ込められ、息ができずに苦しいと叫んでいた「私」が現れ出てくる。

これが最近の私の、傾聴である。

「聴く」ということ1つとっても、とんでもなく奥が深そう。

日々鍛錬、日々探究。ですね。

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