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思考を捨てて「私は…」という存在感覚にしがみついたら何が起こるのか?
久々にこの本を読んでます。
長いのですが、結局のところ、これしか言ってないと思います。
「私は在る」という存在感覚にしがみつけ
これだけなんですよね、恐らくこの爺さんが言っていることは。
ただそれだけ言っても思考優位の現代人は聞く耳持たないから、あの手この手で問答しているうちに本が分厚くなってしまったのだと思います。
そして私は、タイミング的にこの爺さんの言っていることがなんとなくわかります。そしてそこに何かがあるのもなんとなくわかります。
なので、やってみようと思います。実験的に。
ただし、若干の修正を加えます。
まず一つ目。
「私は在る」ではなく、「私は・・・」という存在感覚にしがみつきます。
「私は在る」だと、意識の働きがあまりうまくいっていない気がするからです。
これは私個人の意見ですが、「私は在る」ではなく、「私は・・・」で留めた方がいいと思ってます。
「私は◯◯」と私を修飾すると私の意識は外の世界に向かいます。いやむしろ、外の世界を作り出してしまいます。
そしてそれは「私は在る」という言葉も同じ機能を若干持っている気がします。「私」という架空幻想を作り出してしまっている感じがする。
英語で書かれている「I am that」も、「that」という架空幻想を自分の外に作ってしまうので不要です。
なので、「私は・・・」に留める。(英語にするならひたすら「I am ... I am ...」ということですね)
「私は・・・、私は・・・、私は・・・」という感じで、外に向かって開いていってしまう意識を常に自分の内側に引き戻すわけです。
さて、私が実験する具体的なやり方は以下の通り。
可能な限り長い時間、いかなる時も、「私は、私は、私は・・・」と唱える(もはや寝ている時もね)
唱えながら意識は下腹部の内側に向ける
意識が「私は・・・」から外に向かい思考や感情が動いた時は、そのひっかかりの原因を探る
ひっかかりの原因を身体感覚にまで落としてリリースする
終えたらまた「私は、私は、私は・・・」という存在感覚に戻る
これつまり、「思考すら手放す」ということです。
正確には「思考は自分の意図でしている」という思い込みを手放すということ。
思考は勝手に起こります。だから起こるがままにします。
「あ、明日のこと考えないと」とか、「昨日はああすべきだったのかな」とか、考えないです。まあ起こったらそれはそれ。「思考が起こったなー」で終わり。思考と自分を自己同一化しません。
そしてなるたけ自分からは思考は起こしません。(というか、思考は常に自分が起こしているわけではないのですが、自分が起こしたと勘違いすることを止める、という意味です)
ただ、どうしても思考してしまうことがあると思います。
「将来、不安だなぁ」とか、「あの人は自分のことをどう思ってるのかなぁ」とか、ぐるぐるぐるぐる、感情と思考がまぜこぜになって、意識が外に向かう。
こんな時、「私は・・・、私は・・・」という存在感覚にしがみついていられなくなると思います。それどころじゃない。外の世界に引っ張られてしまう。
いや厳密には、外の世界というものは想定しません。意識が、自分の内面の反応として、そうした世界を作り出していると考えます。
こんな時、どうするのか?
そうして意識が「私は・・・」という存在感覚から離れた時、その原因を自分の内側に探しにいきます。
外の世界には探しにいきません。それは結局のところ、思考の渦に巻き込まれるだけだからです。終わりなきゲームに巻き込まれてしまいます。なぜなら外の世界は自分の内側が作り出した幻影のようなものなので、そんなことしても、蜃気楼に浮かぶ憎い敵をぶん殴っては空を切る、を繰り返しているようなものだから。
なので、内側へと向きを変え、潜っていきます。
例えば、「将来不安だなぁ」を、「私は何が不安なの?」に換えます。
そして自分の不安の正体を探りに潜っていきます。
そして、「ああ、これが不安なのか」「そうかそうか」と、あらゆる感情を受け入れます。
自分で自分の感情を受け入れ、赦すわけです。
これを赦すことに時間がかかると思いますが、辛抱強くいきます。(この時、他者の力を借りる必要もあるかもしれません)
潜る時、「身体感覚」を用います。
「なんか胸のところにつっかかりがある」とか、「なんか喉の辺りが苦しい」とか、「下腹部がぐるぐる熱い」とか、そうした身体感覚です。
そうした身体感覚が起こったら、それに気づいて、その声を聞こうとします。
身体感覚を使い、「私は何が言いたいの?」と潜る。
「私は怒っているのだと思います」という客観的説明は、結局のところ「私」という架空幻想を作って思考がわかった気になっているだけなのであまり意味はありません。
「怒っている」のは誰か?という問いで意識を内側に向け、「私は・・・、私は・・・」と思考で意識を外にひっくり返さずに常に自分の存在感覚を主観的に、内的に捉え続けるわけです。
そうして、身体感覚に浸り、泣きたければ泣けばいいですし、叫びたければ叫べばいい、ということですね。
つまりは「私は・・・、私は・・・」という下腹部の存在感覚へのしがみつきが外れてしまったら、「なんか引っかかりがあるから内面に潜りなさい」というサインだと捉えるということです。
これをずーっとやる。これが要諦です。
繰り返しになりますが、
可能な限り長い時間、「私は、私は、私は・・・」と唱える
唱えながら意識は下腹部の内側に向ける
意識が「私は」から外に向かい思考や感情が動いた時は、ひっかかりの原因を探る
ひっかかりの原因を身体感覚にまで落としてリリースする
終えたらまた「私は、私は、私は・・・」という存在感覚に戻る
ということですね。
これをやったら自分が、人生が、どうなっていくのか?という実験!
をしたいと思います。
まだこれから明らかにしていくことになると思いますが、結構面白いことが起こっていくと感じてます。
一緒に実験してくれるお仲間いたら、ぜひ一緒にやりましょう。結構楽しいと思う(マニア)
「頑張るのに疲れた」「なんか自分の人生生きている気がしない」「なんか今の環境がしっくりこない」「思考過多で辛くなりがち」「感受性豊かですぐに傷つく」「思考優位な生き方に限界を感じている」
みたいな人にオススメです
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