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悪口ノートのススメ

私はぶっ倒れました。

その時にやったことの一つは、汚い言葉で悪口を手帳に書きまくるということです笑

聖域なしです。言葉選びなしです。

家族も、会社の人も、友人も、先輩後輩も、先生も、彼氏彼女も、全員対象です笑

何書いてもOKです。

死ねでも、クソでも、ハゲでも、ウンコでも、何書いてもOKです笑

どうせ誰にも見せないんですから。

私たちは、教育の過程で、大人になっていく過程で、理性を働かせられるようになります。

理性を働かせるとは、いい子ちゃんになるんですね。

何か嫌なことがあっても「それを我慢するのが社会人だ」とか。

何か辛いことがあっても「みんな頑張ってるんだから」とか。

何か悲しいことがあっても「こう考えたらそんなに悲しくなんてないでしょ」とか。

そうやって逃げ道を作るんですね、理性は。

そして原初の感情に出会えなくさせるわけです。抑圧させるわけです。

これが狡猾な理性の手口です。

みんな頑張ってるんだから?

知るかボケ!

おれは頑張りたくねーんだよ!ピーーーーーーーーーー(放送禁止用語の悪口)

みたいなことを書きまくるわけです。

とにかく書きまくる。

考えずに書きまくる。

何も思いつかないなら「何も思いつかない」と書きまくる。

手に、身体に、心に、全てを委ねて、悪口を書きまくる。

そうして理性を緩めるわけです。

そうして全てを吐き出した後に、こう自分に問いかけてみるのです。

「私は結局、何が欲しかったんだろう?私は結局、どうして欲しかったんだろう?」

2022年の7月の手帳を見返すと、こう書いてありました。

「認めてほしかった。褒めてほしかった。必要とされたかった。評価してほしかった。それが全てだった」

私の原初の感情は、これだったんですね。

ひたすら悪口を書き殴ることで理性を緩め、原初の感情に出会う。

そしてそれを「私は〜」という主観で記述する。

そうした時に、何か下っ腹の方に熱を感じたり、グルグルしたり、そういった身体感覚を感じて、スーーーっと何かが抜ける瞬間がある。

涙が出るなら、思いっきり泣けばいい。

「泣いたらダメ」も狡猾な理性の仕業。

「泣いたらダメ」も教育の刷り込みです。

そうして悪口を読み返して、「いやあ、秀逸な悪口だなあ」と突っかかりなく笑って読み返せるようになったのなら、

あなたは一つ、変容したのです。

問題は何も解決してないのに、問題はそもそもなかったということに気づくのです。

手帳かノートを買って、悪口を書き殴ろう。

教育で受けてきた刷り込みを外していこう。

これが本当の自分に出会うための脱教育のプロセスです。

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