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●短編小説●薬指とコークハイ


「鼻、高いんだね。」

水滴のびっしりついたロックグラスを左手に、すっかり赤ら顔の武本がつぶやく。何度かグラスに口はつけているものの、15分ほど前から、中身は一向に減っていないようだ。

「…よく言われます。」

実際によく言われることなので、つい素っ気ない返答になってしまった、とクミは少し申し訳ない気持ちになった。
武本は意にも介せず、といった様子で、またグラスに口をつけている。ずいぶん酔いが回っているのだろう。優しげな細い目尻が、いつにも増して垂れ下がっているように感じた。

「次、なに飲む?」

どんなに酔っていても、周囲の飲み物が無くなっていることに誰よりも早く気づくので、会社では「武本センサー」と呼ばれている。
本人が次はなにを飲もうかな、と思うよりも、ほんの一瞬早く声を掛けてくるので、本当にセンサーみたいだな、といつも思う。この人には、どれだけ周囲の人間のことが見えているのだろう。

「えーと…コークハイでお願いします。」

カウンター越しに、氷を準備しながらこちらを伺っていたママさんに伝える。

「そろそろソフトドリンクが良いんじゃない?大丈夫?」

さすがは気遣いの男、武本。どんどん飲めと煽ってくる、それしか楽しみがないようなおじさんや、酒に溺れた女体を狩ろうと夜の街に巣食う、不埒なオオカミどもとは違う。

「大丈夫です!今日は飲みたい気分なので!明日休みですし!」

それならいいけど、ほどほどにね、と笑う口元には、少し大きめの歯が綺麗に並んでいる。男の人の歯並びに目が行くのなんて、何年振りだろう。

最後に付き合った男は、歯並びが良くなかった。付き合いたての頃には、なんだかやんちゃな子どもみたいでかわいいとさえ思っていたのに、別れる頃には嫌悪の対象でしかなかったな、と、出来立ての、氷が溶けていないコークハイをぐびっとノドに流しながら思う。

「クミはホントに鼻が高くてキレイだよな。」

乱れた歯並びから発せられた褒め言葉に、なんかコントに出てくる外国人みたいで嫌いなの、と目を見ずに答えたことを思い出した。
それでもやたらと鼻を褒めてくれるものだから、いつのまにか高い鼻はコンプレックスではなくなっていた。

「ー鼻、高いんだね。」

武本が数分前に言った言葉が、頭の中をぐるぐると回っていた。高くてキレイだね、と言ってくれたら良かったのに。それかいっそのこと、コントに出てくる外国人みたいだね、とでも茶化して言ってくれれば、今の私なら他に返しようもあっただろう。

小ぶりな青いガラス皿から、カシューナッツをひとつ左手でつまみ、口に運ぶ。アーモンドやクルミよりも、少し柔らかくて、ほのかに甘い味わいが、今の気分にピッタリだった。

どういう意味で言ったんだろう、と、武本の言葉の真意を探りたくなってしまうのは、なぜだろうか。

「武本さんこそ、飲み過ぎじゃないんですかー?さっきから全然減ってませんよ!」

全然酔ってないよ、と真っ赤な頬を緩ませて言いながら、やはり飲むペースはほぼ牛歩だ。氷がほとんど溶けたロックグラスの中には、何とかという名前のウイスキーが、ほぼ水じゃないだろうか、と思うくらいに薄まっていた。


武本とは、2年前に配属された部署で初めて会った。180センチを越す長身と、がっしりとした胸板が相まって、何かのスポーツ選手みたい、というのが第一印象だった。

数日後に開催されたクミの歓迎会でとなりの席になり、実際には、学生時代にスポーツは何もしていなかったと聞き、驚いた。根性がないんだよね〜と、競争心の無さそうな笑顔で少し恥ずかしそうに話す横顔が、なぜか印象的だった。

「見て見て、この間撮ったんだけどさ〜。」

スマートフォンの画面をこちらに向けながら、話しかけてきたのは武本だった。
大きなゴツゴツとした手に握られた小さな画面には、麦わら帽子をかぶった3〜4歳くらいの女の子が写っていた。

「え、かわいい!娘さんですか?」

配属されて間もないタイミングでの飲み会では、このくらい自分から会話のネタを提供してくれる人がいるとありがたい。

「そうそう!子供服屋さんの前を通りかかったらかわいい帽子を見つけちゃって、つい衝動買いしちゃったんだ〜。」

そう言いながら穏やかに微笑む横顔は、ザ・良いパパ、という雰囲気だった。こんな人が相手だったら、きっと幸せな結婚生活を送れるんだろうな。気づくと、そんなことを考える年になっていた。20代も半ばを超えると、高校の同級生たちが次から次へと結婚していく。もちろん、結婚したくないわけではないが、特別焦るような気持ちもない。

数日前にみた動画では、現代社会では結婚するメリットよりもデメリットの方が大きいと、心理学の専門家が語っていた。そんな動画を見たばかりだからだろうか。会って数日しか経っていない男、しかも8つ年上の上司の隣で、結婚生活を想像している自分がなんだかとても恥ずかしくなって、ぬるくなった瓶ビールで、腹の底へと流し込んだ。



「いやー、それにしても、今回はよく頑張ってくれたねー。」

ロックグラスを氷水の入った背の高いグラスに持ちかえて、武本が言った。グラスに薬指が触れて、キンッと小さく響いた。

今回の飲み会は、社内ではそこそこ大きな部類に入る、新しいプロジェクトを無事に終えての打ち上げのようなものだ。ようなもの、というのは、メンバー全員で行う正式な打ち上げが一ヶ月後だというのを聞いて、それまで待ちきれなくなったクミが、武本に声をかけて開催した、少人数の飲み会だからだ。二次会で訪れたのは、今日の参加者の中では一番年長者である武本が、時々来るという、落ち着いた雰囲気のスナックだった。

二次会、と言っても参加者はクミと武本の二人だけになっていた。他のメンバーは、すでに各々の帰路についた。同じ駅を利用するからと一緒に歩きだしたその後で、もう少し飲みたいです、と言い出したのは、クミの方だった。自分でもすこし驚いた。武本はというと、驚いた様子ひとつなく、それじゃあ、落ち着いて話せるようなところがいいね、と、この店に連れてきてくれたのだ。
白と濃い木目で統一された店内は、オレンジ色のあたたかい明かりが控えめに灯されている。無駄口は叩かない、といった様子の、優しそうなママさんが立つカウンターの向こうには、ウイスキーやら焼酎やらのボトルがズラリとならんでいる。スナックと聞いて少し身構えたが、なるほど、武本らしい、ゆったりとした空気感の落ち着くお店だ。

「同じこと何回言うんですかー!」

口ではそう言いつつも、クミは武本に褒められるたびに、心の中で喜びを噛みしめた。褒められただけで心がワクワクするように跳ねるなんて、いつぶりだろうか。この感情が、大変な仕事をやり切った満足感だけではないことは分かっていた。

武本は、わずかに水滴のついたグラスをぐいっと傾けて、あっという間に水を飲み干した。引き締まった首筋では、喉仏がごろっと上下している。グラスをコルク製のコースターに乗せようという瞬間に、新たなグラスがカウンターに差し出された。艶やかな黒いジャケットを着たママさんが、飲みすぎだよ、とでも言いたそうに、柔らかく微笑んでいる。ああ、なんと心地のいい空間だろうか。時間が本当に止まってしまっては、それはそれで困るけども、もう少しだけ続けばいいな、と願いながら、氷の角が丸くなったコークハイを飲み干した。

思えば、若い頃ならまったく目に留めていないタイプの人間だ。体つきこそがっしりして頼りがいがありそうなものの、目尻の垂れた細い目と薄いくちびるには、どことなく弱々しささえ感じていただろう。

あの頃はなぜか、少し荒っぽいくらいの、自信満々です、みたいな男に惹かれることが多かったのに。誰にでも物腰の低い話し方を見るに、学生時代はクラスで目立つような人種ではなかったのだろう。その頃の同級生だったとしたら、気になってすらいないと思う。それが今はどうだ。年月は、恋愛観すら変えてしまうものなのか。氷水を口に運ぶ左手を眺めながら、そんなことを考えた。

「…そろそろ帰ろうか。」

日付が変わる直前に口を開いたのは、武本だった。定期購読している女性誌のコラムに、狙っている女と酒を飲んでいる時の男は、わざと終電を逃させるために、矢継ぎ早に話題を振って時間を忘れさせると書いてあったのを思い出した。まぁ、このスナックは最寄駅まで三十分はかかるところにあるので、酔っ払いにとっては、そもそも帰りはタクシー一択なのだが。

そうですね、と答えながら、なんで今、そんなことを思い出したんだろう、と不思議になった。武本が私を狙っているなんて、そもそもあり得てはいけないことなのだ。

当たり前だよ、とばかりに会計を済ませている後ろ姿を見ながら、一応財布は開けておく。年上の男が奢って当然、なんて考えは毛頭ないが、前にしつこく食い下がった時に、「俺たちも先輩から同じようにしてもらってきたんだから、後輩の子たちにご馳走してあげてね」と、丁寧に断られていた。それでも、奢ってもらって当然とは思っていませんよ、という気持ちを伝えたくなってしまう。そんなことを気にするなんて、なんだか付き合いたてのデートみたいだな、と思って可笑しくなった。

スナックの前にタクシーが停まった。ママさんに見送られながら、後部座席に乗り込む。なにやらママさんと一言二言交わした武本が、後から乗り込むと、タクシーは走り始めた。

繁華街の外れにあるスナックからは、ミクの家まで15分、武本の家まではそこからさらに10分ほどかかる。武本と話しているうちに、一瞬意識が飛ぶようになってきた。眠たい。鈍く光る薬指をアテに飲んだコークハイは、思いのほかクミにダメージを与えていたようだ。気づくと、道端に停まったタクシーの中で、膝を揺らされていた。

「桜井さん、着いたよ、家。」

目の前には、すっかりいつもの顔色に戻った武本が、すこし心配そうに覗き込んでいた。

「…あ、すみません、寝てました。」

仕事つづきだったから疲れてるんだよ、と笑いながら、武本が先にタクシーを降りる。
後に続いて降りると、ドアが閉じて、タクシーが行ってしまった。

寝ぼけた頭で不思議そうにしていると、

「ドアの前まで送るよ。タクシーはまたすぐ拾うから大丈夫。」

と、武本がさらっと言った。

え、ドアの前までって、これ、そのままの流れで部屋に入って、盛り上がっちゃうやつなんじゃない?いや、相手は気遣いの武本だぞ、単に心配してくれているだけだ、なにを想像しているんだ、あれ、部屋片付いてたっけ?下着大丈夫だっけ?
回らない頭をぐるぐる回転させていると、あっという間にドアの前に着いた。バッグからカギを取り出す。

「じゃあ、ちゃんとカギ閉めるんだよ。おやすみ。」

あまりの呆気なさに、お疲れさまです、と口が勝手に動いていた。ドアを開けて部屋に入ると、カチャン、とカギを閉めた。

なんだこれ。いや、そりゃそうなんだけど。本当に何かあったらマズいんだけどさ。もうちょっとこう、職場の上司と部下がさ、二人きりで飲んでお互い結構酔っ払ってさ、年下の女部屋の前まで来てさ、おやすみ、ってそれだけか?いや、別に期待してたとか一ミリもないけどさ、そんな女じゃないけどさ、

「…飲みすぎたな。」

誰もいない真っ暗な部屋でつぶやくと、シングルベッドに倒れ込んだ。掛け布団のカバーがひんやりして心地よい。このまま頭も体も、心の温度も下がればいいのにな、と思ったが、それは叶わなかった。



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