Wネオテニーによる怪談噺芝居とドラァグクィーン玉三郎ショウ〜坂東玉三郎 × 春風亭小朝@歌舞伎座特別公演


一日だけの歌舞伎座特別公演

2024年7月25日 PM 6時開演
一、落語芝居 三遊亭圓朝口演
    怪談 牡丹燈籠 —御札はがし—  40分
  ( 休憩 30分 )
二、越路吹雪物語          50分
    パリの空の下(BGM)
    ①誰もいない海
    ②群衆
    ③白い夜
    ④愛の幕切れ
    ⑤ラビアンローズ
    ⑥愛の讃歌
 ピアノ=三枝伸太郎 シンセサイザー=飯田緑子
                  PM 8時終演
歌舞伎俳優である坂東玉三郎と落語家である春風亭小朝の競演。
いわゆる異種格闘技戦、異文化交流の試みではある。
ただ、異なるジャンルに居ながら、玉三郎と小朝には、ある共通点がある。
それは、一方は、歌舞伎俳優として人間国宝(存命6名、うち女方は玉三郎1名)、紫綬褒章(2014年)、文化功労者(2019年)の栄誉に輝くとともに藝術院会員となり、もう一方は、落語家として1980年に25歳にして36人抜きの大抜擢により真打に昇進して注目を集め、落語協会理事(2002〜2006年)をつとめ、やはり紫綬褒章(2020年)の栄誉に浴している。
つまり、玉三郎も、小朝も、歌舞伎と落語という、それぞれの伝統芸能の世界で押しも押されもしない実績も実力も、そして人気もある「大御所」であることは間違いない。
ところが、当代が幼名の「坂東喜の字」から1964年に14歳にして五代目として襲名した「玉三郎」の名跡は、歴史的には、いわゆる「若旦那名」、歌舞伎の名家の御曹司が当主(である親)が健在なうちにだけ名乗る若年俳優の名乗りなのである。
市川團十郎家における「海老蔵」、尾上菊五郎家における「菊之助」、松本幸四郎家における「市川染五郎」、中村歌右衛門家における「福助」、中村芝翫家における「橋之助」などと同じ格だということになる。
歴代の玉三郎の閲歴をみると、坂東姓の総帥たる「三津五郎」となる例(初代玉三郎。二代目は簑助となった)もあったが、現在は別に坂東三津五郎家が存在する(現在は当主が死去したあと、御曹司の巳之助の「八十助」ないし「三津五郎」の襲名を待つ状況)ので該当しない。
やはり、当代の養父十四代目守田勘弥の前名が四代目玉三郎だったことから、本来であれば、当代も順当に行けば十五代目守田勘弥を襲名して然るべき立場にある。
しかし、養父十四代目守田勘弥が、当代が24際の若年のときに亡くなり、玉三郎の他には直接の歌舞伎俳優の係累もなかったため、江戸三座の一つ森田座の座元名であった由緒ある「守田勘弥」の名跡は空席のまま現在に至ってしまっている。
三座のもう一方の雄であった中村座の座元名「中村勘三郎」が、三代目歌六の三男であった四代目「もしほ」によって1950年に十七代目勘三郎として再興され、人気俳優であったその長男五代目勘九郎が十八代目勘三郎を襲名して人々の記憶に残っていることと比べて、守田勘弥の名跡は忘却の彼方に置かれ、両者は雲泥の差が開いてしまったと言えよう。
また、小朝も、前座名(歌舞伎の幼名と同じい)「小あさ」と同じ読みのまま初代小朝として真打に昇進。この高座名は、小朝の師匠で、戦後の東京での落語ブームの際に古今亭志ん朝・立川談志・三遊亭円楽とともに「落語若手四天王」の一人と目されていた五代目春風亭柳朝の「朝」に由来する。「小」の方は、「子ども」を意味するから、当然、基本的には前座名としての命名である。
いずれは、師匠の「柳朝」を襲名するか、その実力からして、柳朝の師匠は八代目林家正蔵(亭号「林家」の総帥)であったことから、九代目正蔵を継ぐ可能性や、さらには明治以来「永久欠番」扱いされている「三遊亭圓朝」の襲名さえ、噂されていた。
しかし、八代目正蔵は、その襲名前に、五代目柳家小さんの名跡争いに負け、七代目正蔵の実子である林家三平の海老名家から名跡を借りる形で八代目を襲名した経緯があった。このため、三平が正蔵を継がないまま亡くなったあとに、八代目は正蔵の名跡を海老名家に返し、自ら「彦六」と改名を披露して晩年を送った。結果、三平の長男こぶ平が九代目正蔵を襲名して現在に至るが、本来、血縁主義の歌舞伎とは違って、実力主義の落語界において海老名家における名跡の血縁継承権の主張は一部には批判する向きも少なからずあった。
こうした事実関係と関連するのか、偶然の結果なのか、小朝は、三平の次女泰葉と結婚(後に離婚)し、一時期は海老名家の一員となっていた。
それでも、正蔵の名跡をめぐる経緯は、小朝も尊重し、九代目襲名を支援する立場をとった。
そうこうしているうちに、小朝は、襲名の機会を逸したまま今年69歳の齢を数えることになった訳である。
いわば、玉三郎も、小朝も、斯界の大御所でありながら、若旦那名のまま老齢に達してしまった、生物学で言うところの「幼形成熟」、「ネオトニー」の役者、噺家であることになる。
歌舞伎や落語などの「襲名」を必須の通過儀礼とする芸能の世界では、「名前が芸を大きくする」などと言われ、襲名によって、本人の芸も質的に大きく成長するとされている。
だが、玉三郎も、小朝も、そうした「襲名マジック」に一切頼ることなく、本人の実力(努力)とその結果の人気によって、「名前を大きく」して来た。
襲名は、確かに、役者や噺家として、より大きな存在となることを宣言する意味を持つが、同時に、その名跡の前任者の芸、いわゆる「家の芸」を継承する責任をも伴う。
逆に、襲名を避けることで、歌舞伎の「家」や落語の「一門」を率いる責任から自由な立場を取れるということでもある。
玉三郎という歌舞伎役者は、今でこそ人間国宝として伝統芸能の重要な継承者と見られているが、それこそ長く続いた六代目中村歌右衛門が劇界の頂点に君臨していた時代は、三代目市川猿之助(二代目猿翁)と並んで、歌舞伎界の異端児、伝統の破壊者だと名指しされていたものである。
落語界における小朝のあり方にも、これと似た側面があったことも、彼の閲歴から読み取れるだろう。
さて、老齢期を迎えた玉三郎と小朝が、いわば斯界のネオトニーとしての共通点があることを縷々述べて来た。
この二人が、歌舞伎座という大舞台で、小朝からみた大師匠八代目正蔵が得意とした芝居噺の元祖とも言える大圓朝の『牡丹燈籠』を語り、それを歌舞伎劇として何度も演じて来た玉三郎とともに「落語芝居」「怪談噺二人芝居」として演ずることは、適任以外の何ものでもない。
『牡丹燈籠』の小朝による枕は、「陰と陽」。物事には全て陰と陽があり、両者の組み合わせで物事が成り立つのだと説いた。
言うまでもなく、本席では、小朝が「陽」で、先行して話し始め、「陰」の玉三郎が観衆を怪談の奥津城へと誘う。
小朝の本筋を踏み外さずして、軽妙に話を運んで笑いを誘う手練手管はさすがに手だれ、玉三郎の座ったままでの仕方語りも本寸法の芝居そのもので、哀しい恋の物語と執念の恐ろしさを伝えて余すところがなかった。
できれば、またの機会に、この続きを、二人の「高座」で観たい、聴きたいものである。
  *
「越路吹雪物語」の方は、二つの高座は取り払われ、小朝は白のスーツに身を包み、紗幕の奥に設られた少し高くしたステージの上で、越路吹雪になり切った玉三郎がひとり朗々と彼女のシャンソンをその肉声で歌う。
いわば、ここでの玉三郎は、ある種の歌う女装者、すなわちドラァグクイーンなのである。
歌舞伎の女方が、クィアな芸態であることは言うまでもない。
これまでも、玉三郎は、京劇(昆劇)や沖縄の組踊の実践、鼓童とのコラボレーション、新派劇として演じられて来た泉鏡花作品への取り組みなどを通じて「女方芸を広げる」各種の試みに果敢に取り組んできた。
その彼が、日本のシャンソンを確立したとも言える越路吹雪になり切って「歌」まで歌う、というのは、いささか個人的な趣味に走り過ぎて、充分な鑑賞に耐える質の「芸」を観せられるかは半信半疑だった。
正直、彼のシャンソンの歌唱は、越路吹雪の表現力には、どうしても及ばない。
「恋多き女性」であった彼女の体験に裏打ちされた生々しい感情の起伏と、常に究極の「人工美」を追求してきた玉三郎とでは、シャンソンで歌われる歌詞の説得力自体が違って当然だ。
しかし、質感は異なるものの、この玉三郎がある種の憑依芸のように演じた越路吹雪の姿も、この人工美の極みのようなドラァグクィーンの(ある種のエグ味を売り物にする一般のそれとは大きく異なる)立ち姿も、彼が試みて来た「女方芸の広がり」のなかにあることが観て、聴いて、得心されるように感じたものである。
今回は、二演目とも、定式の引幕は用いず、緞帳が始まりと終わりを飾った。
カーテンコールは一回。高台のステージの上に立つ玉三郎が、上手の袖に控えた白スーツの小朝を呼び出して、客席とともに喝采を浴びせていた。

特別公演前の歌舞伎座正面 既に八月納涼歌舞伎の垂れ幕が





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