【聖書の解釈について】旧約聖書・キリスト教の研究-09/#145
旧約聖書の読み方
学者の解釈
旱魃が当時発生していて、雨を降らせてほしいと願ったエジプトの王が、国民全員に初子を神々への生贄として捧げるよう命令を出したという話だ。人々は、中央に火を置き、その火の中に初子を投げ入れた。この儀式はエジプト全土で行われたものだという。
旱魃を避けるために行われたものであり、イスラエルの民はこの儀式には加わらなかった。そのため、イスラエルの民の長子、つまり初子は助かったということだ。
また、このような生贄の儀式については、ヤーウェが行ったものとされている。しかし実際には、エジプトが悪魔崇拝に染まっていたため、エジプトの神々に対する生贄の儀式を国中で行った、というのが事実である。だから、学者たちはこのように解釈しているのだ。
アブラハムの信仰
アブラハムは旧約聖書に登場する人物であり、シュメールの都市ウルで生まれたと考えられている。『創世記』11章31節によれば、アブラハムの父テラは、息子のアブラム(後のアブラハム)、孫のロト、アブラムの妻サライを連れてカナンの地を目指し、カルデアのウルを出発する。しかし、彼らはハランに到達し、そこで暮らすことになった。ウルでアブラムが誕生したとされるが、これについては疑問が残る部分もある。
疑問の一つは、アブラム(アブラハム)がウルにいた頃、どの神を信仰していたのかという点である。ウルの守護神である月神シンを信仰していたのか、それとも後に信仰するヤハウェ(ヤーウェ)を既に信じていたのか、はっきりとした記録はない。少なくとも、彼の父親や親戚たちはヤハウェを信仰していなかった可能性が高いとされている。『ヨシュア記』24章2節には、アブラハムの父テラやその祖先が他の神々に仕えていたと明記されている。
この「他の神々」とは、シュメールやバビロニアの神々、特に月神シンを指すと考えられる。もしアブラハムの父テラがこれらの神々を信仰していたとすれば、アブラハムがどのような経緯でヤハウェ信仰に転向したのかは謎である。聖書にはその詳細が記されておらず、明確な答えは与えられていない。ひょっとしたらアブラハムは父テラの信仰を受け継いでいたかもしれないが、これもまた確かな証拠はなく、詳細は不明のままである。
アブラハムは当時の信仰体系に忠実な人物だったと考えられるため、彼も一般的な慣習に従って初子を生贄に捧げた可能性があるという見方がある。したがって、イサクが生贄にされかけたエピソードは有名だが、実はイサクが初子ではなく、アブラハムには既に別の初子がいた可能性が指摘されている。アブラハムが初子を生贄にしたとすれば、その子はサラの子であるかどうかは定かではないが、既に生まれて捧げられていたかもしれないという仮説が浮かび上がる。
また、アブラハムは非常に信仰深い人物であり、彼の信仰の根底には、過去世でエノクと繋がりがあったのではないかという推測もある。エノクが彼に語りかけてきたことが、アブラハムの信仰の核となっていた可能性が示唆されている。しかし、後のユダヤ教の教義や記述において、アブラハムが初子を火で焼く儀式を行ったという事実は記されていない。代わりに、イサクが生贄にされかけた際、羊が代わりに犠牲になったという物語が伝わっている。
これは、後にユダヤ教の教義を編纂した人々が、アブラハムが火で子供を焼いたというような行為を含めたくなかったため、別の形に置き換えられたという見方ができる。つまり、アブラハムも当時の宗教的慣習に従っていたが、後世の人々がそれを異なる形で再解釈し、記述を改変した可能性が高いということだ。
さらに、『出エジプト記』12章29節に記された解釈についても、悪魔崇拝や国王が国民にそれを強要した出来事が、後にヤハウェと天使たちの行為として記録されたという指摘がある。この点からも、ユダヤ教の経典は、当時の人々が信じたいと思った内容に基づいて書かれているという主張が成り立つ。アブラハムが初子を火で焼いたという事実を否定するために、代わりに羊が贖われるという神話が創られたと考えられる。
メタトロン:一般人の素直な解釈
エノクと関連する議論において、エノクは旧約聖書やカバラにおいてメタトロン、すなわちユダヤ教の神秘思想におけるメタトロンと称される。メタトロンに関しては異なる見解も存在し、それについて検討する。
まず、メタトロンは神と人間を直接つなぐ存在であり、預言者エノクの転生であるとされている(マルコム・ゴドウィン『天使の世界』)。ゴドウィンによれば、メタトロンの中にはサタンも内在していると述べられている。
ここで言及される「サタン」は、七大天使の頂点であるサタナエルとしてのサタンではない点に注意が必要。ここでの「サタン」は一般的に「悪」の代名詞として使用されており、メタトロンの中に「悪」が内在しているという解釈である。
『出エジプト記』にはメタトロンに関する記述があり、「見よ、わたしは御使いをあなたの前に送り、道であなたを守り、あなたをわたしの備えた場所へ導かせる」(出エジプト記23:20)とされている。これはイスラエルの子らを荒野で導いた神の天使に関するものであり、神そのものと解釈する場合もある。すなわち、神の使いである天使、すなわちエノク(メタトロン)であるという解釈と、神自身であるという二つの解釈が存在する。
この箇所については、神の天使、すなわちメタトロン(エノク)であると解釈するのが適切であり、彼は炎の柱として現れ、その顔は太陽よりも三千倍も輝いていたとされる。これは神そのものというよりも、案内役としての役割を果たすメタトロンであると理解すべきである。
次に、あるウェブサイトのの見解を紹介する。その要点は以下の通りである。「もし『出エジプト記』を読むならば、このヤハウェが怒りと嫉妬に満ちた執念深い異常な殺人者であることをはっきりと理解できるだろう。自ら選んだ人々に恐ろしい残虐行為を命じるため、知性ある読者なら誰でも、光の神の手というよりも激烈な悪の手を目にすることになるだろう」。
メタトロンはデミウルゴス、すなわち万物の創造主と呼ばれることもある。グノーシス派の文書では、メタトロン、すなわちデミウルゴスは闇の支配者であるサタンに他ならないとされている。
実際、グノーシス派は旧約の神、すなわちメタトロンをサタンと同一視している。しかし、これはいくぶん誤解がある。サタナエル、すなわち七大天使の頂点であるサタナエルがサタンだが、彼とメタトロンは全く別の霊的存在であり、混同すべきではない。ただし、「悪」という意味での悪の支配者としてのサタンという意味合いで捉えられる場合もある。
グノーシス派はこのように解釈している。彼らは旧約の神をサタンと見なし、善の神は新約の神であると考える。つまり、新約の神が善の神であり、旧約の神はサタンであるというのがグノーシス派の見解である。それは旧約聖書を読めば誰でもわかることであり、「あれは悪であり、サタンである」というわけである。
しかし、このグノーシス派の捉え方は、これまでの説明からすると誤りであると考えられる。旧約の神であるメタトロンは、いわゆるハイアラーキーのキリスト、すなわち前代のキリストであり、光の側、神の側に属する存在である。彼はヤハウェの使いである。
現在では、それがマイトレーヤ・キリストとなっている。キリストは代替わりするため、そのような形で理解される。しかし、旧約を読むと先述のように、エノク(メタトロン)の中に「悪」が見えると感じられる。キリストと言いながら光の主と言いながら、それは悪ではないのか、と。つまり、「メタトロンの中にサタンが内在している、悪が内在しているのではないか」という解釈が生まれるのである。
総合的に考えると、メタトロンは異様で不快な存在であると言える。特に気味の悪い点としては、血に飢えた天使であり、自分に背く人間を何百人も串刺しにして、荒野で蜘蛛の巣の中に死なせるという話も存在する。そのような恐ろしい存在であるという捉え方があるのだ。
では、これをどのように考え、何が正しいのかという問題になる。
旧約聖書は神の行った御業を記したものであり、それが正しい読み方であるとされる。しかし、それはあくまでユダヤ教やキリスト教を正当化する側の見解である。一方、学者たちの見解は異なる。彼らはより冷静で客観的に分析している。また、先入観なしに素直に読む人々の見解もある。何も知らない純粋な状態で読むと、旧約の神は気味が悪く、「この神は嫌いだ」と感じるのが一般的である。
このように、得体の知れない不快感を覚え、異様で不快な存在であると感じるのは自然なことであり、それでも神の使いであると言われるのである。そうすると、「メタトロンの中にはサタンも内在している」という考え方は、非常に的を射た捉え方ではないだろうか。確かに、神の第一の天使、すなわちミカエルやガブリエルよりも偉大で強力な大天使でありながら、その中にサタンが内在しているという解釈は、極めて正確な見方であると言える。これが最も素直な読み方であると考えられる。
モルモン教=エノク教(メタトロン)
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