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『大器晩成』のほんとうの意味を知っていますか?【セイスケくんのエッセイ】

大器晩成とは、慰めの言葉ではありません
四方八方、地平線が見えるほど広大な土地は四隅が見えない。
本当に大きなものは、いつまでたっても完成しない。
出来上がるのが晩(おそ)い。
未完だから用途が限定されない。
本当に大きなものは、大きすぎて実体がつかめない。

老子
ろうし

四方八方、地平線が見えるほど広大な土地を想像してみよう。どこまで行っても四隅が見えず、まるで無限に広がるかのようだ。本当に大きなものというのは、まさにこうしたもので、完成するまでの時間が他よりもはるかに長い。これが「大器晩成」の本質だ。晩成というのは、単に遅いということではなく、その過程に価値があるということだ。

完成が遅いからこそ、その途中で様々な可能性が生まれ、用途が限定されることがない。むしろ未完であるからこそ、その未完成の状態が魅力となり、新たな発展や応用が期待される。本当に大きなものは、そのスケールが大きすぎて全貌を把握することができない。それが巨大であるがゆえに、目に見える形での完成が遅れるということだ。

例えば、偉大な芸術作品や建築物、さらには長寿を誇る木々も、最初は小さく、目立たない存在だった。彼らは長い時間をかけて成長し、ついにはその偉大さを証明する。私たちの人生においても、大きな夢や目標を持つことは重要だ。それが実現するまでには時間がかかるかもしれないが、その過程こそが価値を生む。

したがって、「大器晩成」とは単なる慰めの言葉ではない。むしろ、それは私たちにとっての励ましであり、未完成の状態を楽しむための教えでもある。大きな目標を持ち、時間をかけて成長していくことの大切さを理解し、その過程を楽しむことが、真の成功への道となるのだ。


伝説のたそがれオヤジ

強者が富み、弱者が貧するこの娑婆世界では、世の中の「道」(タオ)の教えが受け入れられにくい。有為の人々にとって、ことさら何かをしない道の教えは、訝しがられることが多い。それはトンデモ本の一種か、学校の授業の一環、あるいは机上の空論として片付けられてしまうこともある。

道(タオ)の教えはこ世の住人には理解されにくいのだ。
理解できないままに、道(タオ)の教えに耳を貸さない人々はこう言う。
「あるがままとか、何もしないとか、そんなキレイゴトは通用しないヨ。働きもしないで、朝からパソコンに向かって詩や散文を書いて、まるで仙人のようだねw」と嘲笑する。
彼らは道の教えを聞こうともせず、ただ嘲り笑う。

しかし、それは仕方のないこと。この世では、本当に「あるがまま」に生きる人は少ないのだから。道(タオ)はこの世で楽に生きるための智慧であり、有為の教えを実践してきた人々にこそ響くものだ。若い時には様々な経験や失敗、成功を通じて成長するのも悪くない。しかし、今の充実した生活を送る人々には、道(タオ)の教えは必要ないだろう。

有為を実践し続けた人々が、ちょうどゴムが伸びきった状態になると、人は自然と元に戻り始める。違う自分になろうと無理を重ねていれば、いつか歪みが生じるものだ。そこで少し力を抜けば、徐々に本当の自分に戻っていく。

「ナンバーワン」の生き方に疲れた人が「オンリーワン」で慰められても、それは他と差別しているに過ぎない。「私だけ特別」と考えることは、他の人は特別ではないといううぬぼれを助長するだけだ。無理をして特別になろうとすれば、結局は同じこと。ゴム風船は膨らませるだけ膨らませれば、いつかパンクするか、空気を抜けばしおしおのぱーになるだけだ。

とある一家のオヤジ。
勤め人時代には企業戦士として大いに働き、稼ぎ、家族からも期待されていた。しかし、リタイアしてから黄昏れてしまった。職歴は部長、趣味も特技も部長。部長としての能力しかないオヤジは、今では居場所がない。家にいても何もすることがなく、うすぼんやりしている。元気ではあるが、居場所がない。

こうしたオヤジこそ、道(タオ)を実践している理想の存在なのだが、この世では「ヤクタタズ!」「カイショナシ!」と呼ばれる。
なんとまあ、道(タオ)はこの世で理解されにくいことか。

いにしえの言葉を引用してみよう。

大方無隅。大器晩成、大音希聲、大象無形。
大方たいほうぐう無し。
大器は晩成し、大音たいおんは声かすかに、
大象たいしょうかたち無し。

広大な土地は四隅が見えない。本当に大きなものは、いつまでたっても完成しない。できあがるのが遅く、用途が限定されない。あまりに大きな音は聞き取れない。本当に大きなものは、大きすぎて実体がつかめない。

モーニング娘。は、イエイイエイイエイイエイわかりやすい。
たそがれオヤジは、オタオタオタオタオタわかりにくにくい。

道(タオ)は、この伝説のたそがれオヤジ。のように姿が見えず、いるかいないのかわからない影に隠れたような名もなき得体のしれない存在。
だが、常によくそのエナジーを他のものに貸し与え、それによって一切現象を発現せしめる、生々流転の根源である。

[老子:第41章同異]

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