くつ屋のペンキぬり-03(小説)

 紹介された下宿は繁華街から少し北に外れて、ごつごつとした岩場の上にありました。高台になっていますから、丸屋根の家々が一望できます。まさしく、男が望んで止まなかった太陽近い国の光景です。これほど景色のよいところを、これほど安く間借りしてよいのだろうか。通貨が違うとはいいましても、ひととおり、訪れる国について学べることは学んできた男ですから、下宿の主人から言い渡された家賃が相場よりずっと安いことはすぐに分かりました。
「なんだい、別に首つりなんか起きてやしませんよ」
 下宿を管理しているのは顔に皺がいくつも走った老齢の女性でした。表情や手指から察せられる年の頃のわりに、髪はふさふさとして背中に付くほど長く、とはいえ白髪に"黒髪まじり"と言わざるを得ないそれが、砂埃の立つ風に吹きっ晒しになっているのでした。
「この国は風が強いし、なによりあの砂漠、この砂だろう。高いところは砂が飛んできて敵わないっていうので昔から、高台の相場は安いんですよ」
 なるほどそういうことならば頷けます。男は、自分の生まれた国でもあんまり高い丘の上は、つるっつるの氷の道を登るにも降るにも危なくて、住処としては避けられていたのを思い出しました。
 下宿はやはり白い丸屋根の、背の低い茸のような建物が、おざなりな廊下で横にいくつも繋がれています。ちょうど、茸を火であぶるために、串でも刺したようなぐあいです。向かって一番左側の少しだけ横に太い茸が、女主人の住居だと教えられました。男の間借りする部屋は、右の端から二番目です。
 炊事場だとか、家賃の集金だとか、そんなのを主人から立ち話で教わっておりますと、ほかの下宿人がなんだなんだと窓から、扉から、ひょこひょこ顔を出しました。見たところは勤勉そうな学生、鼻っ柱に油絵の具を付けた男、顔色の悪い姉とその腕にしがみついた妹、目深にフードをかぶった男か女かも分からないような者、などなど。いずれも新たな下宿人の様子が気になる様子で、女主人と並んでいるのが一目で異邦人と分かる男だと見ますと、ある者は物珍しそうに眼をしばたたかせ、ある者は興味深そうに顔をかがやかせ、ある者は興味なさそうにさっと部屋へ戻りました。姉妹のうちの小さい妹だけ、すぐ男へ駆け寄ってこようとしましたが、それを姉がすぐに引き留めてぱたんと扉を閉じてしまいました。
「そういうわけだから、雨風しのげりゃどんなところでもいい、ってワケありの人しか居付かないんです。とはいえ、根っからの悪人だけはいないからそちらさんも上手くやってくださいな」
 ひととおりの説明を受けたところで、男はさっそく部屋へと入りました。強い風でもびくともしないよう、扉は石細工で壁にぴたりとはめ込んであって、開けるのにたいへんな力が要ります。部屋はこじんまりとしたもので、天井は低く、寝床のほかにはちょっと胡坐をかくほどの広さしか残りませんが、素性も分からない異邦人を相手に、破格の家賃まで考えたら十分すぎるほどの城です。
 男は小さく一つだけ開いた窓から、そっと外の景色を眺めました。書物などではありません、本当にあの街の景色が、眼下に広がっているのです。男はこの景色が見られるならば、砂漠のただ中に野宿だって構うもんかと思いました。まぶたを閉じても美しい屋根の並びが脳裏へよみがえってきて、その日は一晩中、あまりよく眠れませんでした。

(続く)
(タグが果たしてファンタジーでよいのかどうかは悩んでいますが、少なくとも現代社会ではないよの意でとりあえずそっとつけています)

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