私はずっとセーラームーンになりたかった(エッセイ)

 3日前に公開された映画を2日前に観てきたので、「セーラームーンと私」みたいなことを書く。

 映画は本当に素晴らしい出来で、私の愛した彼女たちの姿だった。わずかなシーンのカットや新たな挿入箇所に、きっと今回の制作サイドの思惑やいま現在の武内直子先生の意図があるのだろうな、と思うが、それを語るにはもう2~3回見ておかねばいけない気がする。
 それにしても原作との一致や相違が瞬時で判る自分に、観ながら、自分で少し引いた。私よりも、よっぽど『美少女戦士セーラームーン』というコンテンツ、あるいは社会現象に明るい方がたくさんおられるだろう。
 私は「『美少女戦士セーラームーン』という物語」と「それに出会った私という人間にも物語が生まれ得た」ということに関して書く。

どこにもいる子どもだった

 いわゆる‟世代”というやつで、私はセーラームーンで育った子どもだった。毎週のアニメ放送を楽しみにして、翌週までの間を「次はどうなるのかな」「このピンチをどう切り抜けるんだろう」「私があの世界にいたら、新しい戦士としてうさぎちゃんを助けるのに!」なんて空想して過ごしていた。誰もが自らセーラームーンを助けに行きたがるわけではないのだ、と知ったのはずっと後である。
 世代といっても正確には、月刊誌『なかよし』の購読層よりはもう少し幼い。テレビアニメ化された当時の幼稚園生~小学生だった。年上の兄弟姉妹がいる場合なら、同い年でもなかよしを購読していたかもしれない、という年頃だ。
 私はたいへんに素直な子どもだったので、雑誌のタイトルに謳われるとおり『たのしい幼稚園』を読んでいて、やがては『小学一年生』を読む子どもだった(学年誌を『六年生』まで読み続けた同級生は存外少ないと思う)。私は本を読むのが異様に早い子どもだったので、『たのしい幼稚園』に掲載されていた数ページのセーラームーンの連載など一瞬で読み終えてしまい、やはり次の展開をあれこれと妄想して過ごした。付録の紙製の鏡台なんかもあっというまに作り終えて、暇で仕方ないので、一緒に付いてきたナントカレンジャーの合体ロボットの発射台を作っていた。
 おそらく私は、セーラームーンを見ている間は大人しかったのだろう。『劇場版セーラームーンR』と『劇場版セーラームーンS』のビデオソフトが実家にあり、擦り切れるほど繰り返し見た。今でもよく覚えている。

 幼稚園に行けば、流行っていたのは『セーラームーンごっこ』か『レイアースごっこ』だった。同時期に『セイントテール』も放映していて、これは私が生まれて初めて全巻揃えた(揃えてもらった)漫画コミックスである。セーラームーンのロッドやティアラは、幼稚園にあるモノでは自作できなかったから、新聞紙を細く丸めて剣のようにして、魔法戦士の海ちゃんのレイピアに見立てて友達と戦っていた。
 セーラームーンごっこになると、なぜか決まって私を敵役にしたい級友がいたので(特別に彼女の意地が悪かったとかではなく、幼い子どもにありきたりなわがままの範囲だったと思う)、当時は気が弱く(!)人見知りだった私はおとなしく敵役に収まっていた。別に、現在の私が敵サイドや悪役のドラマ性を好むこととは関係ないと思うが。実質的にはどの『ごっこ』も鬼ごっこだったので、名目をどれにするかの違いだった。我がことながら微笑ましい思い出である。

 クリスマスや誕生日のプレゼントには、セーラームーンの変身ブローチや武器のロッド、人形などをせがんだ。
 放映シリーズが新しくなるたびにアイテムも一新されるというあれで、毎度欲しがったが、もちろん毎回は買ってもらえなかった。記憶にあるのは『セーラームーンR』の丸いブローチ、『セーラームーンSuperS(スーパーズ)』のロッド、プリンセスセレニティのティアラ(頭に乗せる用途には向いておらず振動に合わせて音がする)。それから、前述の『たのしい幼稚園』の懸賞か何かでスターライツ(『セーラースターズ』から新登場する宝塚っぽい3人組)の身に付けていたインカムを貰った。
 遠方に住む叔父夫婦にセーラームーンの人形をねだったこともある。祖母の家でお土産として渡されたのはセーラーマーキュリーの人形だった。びいびい泣いた。母に叱られ、泣き腫らした目と不貞腐れた顔で叔父と叔母にしぶしぶお礼を言ったと思う。私は姪や甥に同じことをしないようでありたい。泣いたけれど、もらったマーキュリーは『レイアース』の光ちゃんの人形と一緒にしばらく私の大事な遊び相手だった。
 たまに連れられて行った少しだけ大きめのショッピングセンターで、カードダスが並んでいると一枚買って貰っていた。母から(おそらく本来は診察券などを収納するための)カードホルダーを与えられ、大した枚数ではなかったが、コレクションしてたいそう大事にしていた。

 これらのアイテムはいつの間にか、実家の自室から姿を消しているのだけれど、思い返すに今もわくわくとするし幼いながらも青春だったと思う。

コミックスとの出会いと別れ

 原作コミックスを読むに至ったのは小学校3年生くらいだった覚えがある。当時おそらくテレビシリーズは放映を終えていて、私がコミックスを買って貰ったのは、通っていたピアノ教室の下の階にある古本屋だった。

 いま思えば、どこかのだれかが途中まで集めて読むのを止め、手放したコミックスだったのだろう。母が買ってくれた原作は15巻までしかなく、これはテレビアニメで言うところの『セーラームーンSuperS』までを収録していた。私はテレビシリーズを熱心に観ていたから、セーラームーンのお話がここで終わりではない、続きがあるはずだと思っていた。
 思っていたけれど、どうしてだか母に続きが読みたいと言ったことはない。当時はそこまで思い入れがなかったのか、わがままを言うのは「怒られそうでいやだなあ」と思ったのか、あんまり15巻がキリの良いところで終わっていたから納得していたのか、定かではない。
 もしかしたら、頼めば買ってくれていた、かもしれない。私ほどのオタク気質ではないにしても、母は母でわりと漫画好きである。だからこそ、育ち盛りの子どもに手と費用の掛かる折に、いくら中古とはいえ漫画を15冊も買ってくれたのだろう。

 当時の私は原作とアニメとの違いがようやく分かるようになった頃で、雑誌なるものが学年誌以外にもあるのだと知り始めた頃で(『ちゃお』の付録らしき財布を持っている友達がうらやましかった)、のちに私の人生を別途狂わせることになる週刊少年ジャンプのことなどまったく知らなかった。
 ほとんど唯一の"手元にある漫画本"である『セーラームーン』を、前述の『セイントテール』と合わせて、私は表紙が擦り切れるほど読んだ。

 ところが、このコミックスを私は一度手放すことになる。きっかけも理由も覚えていない。おそらく、小学生くらいの頃にはよくあることとして、単に飽きたのだと思う。興味をなくしたのか、いつまでもセーラームーンなんて子どもっぽいと思っていたのか。
 この頃には、日曜の朝に『おジャ魔女どれみ』シリーズが始まっていた。夕方には『カードキャプターさくら』が、裏番組で『神風怪盗ジャンヌ』が始まっていて、まだまだ子ども向けの番組を視聴層として楽しむ年齢層だったので、父の見たがるニュースや野球中継や大相撲中継に時折阻まれながらも、楽しんでいたと思う。
 いつの間にか、セーラームーンは私の生活から存在感が薄れていた。

新装版と実写ドラマ

 ところで私は女優の北川景子氏がすきだ。出演作を網羅するほどのファンではないが、最も美しいと思う人間をと聞かれれば迷わず彼女の名を挙げる。雑誌『SEVENTEEN』のモデルだった頃から知っているので、当時の紙面での呼び名よろしく未だに「景子ちゃん」と呼ぶ。私と一緒にセブンティーンを眺めていた母もやはりテレビを前に「景子ちゃん」と呼ぶ。景子ちゃんは景子ちゃんである。
 私が彼女を知ったきっかけこそ、実写ドラマ版『美少女戦士セーラームーン』である。そこに出演していた北川景子ちゃん、安座間美優ちゃん(やはり紙面での呼び方にならう)の活動を追うべく、セブンティーンを買い始めたのが中学生の頃だった。
 この時、セーラームーンは10周年を迎えていた。

 実写ドラマの存在を知ったのは本当に偶然だったはずだ。偶然にも休日の朝、部活に出かけるべく眠い目をこすりこすり起き出したところで、電源を入れたブラウン管テレビに映し出されたのがそれだった。
 ありとあらゆる意味で衝撃が走った。
 次に私のしたことは、ネットでセーラームーンについて調べることだった。
 当時、おそらくウィンドウズ2000くらいの時代、父の部屋に我が家で唯一のパソコンがあった(そもそもまだPC端末は「一人一台」ではなく「一家に一台でもやや多い」時代だったはずだ)。私の父は仕事上、パソコンなるものを扱わねばならず、出たばかりのウィンドウズ95を前に自力と独学で使い方を覚えたらしい。おかげで私は中学生にもなると、父のいない間に勝手にネット検索をするくらいは自由にできた。さっそく「セーラームーン」でヤフー検索をかけると、実写ドラマの公式サイトのほか、セーラームーン原作の公式サイト(武内直子先生のサイトだったのかも)が出てきた。

 そこで私はセーラームーンの十周年と、『新装版』なるコミックスの存在を知る。

 本屋で新装版を見かけたのと、実写版から十周年情報に行きついたのとは前後するかもしれない。ともあれ私は『新装版』コミックスの刊行情報を知り、中学生になって月額制となったわずかなお小遣いと、クリスマスに祖母からもらった図書券・図書カードを元手に、これを集めた。迷いはなかった。
 現在、セーラームーンの原作は『完全版』や『文庫版』が刊行されている。『完全版』の豪華仕様や20周年からの盛り上がりを見るに、いったいあの10周年と『新装版』はなんだったのかと思わないでもないが、当時の私は知る由もない。わくわくと買い集め、表紙デザインのテレホンカードプレゼントにも応募した。当選したものは大事に取ってある。

 中学の同級生の間でも、やはりセーラームーンの実写化は話題になっていた。中学生にもなれば、やや冷ややかに見る向きもあったが、そうは言っても自分を育てたといって過言ではない作品である。興味関心もあろう。週刊少年ジャンプの存在だとか、古本屋での立ち読みだとか(まったく褒められない)、友達との貸し借りだとかも知るに至っていた中学生だったので、新装版のコミックスも1~2巻あたりを友人へ貸した。
 ごく近所に住んでいたその友人からは『自分と1巻ずつ交代で共同購入しないか』と言われた。
 弱気であったはずの私は即座にこれを断り、『貸すのはまったく構わないけど、ぜんぶ自分で持っていたいから』という旨を伝えた。思えば、これが私の中の明確な"所有欲"の芽生えであったろう。

ふたたびの原作と「愛と正義」

 私はセーラームーンをふたたび夢中で読んだ。
 幼稚園生が見ていたアニメの原作の割には、大人っぽい話や描写のあることも知った。
 もちろん『なかよし』に掲載されうる範囲内だが、主人公の月野うさぎちゃんはドジな中学生というわりにグラマーでセクシーだし、年上の恋人にして前世からの運命の相手・まもちゃん(地場衛/ちばまもる)とのロマンスもある。敵陣営の女王がまもちゃんに横恋慕していたり、別の敵陣営の王子がうさぎちゃんに横恋慕したりする。
 そもそも、幻の銀水晶(セーラームーンの力の源のようなもの)の存在自体が争いや憎しみの火種だ、なんて言われたり、地球と宇宙の未来を前に時として身を投げ出したりもする。これはごく最近気づいたことだが、未来からやってきた子どもを前にして未来の旦那様を半ば取り合う展開はなんなんだ。とんでもないな。

 数年前に読めなかった16巻から先の話も読んだ(新装版では全12巻なので巻数は異なる)。アニメシリーズ『スターズ』にあたる部分だ。これこそまさに衝撃だった。セーラーギャラクシアとの戦いをはらはらと見守っていた幼稚園当時の私には分からなかったことを、中学生になって知った。

 セーラームーンはどこまでも「愛する人」のために戦う戦士だった。

 名乗りをまずは聞いて欲しい、ご存じ「愛と正義のセーラー服美少女戦士」だ。「正義」より先に「愛」が来る。「おれ」よりも「海賊王」が先だと尾田先生も言っていた気がする。
 連載第1話で、ドジでおっちょこちょいで寝坊も早弁もするし赤点だって取る、親にも先生にも怒られてばっかり、勉強よりもゲーセンでちょっとかっこいいオニーサンと会いたい中学生のうさぎちゃんは、親友が襲われたとき「助けなきゃ!」と思う。
 その直前まで、いくらルナ(相棒のしゃべる黒猫)に説得されても他人事だったうさぎちゃんが、親友なるちゃんを助けに行く。敵に攻撃されて転んで、血が出て泣きわめく。なんとかピンチを切り抜けて、助けてくれた謎のタキシードの男に頬を染める。まったく格好はつかないのに、それでも彼女は「助けなきゃ!」と思う。

 どんなに戦いの規模が大きくなっても、彼女の本質はずっと「顔の見える範囲の、自分の愛する大切な人を守りたい」のまま。これが如実に、明確にうさぎちゃん自身の口から述べられるのが原作の最終戦だった。彼女のゆるぎない本心を私がやっと知ったとき、アニメ放映開始から10年以上が経っていた。
 新装版の12巻を握りしめて、私はぼろぼろに泣いた。このときから、ずっとセーラームーンが改めてだいすきだ。もう二度と手放すまいと思っている。

『セーラームーンの映画』と私

 さて、ようやく時を現在に戻そう。時空の鍵で、セーラープルートの守る扉を渡って、平成から令和へ。ちびうさが時を超えるときの口上は何度も練習したものだから今も"そら"で言える。
 私は立派かどうかはともかく大人になり、成人してからの年数も経ち、お小遣いではなく自分の給与で漫画を買い揃えるようになった。所有欲の芽生えと、一度は手放した後悔から、セーラームーンに限らず「これはすきだ」と思った作品は手元に置きたがる大人になった。オタクと称していただいて差し支えない。
 かつて、『セーラームーンSuperS』ではあんなに大人に見えた高校生のうさぎちゃんや大学生のまもちゃん、彼女たちの年齢をとうに過ぎた。これはやはりセーラームーンに限らないことだけれど、あれほどなんでもできて見えたキャラクターたちの年齢に、自分がいざ辿り着いたとき(追い越したとき)、自分の「なにもできなさ」に愕然としてしまう。私は毎日の仕事をどうやって切り抜けるか、明日の夕飯を何にするか、増えたニキビとかトイレットペーパーのストックとか、そんなことで忙しくて、地球を救いながら高校に合格した彼女たちとは程遠い。

 そんな折、セーラームーンの映画が公開すると聞く。
 20周年に合わせた新アニメ化のことはもちろん知っていたし、第1期は初回限定仕様のブルーレイを全巻買い揃えた。ただ、買い揃えることで忙しくてクローゼットにしまい込んだままになっていた。これほどすきな作品でも日々の忙しさには押し流されていくのか、そんな気持ちもありながら、ではせめて映画は観に行こうと決めた。誰かの感想をSNSのタイムラインで知り得るよりも早く、自分の目で観なければいけない。そう思って、公開日翌日の昼の回を予約した。お気に入りのニットに赤いスカートを合わせて(私は内部太陽系5戦士ならレイちゃんがすきだ)、午前中に美容院で整えてもらったつやつやの髪で、うきうきとして観に行った。
 情報は追えていないから、昔のテレビシリーズ『SuperS』の話を映画2本(前後編)でやる、ということしか知らなかった。後編が2月公開なのは知っている。前売り券も買っていない。劇場グッズだとかのことも知らない。
 映画館のアナウンスにしたがって、消毒と検温をしつつシアターへ入った私に来場者特典が手渡された。
 非売品のカードダスだった。

 予告編も始まらないうちから緩む涙腺を引き締め、指定の座席に着く。受け取ったばかりのカードダスを眺めるうち、ふと、幼少の頃の記憶がよみがえってきた。
 セーラームーンの映画に、行ったことがある。
 実家で擦り切れるほど見たVHSではなく、映画館の記憶だ。幼いころ、私の住んでいた町にはセーラームーンを上映するような映画館はなくて、父の車でもう少し大きい町まで連れていってもらった。いや、もしかしたら祖父母の家へ行く折などに、ついでに映画館へ寄っただけなのかもしれないが。シルバーのセダンの後部座席から見た雪景色を覚えている。あれはたぶん、映画館へ行く道中か、帰りの記憶だと思う。
 観に行ったのがどの作品だったかも定かでない。公開年を調べる限り、おそらく『セーラームーンS』か『SuperS』ではなかろうか。同時上映の『亜美ちゃんの恋人』を観た覚えがある。ひょっとすると二年続けて、両方とも観たのかもしれない。ちなみに『SuperS』の劇場版はビデオを持っていなかったし原作にはない話だったのでろくに覚えていない。
 今の今まで、観に行ったことも忘れていた。親の車に乗らないと行けなかった場所へ、いまは自分の足で向かって自分のお給料からチケットを買って。20年、25年の月日が急に押し寄せてくるのを感じながら、幕が上がるのを待つ。ああ、私はセーラームーンの映画を観に来ている。

「使命」と「夢」

 『セーラームーンSuperS』といったら、かつての原作コミックス15巻で結末を迎えた「デッドムーンサーカス編」にあたる。このシリーズは直前の「デス・バスターズ編」までに出会い、敵対し、絆を深めてそれぞれの道に分かれた仲間たちが、ふたたび集結して新たな敵・ネヘレニア率いるデッドムーンの一団と戦う。敵サイドの対セーラーチームも魅力的でだいすきなシリーズだ。だいすきではないシリーズなど無いが。
 これが今回『セーラームーンEternal』として劇場公開されている。
 映画公式のイントロダクションでも謳われていたけれど、今作のテーマは「夢」だ。眠っている間に見る夢でもあるし、思い描く未来としての夢でもある。
 ちびうさは眠っている間の夢として謎のペガサス・エリオスと出逢うし、デッドムーン一味は十番商店街に悪夢をばらまこうとする。そして、うさぎちゃんだけではなく、セーラー戦士ひとりひとりの「夢」がそれぞれに語られていく。

 先にも述べたとおり、セーラー戦士は望んで争いをするわけではない。
 セーラームーンは親友のピンチをきっかけとしたけれど、そもそもは、彼女たち全員が前世からの定めで月の王国を守護し、地球という美しい星を守っていく使命を持っている。平たく言えば「現世に生まれたときから戦う定めだった」から戦っているし、「どうしようもなく選ばれたから戦うことになった」とも言える。
 実は、セーラー戦士というのは1つの星につき1人なのである。星の守護を受けた特別な者だけがセーラー戦士になる。誰でもがなれるわけではない。昨今、アンドロイドでも男の子でもプリキュアにはなれるとの話を聞きかじったが、それはなんて力強い希望なのだろうと思う(折を見てプリキュアにも触れたいがいかんせん話数が多く尻込みしている)。
 けれども、だ。
 映画を観て、「私がすきなのは『選ばれた特別な彼女たちの選択と覚悟』だった」と思い知った気がした。

 セーラー戦士はみんな、普段はどこにでもいる学生である。
 得意と苦手がそれぞれにあって、勉強がすきだったりきらいだったり、彼氏がほしかったり男性が苦手だったりする。それぞれに人生があって、親兄弟があったりなかったり、友達を遠ざけたり、変わり者扱いされたり。そんな折に出会って友達になったのがうさぎちゃんだったり、だけどその前から、彼女たちそれぞれの中に目標があったりする。
 突然、星の守護を受けた戦士の生まれ変わりだったと分かって、前世のむくわれない悲劇の記憶がよみがえって、大切な人を守ることを誓って。それでも、それぞれに学生生活や家族があって、なりたいものがあって、やりたいことがあって。
 どうしようもない運命で戦士になったけれど、戦士として戦う使命があるけれど、それを代わってくれる人はどこにもいないけれど、私の夢はどうなるの? 悩み立ち止まったとき、彼女たちは「変身」できなくなる。セーラー戦士としての力を発揮できなくなってしまう。
 最初に「愛する人」「目の前の大事な人」を守りたいと思って変身した彼女たちが、何をしたいのか・何を守りたかったのかに迷って、変身できなくなる。
 これは本当に「デスバスターズ編」までの積み重ねがお話としても、彼女たちの中でも、あったからこそできる「デッドムーン編」だ。
 だからこそ、ひとりひとりが「変身」するたびにぼろぼろと泣いてしまう。

 力強く、大切な人を守れるように、大切な人の「夢」を守れるようにと顔を上げて敵を蹴散らすセーラー戦士は、いつだって私のだいすきなセーラー戦士たちだ。

ずっと「セーラームーン」になりたい

 前編を観終えて、私はその場に崩れ落ちそうになった。けれどいい大人が、公開直後のそれなりに賑わった館内で倒れ込むのは迷惑だと分かっていたので、震える手でコートを羽織ってシアターを出た。
 私はセーラームーンになりたかったんだ。
 なにをいまさら、と思うかもしれない。
 でも、みんながみんな、うさぎちゃんの助けになりたがるわけじゃないらしい。
 少しずつ大人になって、自分がセーラー戦士になれないこと、戦士になりたいのって私だけなのかもなんてこと、映画館のポップコーンは数百円すること、コミックスは収納場所を取ること、私よりも濃密で突飛な空想をする人はたくさんいて、そういう人の努力と才能の末にセーラームーンみたいなお話が生まれること、そういうのを知っていくうち「私はセーラームーンになりたいわけじゃない」と思っていた。いつの間にか当たり前にそう思っていた。

 そんなことなかった。
 私はずっと「なにかに選ばれた特別な戦士」になりたかったんだ。
 なにか1つでもいいから大切な「夢」を守っていける人間になりたかったんだ。なりたかった。なりたい。いまもなりたいと思っている。

 せめて「私はセーラームーンになりたい」といつか言えていたら。時空の鍵はそこらへんに転がっていないから、口上だけ唱えたところで、幼稚園の園庭で「私もセーラームーンがいいって言っていいんだよ」と昔の私に教えてやることはできないのだけれど。
 あの頃の私をいま、この場所から守れる大人でありたい。できれば、この先の私を守れる大人でありたい。
 私の夢は誰かを守るなんて大層なものじゃなく、殉ずるだけの覚悟なんてない。星を守る戦いの日々と比べたら、顧客の無茶と上司のぼやきなんか平和そのもの。それでも、周囲のだれもが中学生までには手放す夢なのだとしたって、私だけはせめてそれを見失わないでいよう。私は私の「夢」を守れるようであろう。

 「セーラームーンになりたい私」になることは、いまからだってできる。もう二度と手放すもんですか。きっと私はなりたい私を手放さない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?