祖母は戦争の話をしたがらなかった(エッセイ)

 死んだ祖母は大正の初めの生まれで、戦争の話はあまりしたがらない人だった。今にして思えば、三月になるたび、地震の話にどんなを顔すればいいのか分からない私と似ている。私は祖母が嫌いである。

 祖母から出てくる“戦争の頃に近い話”は、覚えている限りで一つしかない。
 戦時下、ないし戦後すぐのことである。(うろ覚えなのは、実家のダイニングで向かいの席からさんざ聞かされたおかげで、晩年には聞く気が失せてしまったからだ。)
 その頃の祖母は、叔母か叔父の出産(これもどちらなのか曖昧)のために病院にいた。なにしろ時代が時代だ、お母さんたちも栄養失調で、子どもにあげたくともお乳が出ないなんてこと珍しくなかったらしい。祖母と同室のお母さんたちも例に漏れず。粉ミルクは存在していたはずだが、あまり普及していなかったのか、そもそも物資が不足しているのだから粉ミルクだって例に漏れなかったのか、現代と比べてあまり美味しくなかったのかは分からない。
 ともかくそこで、私の祖母はお乳の出がよかったらしく、同室の子どもたちの分まで順繰りにお乳をあげたのだそうだ。右のおっぱいを我が子に吸わせながら、左は隣のベッドの赤ちゃんに吸わせていた、なんて鼻高々で話していた。

 祖母はなるほどたしかに、豊満な乳房を持っていた。祖母はしきりに「若い頃はもっと格好良くぴんと張っていた」と話していた。今でも私は「垂乳根の母」なんて言葉を聞くと、自分の母親より、幼少のみぎりに風呂場で見た祖母の垂れ下がった胸を思い出す。
 あくまで本人の言うことだから医学的な根拠はないけれど、他人より大きめだった乳房へ、お乳を多めに胸へ貯めておけたのだろうと。だから祖母には自分の胸が自慢だった。戦時の話だけれど、それは祖母の自慢話だった(それでいて垂れ下がった乳房と重ねた年齢は認めがたいのだった)。自慢話しか、したがらないのが祖母という人だったので、私は祖母が嫌いだ。亡くなった今も嫌いである。

 実際、祖母は戦争のことが本当に嫌いだったと思う。八月になるとテレビ番組のドキュメンタリーで空襲の映像が流れる、その度に画面から目を背けて、苦々しげに何事かを言っていた。祖母には兄弟もいたはずだから、中には、戦争に行った人もいたのだろう。祖母は戦争の話をしたがらなかったので、詳しいことは分からない。
 私も戦争のことは嫌いだ。
 とても容認されてほしくない。誰も、栄養や物資の不足で子どもにお乳もミルクもあげられないだとか、はたまた子どもを戦地に送り出すだとか、そんな思いはしてはいけないと思う。
 戦時下、祖母がどこでどんな思いをしたのかは分からない。ひょっとすると比較的被害が少なめの地域に身を置いていたのかもしれない。そうでもないのかもしれない。ただ、祖母の口から語られなかったということ自体が、もしかするとかえって私に忌避感を生々しく伝えていたのかもしれない。
 戦争のことは嫌いだ。
 それはそれとして、自慢話しかしない祖母のことは本当に嫌いであった。

 ドキュメンタリーの番宣を見かけるたび、チャンネルを変えたがった祖母の頬の皺と、垂れた乳房の下の知らない赤子のことを思い出す。


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