映画以外で父が泣いた(エッセイ)

 私が転職したのは昨年春のことである。

 大学を卒業して地元へ戻り、10年には届かないくらいの年数を働いていた。地元では社名を聞いた人に「おお。親御さんも安心だな」なんて、"知った顔"をされる会社だ。事実、両親は安心していたと思う。もっとも会社名よりは、目の届くところに娘が戻ってきてくれたという事実が両親を喜ばせただろう。
 思うに、『会社のネームバリューが世間の目にどう映るか』という視点よりも、『そのネームバリューや勤務地、労働条件がなんらか自分の子どもたちを守ってくれること』を喜んでくれる両親だから、その点は親に恵まれたと思う。
 そういう安心の点では恵まれた職場だったけれど、若手社員を使い潰す引退間際のお偉方の絵空事に心身を食い潰されたので、辞めることにした。

 母は止めなかった。
 対して、私が「転職をします」と言ったら父は涙ぐんだ。
 普段決して涙もろいわけではない父の名誉のために言い添えておくと、これは私の完全事後報告が良くないところもある。ある日突然「もう転職先と引っ越し先と入居日と引っ越し業者まで決めたから、春から実家出るね」まで言われたら、驚くのも当然である。
 ただ、私にも私の言い分はあって、それくらいのだまし討ちじゃあないと父は私の転職を了承しなかっただろうと思う。別に、いい大人なので了承を貰う必要はないといえば、まあ、ないのだけれど。 

 そういうわけで父の話をしてみる。

 父は昭和の頑固おやじでもないが、平成の教育パパでもなく、令和の価値観にはちょっと追い付かない。(いまでこそ珍しくないものの)当時とすれば結婚の遅いほうだったらしくて、私が遊園地や動物園へ遊びに行きたがる歳の頃には、ちょっとそろそろ体力が衰えている年齢だった。
 もっとも、これはむしろ当時の仕事ぶりによるものだったのかもしれない。記憶の限り、私が小学生か中学生の頃までは、毎日遅くまで仕事をして帰宅し、21時か22時開始の報道番組を見ながら缶ビールを開けていた。
 流通し始めたばかりのパソコンを覚えねばならなかったらしく、真夜中までリビングで説明書片手にウィンドウズ95とにらめっこしていた。2000あたりの頃になって「最近のやつらは俺が自力で覚えたモンを俺に訊けばいいんだからなあ」なんてぼやくのを聞いた。

 この父というのが、どうにもやはり、就きたい仕事に就いていたわけではなかった。
 父がぽろっと零した範囲以上には私も訊ねないから、憶測を含むが、父が大学へ入る頃は「理系へ行けば食いっぱぐれることはなかろう」という時代だったらしい。それで結局、本当にすきな分野ではなく、理系学部に進学した。本音は歴史関係で教職を目指したかったようだ。
 もちろん教職は大変な仕事だし、本当にそうなっていたら職場恋愛だった母とも出会わず、私がこうしてnoteを書くこともない。ただ、大学生の私が「教職くらいはとっておけ」と口酸っぱく言われたことも、これに由来するのだろう。

 さて、そんな父だが私が小学生~中学生の折、体調を崩すことになる。
 原因は今で言う『パワハラ』である。
 売り上げが伸びないのを父のせいにされていたのか、本社への報告をごまかすよう言われていたのか、詳細は定かではない。少なくとも当時は『パワハラ』という言葉さえ広まっていなかった。日々、顔色が悪化していく父を見て、私も母も祖母も、おそらく弟も、会社が原因だとは分かっていたがそれを『パワハラ』という名前で呼んではいなかった。
 胃に穴が空きかけたような健康状態で、何か月か、何年か、働いた末にとうとう父は会社を辞めた。
 私自身も「お父さん、辞めていいんだよ」と無責任にも言った。小学生か、中学生の頃にだ。今思えば私や弟のことを思って踏みとどまっていた節もあっただろうに、子どもとはひどいものである。数年後には高校のクラス担任の前で「学費が不安だ」と言って泣きじゃくっているのだから、まったく子どもとはひどいものである。

 さて、さらに時が経って私は地元に戻り、仕事に就いたが、ずっと上の上司の方向転換に振り回されて心身がダメになってしまった。最初は自分が辞めたいのか・辞めたくないのかも判断付かなかったが、結果的に半年の病気休暇の中で「私はこの会社を辞めたいんだ」と気が付いた。
 よし、辞めよう。
 母はいい。私が頑固なことを分かっているし、元々がマイペースだ。「あなたがしたいようにしなさい、お母さんどうせ詳しいことは分からないけどちゃんと調べてるんでしょ」というのが常で、自分は自分という世界で生きている意味では私と少し似ている。
 弟もどうせ「姉ちゃんの人生だから勝手にしたら?」という反応だ。
 問題は父である。
 「ご自身も転職したのに娘の転職には反対なのか?」と、思われるかもしれない。まさに、そうなのである。むしろ「ご自身が転職したからこそ」娘の転職には反対だ、というタイプなのである。転職の必要のなさそうな会社に娘が就職したことは、さぞ父を安心させていたに違いない。

 さて、反対されることは目に見えている。
 まずはジャブを撃つべく、母からそれとなく「転職も考えてるみたいよ」とだけ伝えてもらった。父の反応は「病気休暇を取らせてがもらえるなんて、こんなちゃんとした会社はそんなにないんだぞ」というもので、本当に転職するとは思っていない様子だった。父の言い分は、父が『ちゃんとした会社』を辞めたからこそ出てくる言葉なのだ。
 父の最初の勤め先はそこそこの規模の会社だった。(どれほど活用されていたかはともかく)福利厚生も整備されていただろうし、景気のもうちょっと良い頃は社員旅行へ出かけていた。辞めたことでこそ、出てきた苦労もあったのだろう。
 と同時に、その『ちゃんとした会社』の体制と規模に振り回されて胃に穴をあけたのも父であった。

 なるほど仕方がない。強硬手段に出よう。

 私は友人宅に時折転がり込みながら転職活動を進め、感染症の流行で世の中がしっちゃかめっちゃかになるギリギリ直前に入社先が決まり、辞表を書き、引っ越し先のアパートを決め、契約を終え、入居日も、引っ越し業者の見積もりも終えた。
 不動産屋でサインをしながら、学生時代の一人暮らしでは親のサインが必要だった気がするな、とぼんやり考えていた。

 そこまで決めてから一切の報告をしたとき、父は目を真っ赤にしていた。
 私もようやく「さすがにやりすぎだった」と思った。
 いや、反省しているかといえば微妙なところである。面と向かって転職について説得するのは骨が折れる。父だって、真面目に娘と話をするのが億劫で照れくさくて耐えられないから「よく考えなさい」なんて流していたことは否めないはずだ。第一、私はとうに成人して収入を得ている大人なのだから、転職と転居に保護監督者の許可が要るわけではない。だから勝手にやったことに何の罪もないし、ほんのちょっと反省したとして、後悔は現状、みじんもない。
 だけどそのときばかりは、父が私や私の人生に対してどんなふうに気持ちを傾けてくれていたのか、目の当たりにした気がしたのだ。
 私はなんといえばいいか分からなかった。なんと言ったか覚えてもいない。父も分からなかったと思う、でも、娘がどうしたって今さら決断を引っ込めないのは明らかだったのだろう。父は私の決めた転職先を「まあそこなら大丈夫だろう」とか、結局「引っ越しは手伝うから」とか涙声で言った。
 父が涙を浮かべているのなんて、記憶にある限り、10年以上前に映画『アルマゲドン』の地上波放映をリビングで観ていたとき以来であった。

 2か月くらい経って、入居日のアパートでは家具の設置作業をしている父の姿があった。昔取った杵柄というか、最初に勤めていて胃に穴があいて辞めた会社での経験だという。
 持つべきものは父だなあ、などと私は茶化す。
 父も、こんなときばっかり調子のいいこと言いやがって、と応える。
 母はたぶん「似たもの父娘だなあ」と思っていたと思う。

 次に転職をするときは報告の仕方をもう少し考えよう。

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