だけど願いはかなわない 第二十一話「兄弟(後編)」
【読者様へ】
前回の、第二十話「兄弟(前編)」に注意事項がございます。
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では、本編をお楽しみ下さい。
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小さな店内でまず目を奪われたのは、無駄なく鍛えられた逆三角形の背中。カウンター内の店員と談笑しているその後ろ姿に、久し振りに胸が躍った。
次にこちらを振り返った顔を見て、心の中で思わず「Bingo!」と叫んだ。
それと同時、この東京の地で日本人との結婚式を挙げた従兄の顔を思い浮かべて感謝した。あの結婚式に参列する事が無ければ、私は今夜このバーに存在しなかったのだから。
従兄夫婦の幸せを祈りながら、私の好みを絵に描いたような日本人青年に視線を送る。清潔感のある学生風の、クールな三白眼。おそらく私より少し年下の、20、21といったところだろう。
そのキュートな悪人顔とバッチリ目が合うと、何と幸運な事か、彼は一瞬驚きの表情を浮かべた後で私に向かって微笑み返し、そしてこちらに一直線に足を進めてきたのだった。
ビックチャンスだ!高鳴る胸を抑えつつ、片言の日本語を交えて必死に声を掛ける。
「ah…オニイサン、ステキ。You are cool!(カッコイイ)」
青年はニヤリと不敵な笑みを浮かべて私の隣に腰掛けると、そのままの勢いでこちらに身を乗り出してきた。息がかかりそうな程の至近距離で、三白眼の大きな瞳が伏し目がちになる。
あまりの急展開と艶っぽさに思わず生唾を飲み、そのゴクンという下品な音が聞こえてしまったのではないかという恥ずかしさに一人悶えた。
そして青年は、私に耳打ちするようにそっと囁いた。
「Thanks, Hao.(ありがとう、ハオ)」
不意打ちで呼ばれたのは、紛れもなく私の名前。フルネームはジョン・浩宇(ハオユー)・楊(ヤン)、親しい人間は皆ハオと呼ぶ。瞬間、背中一面に悪寒が走り、彼の息がかかった耳元は鳥肌で埋め尽くされた。
誰だ。
例えここが異国の地であっても、同性愛者という事を隠して生きている人間にとって、ゲイバーでの身バレ程恐ろしいモノは無い。
誰だ。
動揺を必死に隠しながら…いや、決して隠しきれてはいないだろうが、それでも何とか冷静を装いつつ、青年の顔を見つめた。
見覚えは無い。けれど、ハオと呼んだその声にはどこか聞き覚えがあるような気もした。そうだ、彼は私が英語を話した事に対して一切の戸惑いを見せなかった。私が日本人では無い事はもちろん、中華系アメリカ人である事も知っているのだろうか。
従兄の結婚式で、「ハオもいい加減に彼女の一人くらい連れてこい、居ないとは言わせないぞ」と笑っていた祖父の顔が脳裏に浮かんだ。
祖父が生まれ育った中国は、ほんの数十年前まで同性愛が犯罪として取り締まりされていたような国だ。
アメリカに渡りたった一代で財を成し、そして自分の親族に対して独裁者のように君臨する祖父。私がゲイだと知られれば、一族追放は免れないだろう。
「…Who are you?(お前は誰だ?)」
恐る恐るそう問うと、青年は実にわざとらしい悲壮の表情を作り、言った。
「Don’t you remember me?(俺を忘れたのか?) It was my first time, You're terrible.(『はじめて』だったのに、酷いヤツだな) I feel lonely..(さみしいよ)」
再び聞いたその声に、一気に記憶が蘇った。しかし目の前の青年と記憶の中の声の持ち主は到底同一人物とは思えず、激しく混乱する。
まさか。
いや、しかし。
よくよく辿った記憶の片隅、その声の持ち主は、左の眉がほんの少しだけ欠けていた事を思い出した。幼い時に猫に引っかかれた跡だと、私のベッドの中で語っていた。
果たして、目の前の青年の左眉はーーーーーそっくり同じに欠けている。
「…Aoi?Sirou's brother!?(あおい?シロウの弟の!?)」
「ご名答。」
青年の口から放たれた日本語を私は知らなかったが、それが肯定の意味である事は肌で感じた。
そしてその瞬間、私は自分でも驚く事にまるで脊髄反射の様に立ち上がり、慌てて店内を見渡していたのだ。背中の悪寒は倍増し、ドッと冷や汗が吹き出す。
椅子に座ったままのあおいが、明らかに狼狽している私を不思議そうに見上げて言った。
「…brother?(兄貴?)No way!(居るワケが無い!)」
ーーーーーあの化け物は、ここには居ない。
安堵のため息をつき、一瞬でカラカラになった喉を潤すために再び席に着いた。テーブルのドリンクを半分ほど飲み干し、それから、今目の前に居る、かつて私が激しく自尊心を傷付けた相手に改めて言った。
「I'm sorry for that time.(あの時はすまなかった)」
私の急な謝罪にあおいは短い驚きの声を上げ、そして少し笑って言った。
「The past is past.(過去の話だよ)」
そう言ってくれたあおいの顔は少し照れているようでもあり、私の頭の中であの頃の彼と今の彼の面影がようやく繋がった。ああ、確かに私は、このはにかんだような笑顔を可愛いと思った事がある。
そして私達はしばし懐かしい会話を楽しみ、私が従兄の結婚式のために日本を訪れた事、あおいは東京で一人暮らしをして大学に通っている事、そしてあおいの兄のシロウも今はこの東京に住んでいる事など、お互いの近況を伝え合った。
ふいに会話が途切れた瞬間、あおいが「それにしても」と、意地悪く笑いながら言った。自分の外見の変化がそこまで衝撃的だったのか知らないが、まさか兄貴が一緒に居ると思うなんて気が動転しすぎだろう、と。
そして彼が放った言葉に、激しい違和感を覚えた。
「Where do you think you are?(『ここ』をどこだと思ってるんだ?)」
先程、あおいはこう言った。ーーーーー「…brother?(兄貴?)No way!(居るワケが無い!)」
私は、シロウがここ(日本)に居るわけが無いという意味か、あるいは兄弟で一緒にゲイバーに遊びに来るわけが無いという意味だと捉えていた。
しかし、あおいが言いたかったのはそうでは無かったのだ。つまり、『シロウがここ(ゲイバー)に居るワケが無い、シロウはこの世界とは関わりの無い人間なのだから。』とーーーーー。
あおいは何も知らないのか。いや、そんな訳がない。二人は離れて暮らしていたとは言え実の兄弟で、あのシロウが親密にしていた数少ない人間の一人なのだ。
そう、だから、私はあおいを傷付けた。
なぜなら、シロウは容易に私を傷付けてしまえるのに、シロウにとっての私は、彼を傷付けるに値しない、取るに足らない人間だったからだ。
シロウがこの店に居ないと聞かされた時は心底安心したが、それと同時に心のどこかで落胆している自分にショックを受けた。
私は、まだあの化け物の事を忘れられないのだ。
私の好意を弄び、男も女も消耗品のように食い散らかして、私の祖父が飼っていた犬の命を奪い、自分の弟として迎え入れた養子の幼子を手に掛け、それでもひとかけらの罪悪感も抱かない化け物。
その恐ろしい化け物にまた会いたいと、心のどこかで願っていた。
「…Hao? Are you okay?(ハオ、大丈夫か?)」
あおいの声に我に返ったが、まるで脳みそをシェイカーで振り回されているかのような気持ちの悪さに襲われ、私はスマホを取り出しながら連絡先の交換を促した。
「Sorry but I have to go.(すまない、もう帰るよ)Can't I see you again?(また会えないか?)」
そして地下鉄の駅まで案内してくれた彼との別れ際、ふらつく頭をこらえながら、あんな事をしたのはあおいが嫌いだったからじゃ無い、シロウとあおいは別の人間なのに申し訳無かったと過去の非礼を何度も詫びたが、上手く言葉にまとめる事が出来なかった。
・・・・・
「この回のこの部分、実名が出ていますけど単行本化する時は伏せ字にする予定でしたよね?…それと、こちらのページですけど…。」
鬼塚さんの連載が単行本になる際は、まず私が原稿の見直しをする事になっている。原稿をプリントアウトしたものに直接ペンで赤字修正を入れ、それを鬼塚さんに見せながら一つ一つ説明をするというアナログな方法だ。
こうして完全な下準備を終わらせた上で筆者本人の最終チェックを促さなければ、いつまでたってもこの地味な仕事は終わらないのだ。
けれど今日の鬼塚さんは特に気乗りしないらしく、私の必死の説明を前に彼の視線は空を泳ぎ、「あー…」「おー…」と適当な相づちを打つばかりだ。
しかし私も彼の扱いには慣れたもので、最も重要度の高い二、三点の個所に貼っておいた赤い付箋のページだけをピックアップし、鬼塚さんの前に突き出した。
「これだけは必ず目を通して下さい。」
自分の目の前にぶら下げられたコピー用紙から腰を引き、苦虫を噛み潰したような顔で印刷物との距離を微調整する鬼塚さん。
「最近、ろくに休息が取れてないせいか疲れ目が酷いんだよなぁ。」
その不満たっぷりの言葉を放置し、私は「すぐに戻ります」と断りを入れてから別室にある自分のデスクへ向かった。
鬼塚さんのその仕草は、少し前から気になっていた。けれど切り出すタイミングが掴めないまま、先日百円ショップで見かけた『これ』を思わず購入し、そっと自分の引き出しに忍ばせていたのだ。
筒状のプラスチックケースを手にいそいそと書斎に戻り、何事かとこちらを見つめている鬼塚さんに手渡した。
「あの、差し出がましいようですが、これ…。試してみて下さい。」
鬼塚さんは不思議そうにケースを開け、中に入っていた小さめの眼鏡を素直に装着してくれた。すかさず、再び面前に原稿を突きつける。
「お!何だこれ、やけにハッキリ見えるな。いいじゃねぇか!」
歓喜の声を上げ、浮かれながら原稿を手に取る鬼塚さん。その姿は大変微笑ましかったが、けれど私が次に口にした言葉で彼のテンションは一気に地に落ちたのだった。
「安物の老眼鏡ですけど、よかったらどうぞ。差し上げます。」
「老…眼…?」
「はい、老眼鏡です。百円ショップって、本当に何でもあって凄いですよね。」
「嘘だろ!?俺、まだピッチピチの四十歳だぜ!?」
「そしてもうすぐ四十一ですよね?確かに早い方だとは思いますけど、ショックを受けるような事じゃ無いですよ。いずれ皆なるんですから。」
「何だお前、ニヤつきやがって。自分はついこないだまで二十代だったからって優越感に浸ってるのか?あれか?及川あたりと一緒になって、陰で俺の事を昭和の遺物とか言って笑ってるんだろう!?」
意味不明な言いがかりをかけられ、思わず吹き出す。
その私の態度が中年心を刺激したらしく、鬼塚さんは口を尖らせて一人ブツブツと恨み言を呟きながら立ち上がった。
そしてどこに行こうと言うのか、襖を開け放ち、顔だけこちらに振り返って捨て台詞を吐く。
「ふん、笑ってられるのも今のうちだからな。お前だってそろそろだ。久し振りに会った親がやたらと老けてて軽くショックを受けたり、地元の同級生が癌になったなんて話題が日常になるんだぜ。」
「何をいじけてるんですか、鬼塚さんはまだ若いですよ。しょっちゅう徹夜してるじゃないですか。」
「それは好きでしてるんじゃ無ぇよ!」
イヤミでは無かったのに、私のフォローの言葉は彼の神経を益々逆なでしてしまったらしい。書斎の襖がぴしゃりと音を立てて閉ざされ、年末進行中の作家がそのまま玄関へと逃亡する気配がした。
慌てて後を追い、半開きのままになっていた玄関引き戸に向かって叫ぶ。
「二十分以内に帰ってきて下さいね!」
その願いもむなしく、冬の空はあっという間に暗くなり、私の就業時間を過ぎても鬼塚さんは戻って来なかった。
今夜はハルキ君との大事な約束がある。ただでさえ残業続きなのにあんな作家のために超過労働するなんて馬鹿馬鹿しいと、山ほどある仕事を放りだして寒空の下を駅に向かった。
その時私は、鬼塚さんが鍵を持たずに飛び出した事を知らなかった。
つづく
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