見出し画像

だけど願いはかなわない 第二話「ハルキ君」


今にして思えば、あの頃の僕はすっかり心が麻痺していた。

暴力と暴言が日常になっていたあの結婚生活から、なぜもっと早く逃げようとしなかったのだろう。

一つは、まだ残っていた愛情の残り火と、幸せな思い出への未練。

一つは、近年少しずつ理解は進んでいるが、それでもやはり被害者として認識され辛い『男性のDV被害者』であった事。これは、周囲に相談しにくいという事だけでは無く、僕自身の自覚も遅らせていた。

それから、一般的な感覚としての離婚という行為への抵抗感、結婚以前から所有していた僕名義のマンションから僕の方が出て行くという発想が無かった事、女性被害者の場合と違っていざという時に力技で負けることは無いという慢心、様々な思考が判断を鈍らせた。

結婚式で永遠の愛を誓ってから二年後、「臭い」「汚い」と罵られながら水を浴びせられ半裸で夜のベランダへ追いやられた僕は、運良く干しっぱなしだった洗濯物を身につけ、衝動的に二階のベランダから脱出をした。その日から今日に至るまで、僕は僕のマンションで寝泊まりをした事が無い。

しばらくはネットカフェと友人宅を行き来し、一月半後に「とりあえず」とアパートを借りた。その時点で既に僕の中では離婚の決意が固まっていたが話し合いは難航を極め、仮の住まいでの生活が一年を超えた頃、業を煮やした僕は家庭裁判所に離婚調停を申し立てた。それでも相手は体調不良や交通トラブルといった言い訳をタテにして、その調停の場にすらなかなか現れない。

壁の薄い安アパートでのその場しのぎの生活、要領を得ない内容の留守電やメッセージの嵐、アパートや職場へのアポ無しの突撃、周囲の誤解と見当違いの非難、一筋縄ではいかない金銭問題。

そして何より辛かったのが、二年間にも渡ってかけられ続けた言葉の呪縛だった。僕は汚いし、臭いし、態度が卑屈で笑顔が気持ち悪いのだ、と。

僕の心身は、疲弊しきっていた。

すがるようにして人肌を求め、出会い系のアプリやアダルトサイトで見知らぬ女性達とコンタクトを取り、そうして最初に会ったのは、全く好みのタイプでは無い、タバコの匂いのするふくよかな体型の、よく喋る年上の女性だった。けれど彼女は、「体臭がキツかったらごめんなさい」と謝る僕を「え?全然臭くないよ?」と不思議そうに見て、「カッコいいね」「笑顔が可愛いね」と沢山褒めてくれた。

僕の心の中で何かが決壊し、その夜は古アパートのユニットバスで何時間も泣いた。

そうして何人かと会ううちに、自分の容姿はどちらかと言えば異性から喜ばれる方だった事を思い出した。誰も僕を汚いとも臭いとも言わなかったし、人間として、そして男として扱ってもらえる事が何より嬉しかった。

けれど、それと同時に虚しさを覚え始めていたのも事実だった。彼女達と会って肌を重ねた後で一人寝のアパートに戻ると、僕が本当に必要としているのは、一時しのぎの肌のぬくもりや性欲の解消などでは無いのだと思い知らされる。

中には何度か会って彼女にして欲しいと言ってくれた人も居たし、社内でもどうやら僕に好意を示してくれている後輩が居る事に気付いた。けれど残念な事に彼女達に対して僕の方がそういう気持ちにはなれなかったし、そもそも、自分はまだ既婚者なのだ。

スミちゃんと出会ったのは、そんな頃だった。

セミロングの綺麗な黒髪が映える、どこか凜とした雰囲気を放つ整った顔立ち。彼女の外見はこんな出会いの場にはあまりに不似合いで、まさか何かの勧誘か詐欺ではという警戒心すら抱かせた。けれどこの日初めて会話を交わした彼女は、愛らしい程に緊張してる様子が伝わってきた。

『初回は会ってお話をするだけでお願いします。お互い気に入れば改めて会いたいです。』という彼女の希望通り、その日は夜の公園でただ話をした。艶っぽい話をした方がいいのかと迷ったが、僕が好きなシリーズ物のドラマを彼女の方も詳しい事が判明し、星空の下で夢中になってお喋りをした。まるで学生時代に戻ったみたいで楽しかった。

それから、少しクールな印象のあるスミちゃんの整った顔は、笑うと一気に子どもっぽくなる事に気付いた。思わず見惚れるくらい可愛かった。

別れ際、是非また会いたいですと勇気を出して告げた。スミちゃんは即答してくれず少し迷っている様子で、迷惑に思われたかと思い胸がキュッと詰まった。

「そんな悲しそうな顔しないで… 。」

すると彼女は切ないような声でそう言って、僕の袖を掴み軽く引き寄せ、ジッと顔を覗き込んできた。

「さっきから気になってたんですけど、右まぶたの横、何かインクみたいなのついてますよ?」

急接近にドキドキしながら、彼女の発言に慌てて右まぶたをこする。

「違います… もっと外側…… う~ん、暗くてよく見えない… かがんで… 。」

じれったそうに僕の顔に手を伸ばす彼女。僕は言われるままに前かがみになり、彼女の指が近付いてきたまぶたを自然と伏せる。

次の瞬間まぶたに触れたのは、柔らかく暖かい、そして少しだけ湿った、彼女のくちびるの感触だった。

「ひっかかった!」

無邪気にそう言ってあの可愛い笑顔を浮かべたスミちゃんに、僕の心はストンと音を立てて恋に落ちたのだった。



・・・・・


夜の街、傘を差すかどうか迷う霧雨。

月末の残業を終えた僕は、なるべく濡れずに済む道順を選びながら駅に向かった。あとは屋根伝いに歩けるという所まで来て自販機が目に入り、十二月を目前にした夜風と小雨に濡れた身体が缶コーヒーの暖を求めた。

二台横並びになった自販機は、うち一台の前で先客の女性が思案中だ。僕も女性が立っている方の自販機のメーカーが良かったので、急かしてしまわない様にあえて近付かずにその場で待つ。

やがて商品を手にして振り向いた女性の顔に、僕の視線は釘付けになった。まさかこんな所でという無意識のフィルターと、普段と雰囲気の違うラフな服装のせいで見落としていたが、彼女は僕がいつも会いたいと願っている相手だった。

(スミちゃん!)

スミちゃんは僕に気付かないまま足を進める。彼女の先に居るのは──── スミちゃんと同年代だろうか、壁際でスマホを操作している、遠目でも鍛えた身体と分る体格の青年。

目深に被ったキャップ、オフホワイトのパーカーに黒いダウンベスト。今日のカジュアルなスミちゃんと同じ空気を放つ服装の彼に、どうか違いますようにと心の中で祈った。

けれどスミちゃんはその青年の前で止まり、ごく自然に二本のドリンクのうち一本を差し出した。まるで付き合いの長いカップルの休日といった雰囲気だ。

心が一気に不安に支配された。僕はスミちゃんの事を何も知らない。サイトの募集で『既婚者・恋人有り・喫煙者、全てNG』という一文があったので、無意識に彼女の事も独り身だと思い込んでいたが、その発想はあまりにおめでたいものだと思い知らされた。

現に、こうして既婚者の僕が身分を偽っているのだから。

しばらく呆然と立ち尽くしていると、二人の方が動き出した。どうやらここで別れる様子だ。いっそスミちゃんに声をかけようかという気持ちもあったが、僕は真実を知る事が怖くて気付かれる前に慌ててその場を去った。

アパートの最寄り駅のホームに降り立つと、驚くべき事に隣の車両からスミちゃんの連れの青年が姿を現した。

ここ数年、常識が遠く及ばない妻の言動に毒されてしまっている僕は、一瞬この青年は僕の事を知っていて跡をつけてきたのかとヒヤッとしたが、彼はこちらの事など意に介さない様子で改札口に向かった。僕も、自然とその後を追う形になる。

やや早足の歩調。鍛えられた肩と、ぴんと伸びた逆三角形の見事な背中。自衛官か、もしくは警察官なのか、彼が何者かは分らないが、ただ趣味で筋トレをしているというだけではなさそうな、精悍な空気を放っている。

僕のアパートは、住宅街というよりは飲み屋街寄りの土地柄にあり、治安もあまり良くは無い。短い間の仮の住まいの前提だったし、安さと駅への距離で妥協して決めたのだ。

彼も、この近くに住んでいるのだろうか。

改札を出た彼は、僕と同じく中央出口の階段を上がった。しばらくは同じ道を進み、僕との行き先が別れたのは、ビルとビルの間の小道。そして見送った彼の背中は、思いもかけない場所に入っていった。

僕は驚き、思わず自分もその入り口まで駆け寄って確認する。

そこは、僕が今のアパートに引っ越してきてすぐの頃、それと知らずに予想外の失敗をした店。そして、彼がスミちゃんの夫や恋人であったとしたら、利用するのはあまりに不自然な場所だった。


・・・・・


「ジュン、俺はもうダメだ!」

鬼塚さんの元で働き始めてまだ二年目だというのに、このセリフを耳にした回数は百を優に超えるだろう。

けれど同じセリフであっても、その声のトーンでどのくらい切羽詰まっているか聞き分けられるようになってきた。私も、随分とこの仕事に慣れてきたものだと思う。

「コーヒーでも飲みますか?」

単純にネタ出しに苦労しているといった雰囲気の鬼塚さんに休憩を提案したが、彼は畳に仰向けになってチラリと私のスカートの裾を見やると「ちょっとパンツ見せろ」と下品で不快な軽口を叩いた。

私が「それ、セクハラですから」と、今まで千回は口にした言葉を返すと、今度は「何か面白い話してくれ!」と、無茶な要求を突きつける。

「私の持ってる面白い話なんて、もう出尽くしちゃってると思いますけど。」

「何でも良いから話してみろ!話せ!そうだ、お前、男と一緒に住んでんじゃねえか。彼氏の職業、何だ?何か面白いエピソードとか無ぇの?」

「男… 。確かに異性と一緒に住んではいますけど、彼氏では無いです。職業は公務員ですね。」

「は?何だソレ、あれか、今時の『異性でも気にせずルームシェアしちゃうお洒落な僕達』気取ってる、でも実はちゃっかりやっちゃってる感じの、そんな人間だったのか、お前。」

ワケの分らない発言をしつつ上半身を起こし、「面白そうだから詳しく教えろ」と身を乗り出す鬼塚さん。

「それ、セクハラですから。やってません。長い付き合いの友人だし、彼は同性愛者なので。」

「おいジュンちゃんよ!全然出尽くしてない、全然出尽くして無いよ!なんで、そんな特大ネタを今の今まで黙っとくんだよ!」

鬼塚さんの問いに、私は「聞かれなかったので」と答え、「彼から聞いたゲイサウナの話なんかだったらできますけど」と続けた。

鬼塚さんは自分の机からメモとペンをひったくるようにして手にすると、私の前にドカッと腰を据え、言った。

「ホント、お前って謎な女だな。嫁にも行かんとゲイと一緒に住んで何してんだ。」

「それ、セクハラですから。」

そして私は、同居人から聞いたゲイサウナの話と、なぜ彼と一緒に住んでいるのか、その経緯について話し出した。

嬉々としてメモを取りながら私の話を聞いていた鬼塚さんの目は次第に好奇心に満ちた作家のものでは無くなっていき、神妙な顔で私の過去に耳を傾けた。





つづく

面白いと思っていただけたら、右下(パソコンからは左下)の♥をポチッとお願いいたします!押すのは無料です。note未登録でも押せます。私のモチベーションに繋がります!!

↓次のお話はコチラ

↓一話戻る場合はコチラ

↓最初に戻る場合はコチラ

↓気分を変えるならコチラ!22歳夏のラブコメ!!

↓私のTwitter(最新ツイート)はコチラ

※「小説のファンです」でフォロバ10000%だよ!チョロいね!!


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?