だけど願いはかなわない 第十七話「変化」
「ジュンちゃん!…と、中田君!?」
クリスマスが目前に迫っているとは思えないほど暖かな、良く晴れた土曜の昼下がり。少し前に近所にオープンしたパン屋のテラス席で遅めの昼食を味わっていた俺達に、ニット帽の女性が声をかけてきた。
「リコちゃん!?わぁあ、すごい偶然!何年ぶり!?」
俺が思い出すより先にジュンが彼女の名前を呼び、歓喜の声と共に椅子から立ち上がって駆け寄る。
ジュンが近付くと同時、小さな女の子が彼女のスカートの陰にさっと隠れた。「ごめんね、この子人見知りで」と苦笑するその丸顔に見覚えがあった。中高の同級生だった飯田リコさんだ。
いつもニコニコしている女の子で、俺が太っていた頃も、体を鍛え出して見た目が激変した後も、良い意味で態度を変えなかった数少ない女子の一人だ。どちらかと言えば地味な子で、何かと目立っていたジュンとは一見タイプが違うのだが、その裏表の無い性格からジュンと気が合ったらしく仲が良かった。
俺達のテーブルに招き入れられて近況報告で盛り上がる飯田さんの膝の上、『ちひろ』と紹介された女の子はまるでコアラのように母親にしがみついたままだ。
飯田さんは話し込みながらも、時折パンをちぎってはちひろちゃんに握らせる。食べ物のおかげで落ち着いたのか、少しずつこちら側を向いてくれるようになったその顔は、母親似の丸顔が愛らしかった。どうやらコーンが好物らしく、パン本体よりもその上に乗った黄色い粒の方にご執心だ。
ちひろちゃんの頭上で繰り広げられる女性二人のお喋りをよそに、俺は中学時代を思い出していた。俺と飯田さんはクラスは違ったがお互い図書委員だった時期があり、図書室のカウンターで一緒に受付をする機会が何度かあった。
ジュンと兄貴が付き合い出したのもその頃で、ある日、教室の隅で兄貴とのなれそめを周りの女子達に説明していたジュンの言葉に対し、俺は激しい違和感を覚えた。
「小さい頃からずっと片思いしていて、やっと振り向いてもらえたの!」
一体、その言葉の何が引っかかったのか、その時は上手く言語化する事が出来ずにモヤモヤしていたが、それから数日後の昼休みに飯田さんと受付当番が重なった時、図書委員なのに活字を読まない俺の目は、飯田さんが手にしていたハードカバーの本に止まった。
「…それ、返却するやつ?漫画なんだ?」
「あ、うん、そうだよ。紫式部の源氏物語が原作になってるの。勉強にもなるし、面白いよ。読む?」
そう言って差し出された本を受け取り、図書委員としての仕事が途切れた際のヒマ潰しとして手元に置いた。
興味のあるジャンルでも無いし、漫画だから活字よりは面白いだろうという程度の気持ちで読み進めたのだが、その日の俺は放課後も図書館にこもり、その全十数巻の漫画本を次々と手に取ったが読み切れず、残り数冊を借りて帰宅した。
俺がその漫画にそこまで夢中になった理由は、名作古典の面白さを初めて知ったという部分もあったが、何よりもヒロインの一人である『紫の上』とジュンが重なって見え、あの時に感じたモヤモヤの正体を漠然とながら掴んだからだった。
幼い頃に光源氏に引き取られた紫の上は、純粋な気持ちで光源氏の事を父や兄のように慕った。しかしその実、光源氏側の思惑はというと、年端もいかない彼女をいずれ妻にする為、そして『自分にとっての最高の女性』として都合良く育て上げるために側に置いていたのだ。
兄貴のシロウは、周囲の人間にとってスペシャルな存在で、それは特にジュンにおいて顕著だった。恋は盲目と言うが、ジュンの兄貴に対する思いは信仰や洗脳という言葉の方が近いと思う。
兄貴の超人的な記憶力は、周りの人間の趣味嗜好から何気ない一言に至るまで全てを把握し、その能力で度々周囲を感激させては人の心を掴んだ。上品に整った容姿は他人に好意を抱かせ、落ち着き払った抑揚の無い口調は相手の耳を傾けさせる力を持ち、天才なのに文字が読めないというアンバランスさは嫉妬心を同情に換え、その存在そのものが不思議な引力を放っていた。
兄貴が持っていたのは、並外れた知能だけでは無い。並の人間には太刀打ちできない圧倒的な『何か』だ。
その『何か』を『魅力』と感じる人も多いだろう。けれど俺が兄貴に感じていたのは、『禍々しさ』だった。
ーーーーー 小さい頃からずっと片思いしていて、やっと振り向いてもらえたの!
どんな形にせよ、ジュンが兄貴に恋をした事は事実だろう。けれどそれは、幼い女の子の可愛い片思いから始まった恋物語などでは無く、兄貴のエゴの上に敷いたレールを進むようにコントロールされた呪いだと俺は思っている。
そしてその強力な呪いは、目の前から兄貴が消えた瞬間からジュンの魂を迷子にさせ、今も心に深く刺さったまま解けないでいるのだ。
俺は兄貴に対して恐怖と怒りを覚えると同時、けれど世界中にあふれている全ての恋は、大なり小なりエゴと呪いで出来ているのだとも思う。
「ちーちゃん、かえる!かえる!」
ジュンと飯田さんはまだまだ話し足りない様子だったが、しばらくしてぐずり出したちひろちゃんに急かされる形になり、ジュン達は改めて連絡先を交換してから店を出た。
帰ると言って騒いでいたちひろちゃんは、今度はパン屋の隣の店先にあったクリスマスツリーを気に入って動かなくなってしまい、飯田さんが「時間がかかりそうだからここで」と俺達に手を振った。
ちひろちゃんも、母親につられるように小さく手を振ってくれた。
「ちひろちゃん、可愛かったね。リコちゃんにそっくり。」
そう言うジュンの笑顔はどこかあどけなく、俺の脳裏にはちひろちゃんと同じくらいの背丈だった頃のジュンが浮かんだ。ジュンは、その年頃にはもうすっかりと兄貴に心を奪われていて、シロさんのお嫁さんになると言っていた。
俺達がこの街で同居を始めて九年。つまりは、兄貴が失踪して九年。年が明けて春になり、そして初夏が来れば丸十年になる。
もし、俺とジュンが同じ産院で産まれなければ、俺達の母親が親しくならなければ、そしてジュンと兄貴が出会わなければ、ジュンはどんな人生を送ったのだろうか。飯田さんのように可愛い我が子を膝に乗せていたかもしれないし、沢山の恋愛を楽しんでいたかもしれない。少なくとも、悲嘆に暮れる二十代を送らずには済んだだろう。
過去は変わらない、と、誰かが言っていた。
考えなければいけないのは、これからの未来だ。
俺はこの九年間ずっとそうしてきた様に、この良く見知った街をジュンと並んで歩きながら、ゆっくりと口を開いた。
「…ジュン、話がある。」
ジュンは俺の顔を見上げて足を止めた。街は年末の人出で溢れていて、俺達は道を行き交う人達の流れを邪魔しないよう、お互い無言のまま道の端に寄った。開けっぱなしになっている雑貨屋の入り口から、微かにクリスマスソングが流れてくる。
いつかはハッキリさせなければいけないと思っていた事だ。けれど、いざとなると言葉に詰まる。
「もう少しして色々と落ち着いたら…そうだな、春日さんの奥さんが危害を加えてくる心配が無いと確信が持てる時期が来たら、にしよう。その時が来たら…。」
遠回りな前置きに引導を引き渡したのは、意外や意外、ジュンの方だった。
「同居を解消したいんでしょう?」
寂しげな口調でそう言ったジュンの顔には、けれど優しげな笑みが浮かんでいる。
「少し前、あおいちゃん言ってたでしょう?いつまでも一緒には居られないって。だから、ちゃんと覚悟してた。長い間、私みたいな大きな子どものおもりをしてくれてありがとう。」
それからジュンは、俺達が幼かった頃にそうしていたように、俺の手を取り、ぎゅっと握って歩き出した。
「あおいちゃん、大好き!」
すれ違ったサラリーマン風の若い男が、クリスマスムードに浮かれたカップルがいると勘違いしたらしく苦い顔をしたのが見えた。
ずっと以前、産まれた時から一緒だった俺達は、男だとか女だとか、そんな事は無関係だった。
仲良く手を繋いで歩いて、子犬みたいにじゃれ合って、庭先の小さなビニールプールではしゃいで、一緒の布団で並んで眠って。
俺達のモラトリアムが長引いたのは、俺が同性愛者だったからに他ならない。それでも俺が異性である事は事実で、ジュンの幸せを願うのならば適切な距離を置くべきだろう。特に、『元恋人の弟』なんて、これからジュンの新しい恋人になる相手にとって、邪魔者でしか無いのだから。
けれど今だけは童心に返ってもバチは当たらないだろうと、俺もジュンの手を握り返し、いたずらな子どもがやるようにブンブンとめちゃくちゃに振った。
あはは、と笑うジュンの目には涙が滲んでいて、俺は気付かないふりをしてまた腕を振り回した。
・・・・・
『僕の弁護士から連絡があり、妻が離婚に応じると言っているそうです。ただ、今までも二転三転したので今回もどうなるかは分りませんが。離婚が成立したら、スミちゃんに話があります。その時は、会って下さい。』
ハルキ君から届いたメッセージに驚いたのは、離婚話の思わぬ進展にではなく、その彼らしからぬ文章にだった。
常に優しくいつも私の意思優先で、悪く言えば私の顔色を覗うようなところのあるハルキ君が、「会ってもらえますか?」や「会いたいです」ではなく、「会って下さい」と、今までに無い強い口調で送ってきたのだ。
人によっては見過ごすような些細な違いかもしれないけれど、あおいちゃんにおんぶに抱っこの自分から卒業しようとしている私にとっては、彼もまた変わろうとしているのだという意志のようなものが伝わってきた。
『分りました。連絡、待っています。』
ハルキ君にはもう会わない方がいいと、そう思った事もあった。
そしてそう思ったのは、あの優しいハルキ君が、理由があったにしろ既婚者である事を私に黙っていたというショックから目を背けたい気持ちも少なからずあったからだろう。
けれど結果はどうあれ、彼がこうして私に向かってくれているのだから、私も逃げずに話をしようと思った。
誰かと一緒に居られる事は当り前では無く、そしてその時間は有限なのだから。
それから、もう一人。
結果がどうであれ、向き合ってみたいもう一人の相手。
私が彼に抱いているこの感情の正体が何なのか、目を背けずにきちんと確かめてみたいと思う。
けれど、タナカタケシさんから連絡があった翌日の午後、いつもより少しだけ小綺麗な装いをして出かけていった鬼塚さんは、それからずっと何やら一人で考え込んでいて、業務連絡以上の会話すら無いまま数日が経過していた。
鬼塚さんの元で働くようになって、もうすぐ丸二年。けれど、こんなに何日も真面目な顔を崩さない彼は初めて見る。
モヤモヤした気持ちを抱えたまま資料整理をしていると、久し振りに鬼塚さんからお茶が欲しいとの声かけがあった。しばらく集中したいからあまり書斎には入らないようにと言われていたので、彼の机にこうして湯飲みを置くのも数日ぶりだ。
「ありがとよ。」
鬼塚さんはいつもなら言わないお礼の言葉を口にし、一口すすってから「なあ、ジュン」と、書斎を去ろうとしていた私を呼び止めた。
「…はい。」
私は襖を開けようとしていた手を止め、空のお盆を体の前で抱きかかえながら鬼塚さんに向き直る。
改めて正面から見つめ合った鬼塚さんの顔は、ほんの少しだけタレ目な事に気付いた。
骨張った太い首、しっかりとした鼻柱、眉間に刻まれたシワ。
そのシワが一層深くなり、笑う時にいつも豪快に開かれる彼の大きな口から、全く想定外の言葉が放たれた。
「お前、他の作家のところに行く気は無いか?」
つづく
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