フーコー『カントの人間学』読書メモまとめ

こんにちは。ご訪問ありがとうございます。
ええと毎度前置きもなくいきなり本題で申し訳ありませんが今日はフーコーの読書メモまとめになります。

では早速。

基本的に時系列、つまり読みながらメモして行ったものをそのまま繋げてあります。
引用に関しては原文にある傍点が打てなかったのでその辺り気になって仕方ないという方は原文をあたってください。すみません。
あと元になったテキストというか呟き@X(@4DoteidoP40)そのままです。あえて編集は無しで。改行だらけですみません。

ではでは始まり始まり......

「ここで人間学というのは、認識(したがって、あらゆる経験的な知)の権利上の限界が、同時に現実存在の具体的な形式でもあるような思考様式、さらにこの具体的な形式が当の経験的な知において与えられるとするような思考様式のことである。(ミシェル・フーコー 『言葉と物』渡辺一民・佐々木明訳,新潮社, 1974, 二六八頁参照)」
ミシェル・フーコー『カントの人間学』王子賢太訳, 新潮社, 2010, p.11
(点とかの細部ちょっと違うけどご容赦ください)

どこがフーコーの考えなのやっとちょっとわかるようになってきた今ここ

てかカントの元の論文?を読んでいないのでわかるはずもなかった滝汗

(そういえばカント読んでる時はそういう苦労はなかったな)

誰の何を読んでるのか迷子になってしまいには自分もいなくなりそうになった

カントを読んでいるフーコーが翻訳されたものを自分が読んだカントのことを考えたり自分が想像するフーコーのことを考えたりしながら読んでいる自分がいるけど消さなきゃ読めない以下ループ的な…

しかもそのカントが誰かの何かを読んでいたりしてもう笑えますね(ネタです)

つまり、フーコーにならないと読めないカント、というのがなんかすごい(笑と子並)、みたいな話だと思います多分

私はすでに私の仕方でカントを「読んで」いるので、結局今読んでいるのはフーコーなんだ、ということですかね

5「心と精神 ーカント哲学の本源的事実」
「この本源的事実の超越論的なヴァージョンによると、無限は決してそこにはなく、つねに本質的なしりぞきのなかにある。にもかかわらず、その経験的なヴァージョンにあっては、無限は真理に向かう運動と真理の諸形式のつきることのない継起に正気を与える。」p.77

でもなんていうかカントを見直すためにカントを超えた?じゃないか、カントを独自に再構成した?みたいな人を読んじゃうというのはもう既にチートなんじゃないだろうか…(遅い気付き)

6はかなりフーコーのイメージそのまま(半分くらい後付けだけど)というかフランス現代思想みが深かったなんつって(子並と大ブーイングに)それにしても改行少なすぎワロタ今ここ

やっぱりあくまで(フーコーが読んだ)カントを読まないと何も読めないんじゃないだろうか…(言い聞かせ)

あーそうかそうか「『批判』」と「『人間学』」を繋げ?よう?という試み?が既に独自で、いや独自じゃなくて、カントを読もうとしているフーコーであって、フーコーによるカントの理解だでいいのかな…

「『批判』において、時間は綜合の能動性に対して透明だった。その活動は構成的であるがゆえに、それ自体としては時間的ではなかった。『人間学』において容赦なく散逸をもたらす時間は、諸々の総合の活動を不分明で不透過なものにする。こうして時間は「規定」の主権を、「技法 Kunst」と呼ばれる実践の、辛抱強く、もろく、妥協に満ちた不確定性によって置きかえるのだ。」p.114(「8 体系的、大衆的」)

まだ途中だしなんとも言えないんだけどフーコーは『人間学』を通してカントというか『批判』を若干陰謀論的?に😅、超えることなく位相をすげ変えようとしたんじゃないだろうか。
とか言ってみた(おはようございます)

(平たくいうと実はこれはこういうことだったのだ〜みたいなやつ…くらいの意味です)

ていうか位相てなに汗

だから「精神」のところではすごく衝撃を受けたし、今まで自分には全く見えていなかった何かを見た…みたいになった。

実際、何か(「精神」)を見たんだけど。

「精神」に続いて「時間」のところまで来てその衝撃が二度目であるために弱まり、ああこれは新しい真実の発見の二つ目というよりも新しい発見そのものについての陳述なのだ、と思った、みたいな?(悪文かつ子並)いやそのまんま二つ目でもいいのかも、いいんだと思う、いいのだ(おい

それこそがフーコーの(違w)

(よくわかってないので冗談めかして誤魔化す最悪な人今ここ)

ただフーコーは『批判』を否定しているわけでは全くないので、普通に新しい要素(『人間学』)を付け加えることによって『批判』の見え方を変えた、と言った方が(陰謀論とかいうよりずっと)正しいのかもしれない
ただその変え方がなんというかこう言っていいなら暴力的というか反動的というか隠された怒り?に満ちているイメージがあって、いやそれは違うんだけどなんというか

うんそれは全然違うんだけど
フーコーの提出する新しい何かの出現自体が結果として読者にとってのカントを暴力的に塗り替えるみたいな感じかなーわかんないけど…
つまり怒りは読者(私)の方にある。

あと今更だけど翻訳が読みにくい
日本における西洋哲学の専門用語がなぜか全ぶ漢字で育った?みたいになったせいなんだろうけど(で合ってます?)
なぜかも何もないか😅
原文が仏語で自分には全く読めないので何もわかりませんけど、最近の哲学になればなるほど翻訳大変そうだなあという想像はする

『技法』の定義のあたり(p. 115)昨日だっけ自分がした虚構の構築(=リアリズム)の話と似てるところがある?(我田引水ごめんなさい)
“簡単に言うと超越的な虚構(フィクション)の再構築がリアリズムだ、という結論ですかね…“(2024.05.14 X@4DoteidoP40)

「『技法』の役割は『現象』の上に『現象』に抗して『見かけ=仮象』を打ち立てるとともに、『見かけ』に『現象』の充実と意義を与えるところにある。」

アーティストが作品のステイトメントに使えそうな文章が詰まっててある意味笑える…(「時間」の話)

「『人間学』は『批判』のア・プリオリを本源的なものにおいて、すなわち真に時間的な次元において反復するのだ。」(p.118)
…自分がなぜ最先端や流行でなく“古い(もの)”にこだわりそれをアップデートせず古いままに提示しようとするのかの言い訳になりそう↓

つまり、使われるまい、こっちこそ使い返してやると企図しようとしている現在の自分が
フーコーの何かを見つけるような在り方(子並)と重なる。みたいな(適当)

つまり、フーコーはカントになろうとしているのではなく、もしくはカントの作った世界の住人になろうとしているのではなく、カントの世界を見つめることを通して見つめた(別の)世界を(ここでは)見つめている、ということです

これは余談ですが時に先に進むより戻るほうが難しいということはありそうですよね

(閑話休題)
例えば自然は人間に観察されても見返りは求めない、その身を削って与えても見返りは求めずただ崩壊する。カントは人間像という世界を描いてしまったために、その中で何が起ころうが(フーコーに)関与することができない。みたいな?

「…今度は、本源的なものはあらかじめ存在する秘められた意味のなかにではなく、もっとも眼につきやすい交換の軌跡のなかにあると言ってもよいだろう。言語はこの交換のなかで現実性を獲得し、完成し、再発見するのであり、人間もまた同じようにそこで人間学的な真理を展開するのである。」(p.131)

ふと思ったけどこれに倣うなら、自分にとって(言葉の)意味とは、元からあったり(言葉によって)作られたりするものではなく、何度も繰り返されることによって形成され発生する本体の影のようなもの=習慣、なのでは、とか

「その根本的な考察に対して、『人間学』は反復されるものの一貫性も、反復を根拠づけるものの深さも持ってはいない。だからこそ、『人間学』はこの反復にとって移行的にすぎないが必然的な契機なのであり、逆説的とはいえ、本質的であるゆえに精算され、消え去らざるをえなかったのだ。」(p. 134)

なんか目が開いていることがだんだん苦痛になってきた(眠いの意ではぬ)
(別にフーコーが視覚的だとか言いたいわけでは…あるのかもしれない…なんとなくだけど…)
じゃなかったら視覚的なのはフランス語が?翻訳が?とかも考えてみたけどわかるはずもなかった

カントの『人間学』の元ネタの話(10)

「その結果、人間学は根拠でもあれば限定的な規則でもあるものとして、まるで規範的な認識のように振る舞い、人間を問題にする諸学のそれぞれにどのような道を進むべきか、またそれがどのような可能性と限界を持つのかをあらかじめ指定することになる。」(p. 149)

「実際、歴史的に言って、人間学的錯覚は超越論的錯覚から派生する。(中略)超越論的な仮象の必然性はしだいに、真理と現象と経験の構造としてよりも、有限性の帯びる具体的な聖痕(スティグマ)として解釈されるようになっていった。」(p.158)

読了

なるほどハイデガーかー(訳者解説)

【感想まとめ】(フーコー カントの人間学)
・有限性
有限性(真理の及ぶ領域を限定することによってもたらされる自由by SD)について新しい観点ー技法、普遍的ではなく操作的または指示的なそれの前段階としての時間のねじれ?を発見した
・受動性(そんな話あったっけか?)
普遍に取り込まれることは拒み限定された存在である人間による超越の超越の可能性を試みた。(適当すぎるすみません)

ねじれではないな…なんて言えばいいのか…被可塑性かしら

最後の10(章)はフーコーにどんどん取り込まれてニーチェを読んでいる時のような申し訳なかったです的な気分になりましたね(カント信者の子並な呟き)

やっぱりなんというか
意味(メッセージ性や批評性)のあることを言われると簡単に取り込まれそうになってしまうのだけれど、カントにはそういうもの(メッセージ性)はないように見える、そこがカントと他の多くの哲学者(フーコーも含めて)の最大の違いではないかと思いますね…

(て他に誰を知ってるというのだおいおいおいおry)(

被可塑性も違うか(後回し今ここちょっと疲れた)

というかカントについての本なのだから批評性があるのは当然ですね失礼しました…フーコーの他の著作を読んでいないので何も言えません。

結局正しさとはなんなのかみたいなことをボンヤリと

まあというか昨日のフーコーでは、

自分が前に言ったことを受けて先を続ける、そこから一番“正しさ”を学んだのですが

簡単にいうと文章の論理的な(??)組み立て方というか方法の話になってしまうのかもなんだけど

さらに簡単にいうと人文学における正しさの話になるのかしら わかんないけど

人文だけじゃないか

論理と普遍性の話にもなるのかしら(なんのはなしだこれ?)

論理学みたいに具体的に具体的な論理をどうこうという話ではないような気がするけど…

まあというかここでいきなり論理性や論理学の話だ、にしちゃうと“こぼれ落ちる”もの、そっちの方が大事なので

なぜなら論理性や論理学については“専門的に“やっている人たちがごまんといて最先端もあって私が知りたいのはそれではない(それでもある)ということはわかっているから

そもそも論理の前提として選択行為(限界付けの行為)があって、

というか前提(を立てること)こそが論理の始まり?であって、

そこからスタート地点であれゴールであれ普遍性の中で、もしくは、、、普遍性自体を、

いじる。みたいなイメージなんですが。

つまり論理は要素単独では成立しないので

最初に何かがなければならない

要素単独にする、それが限界付け行為でもあり、

フーコーの場合は、要素が延々と、密接に、必然的な連なりの中でしか成立しないように意図的に描かれていて、

それがうざかった。というのはあったかも(イキリ2)




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?