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黄金の谷

 S男は走った。走る。逃げる。逃げつづける。足跡をなめるように銃弾が地に突き刺さっていく。S男は草むらに倒れこんだ。間一髪空からの機銃掃射を避けた。戦闘機が轟音を残して飛び去って行く。生身の人間に20㎜弾をまくのは非効率極まりないが、最近のT国の兵士は面白半分で襲ってくる。そういう者が目立つ。

 ここは南洋の群島である紅茶諸島の一つ、落花生島。K国によって占領されて2年になるが、もう制海権、制空権ともに失って久しい。島に残る兵士たちはもはや孤立している。補給網もT国の通商破壊戦によってとうに絶たれた。紅茶諸島への輸送船はT国の潜水艦群によりことごとく沈められている。

 夜陰にまぎれて輸送船が物資を運び入れたことがあったが、それはさていつの日のことだったろうか。兵員、食料ともに、上陸することなく海の藻屑と消えていった

 落花生島への上陸作戦が開始されて一週間ほどになる。かつて群島の占領軍だったK国軍は、いまやS男たちの第二小隊と第五小隊をあわせて8名を残すだけになった。文字通り残党軍である。

 「S上等兵、動けるか」

 這いつくばっているS男に小隊長が声をかけた。S男は顔を上げて「だいじょうぶです」とこたえる。小隊長以下第二、第五小隊混成軍の8名は林の奥へと向かった。8名の兵士はただ彷徨っているに等しい。T国軍から逃れ逃れ移動しているが、はたしていつまでつづくのか終わりのない逃避行の色合いを帯びている。

 「立て、愚か者!」

 どこにそんな大声をあげる元気があるのかと問いたくなるような声音で曹長が叫んだ。兵士のひとりがうずくまっている。背中を曹長に蹴られ、前に倒れた。

 「よさないか!それにT国軍がどこにいるかわからないんだ。怒鳴るのはやめろ」

 小隊長が曹長をたしなめた。うずくまっていた兵士が立ち上がって、小隊長に少し微笑んだ。一行の行軍はつづく。各自軍服は汚れ切っている。南洋諸島を制圧して制海権を握っていたことが、遠い過去のようである。さながら世界でいちばんみすぼらしい軍隊と化していた。

 一隊はどこを目指しているのだろうか。小隊長の足取りからは、なんらかの目的意識が感じられた。ここまで勝ち目のないいくさとなってもT国軍になぜ降伏しないのだろうか。この小隊の弾薬はもうわずかであるし、なにより食料が乏しすぎた。K国軍には捕虜になることを禁じる布告がなされていた。

 このことが勝ち目がきわめて少なくなっても、彷徨のような行軍を続ける大きな理由である。K国民は戦争前はまじめな国民性が世界から賞賛されていた。誠実な国民性は、捕虜になるのを禁じる戦陣訓を守ることにも発揮されてしまっている。

 「もう少しだ。そこで小休止しよう。」小隊長は兵士たちに声をかけた。隊は安堵のような空気に包まれた。

 間もなく一隊は視界が開けた場所に出た。眼下にはおおきく裂けた谷が広がり、そこかしこに水が滝となって流れている。兵士たちは絶景に息を飲む。谷の木々と水は太陽の光を受けて黄金に輝いていた。

 「すげー、こんな景色は初めて見た」

 右腕を負傷している兵士が感嘆の声を上げる。

 「ここが目的地だ。一同小休止」

 小隊長が一行に告げた。

 兵士たちの間から安堵のような声がもれた。曹長が睨めつけてくる。

 小隊長が曹長を一瞥する。
「休んでいいぞ」と曹長はできるだけ威厳を保とうとした声で行った。

 兵士たちは腰をおろし水を飲むなり、風景をながめるなりしてしばしの時間が過ぎた。S男は気になることがあった。小隊長の顔が、憑き物が落ちたかのように晴ればれとしているからである。兵士たちに小休止を告げてからずっと同じような顔をしていた。

 小隊長は曹長に目をやる。

 「注目」

 曹長が目をいからせながら兵士たちに言った。

 8人の兵士を見回すと小隊長はおもむろに口を開いた。

 「諸君よくここまで戦った。多くの仲間を失い、弾薬の補給もなくただ島を逃げ惑うような行軍を強いてしまったことをここに詫びる。すまなかった。無尽蔵なT国の兵員、物資の前にはもはやわれらは刀折れ、矢尽きたというところだ。ことここに至っては戦陣訓にあるとおり、生きて捕虜となる辱めを避けることが最も重要である」やや厳しい表情をしていた小隊長は、すこし口元を緩め、「わかるな、諸君」と語りかけた。

 S男が口を開いた。

 「小隊長、なんだかわかったような気がしますが、なんだか・・・その・・・・・」

 曹長が怒鳴った

 「貴様、なんだその腰抜けぶりは!」

 曹長は軍刀を抜いた。

 「よさないか曹長!最期の時を汚さないでほしい。いったん刀をしまいなさい」

 小隊長はつづけた。

 「諸君、正直怖かろう。まずわたしが手本を示す。わたしは軍刀を使うが、諸君らは各自が携えている手榴弾を使ってくれ。曹長、介錯は不要だ。わたしの次は君が続けて手本を示せ。いいな」

 曹長の顔が青ざめた。

 小隊長は谷を向いて正座をすると、逆手に持った軍刀を腹の左寄りに突き刺した。横一文字に切ると、ホルスターから拳銃を抜いてあごの下に突きつけると引き金を引いた。谷間に轟音がこだまする。

 兵士たちは敬礼を送った。そして一同の目が曹長のほうを向く。曹長はますます青ざめたが、「貴様ら、なめるなよこれがK国男子のあるべき姿だ」と怒鳴ると、拳銃を抜いて右の側頭部を撃ちぬいた。曹長がどっと倒れる。

 「K国に栄光あれ」行軍中に曹長に背中を蹴られた兵士が手榴弾を胸に押し付けた。ほどなく爆発した。

 次々に手榴弾を胸に押し付けての自決がつづいた。残ったのはS男と右腕を負傷した兵士だ。負傷兵はS男の顔を見てくる。負傷兵はお前もやるのかと目で尋ねてきた。S男は首を横に振った。負傷兵の顔がみるみる怒りに染まった。

 「貴様、小隊長に申し訳なかろうが!」

 「曹長にでもなったつもりか?」

 つめたくS男は言い放った。

 「逃げる気なら俺がこの手で殺してやる」

 負傷兵は手榴弾を投げようとした。

 ピンを抜こうとした刹那、拳銃の音が鳴り響いた。S男の手には小隊長の拳銃が握られていた。負傷兵がどっと倒れる。

 S男は拳銃をベルトに差すと、小隊長と曹長の死体から残りの弾薬を集めた。

 「さてと、晴れて自由だ。どこまでやれるかな」

 S男は谷を後にした。


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