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郷愁の雨音 徒然なるままに日暮らしnoteにむかひて

夜半ふと目がさめると雨音が聞こえてきた。庭に落ちる雨音と、すぐそばの窓の外で屋根を打つ雨音の二重奏。ごくたまに車が通り過ぎる以外、静寂な空間にリズミカルな雨音が心地よく響く。少し朦朧とした意識の中、雨のせいなのか歳のせいなのか、たぶん両方で記憶が過去へと巻き戻されていく。

初めての東京での一人暮らし。受験した大学は全滅し池袋の予備校へ通っていた。同じ歳頃の若者が集まっていたとはいえ、人に声をかける勇気など持ち合わせていなかったので、教室ではいつもひとり。理想だけは高かったが、結局は独りよがりの理想など空虚なもので、まじめに授業に出たのは最初だけ。

そのうち予備校へ行くふりをして、池袋東口のパルコにあった三省堂書店へ日参していた。一人暮らしで親や家族がいるわけでもないのに、予備校へ行く「ふり」をするとはおかしな話だが、自分の中にどこか後ろめたい気持ちがあって、自分自身を欺いていた。

パルコはとなりの池袋西武デパートとつながっている。そのつなぎ部分はガラス張りになっていて、そこから東口の景色が眺められた。よく池袋、新宿、渋谷と三つ並べて言うが、当時の池袋は新宿や渋谷より少し田舎っぽい雰囲気があったらしい。池袋を起点にした西武池袋線も東武東上線も行き先は埼玉県。都民からは埼玉は田舎だと思われていて、田舎から出て来た人の入り口が池袋。そんなイメージがあったのかもしれない。

まだサンシャインビルも建っていなかったが、北陸の、それこそ田舎から出てきた身には、池袋は十分都会だった。書店で本ばかり見ているわけにもいかず、デパートや駅に出入りする人の姿を何をするでもなく上から眺めていた。雨の日など、色とりどりな雨傘の花が咲いていた。すると決まって頭の中でレコードが回り出す。聞こえてくるのは三善英史の『雨』。

「傘の花が咲く 土曜の昼下がり」 まったく歌詞のとおりだなと思った。
「約束した時間だけが 躰をすり抜ける」 誰と会う約束をしていたわけでもないが、哀愁を帯びた歌詞はこころ酔わせるものがあった。そんな高尚な感覚ではなくて、一人暮らしを慰めてくれただけなのかもしれない。昭和の真っ只中、とくに暗くもないが、さほど明るくもない青春を送っていた。

この歌は三善英史でなければならない。他の誰かがカバーしても興醒めするだけだ。『雨』といえば三善英史、三善英史といえば『雨』。それ以外の彼の歌は覚えていない。一人ひとりにとっての名曲とはそういうものだと思う。

雨音は何かの楽器で表わすことができるものだろうか。雨音といえばもう一曲、必ず思い出す歌がある。小林麻美の『雨音はショパンの調べ』。ショパンといえばピアノだが、この曲は雨音を「ショパンの調べ」になぞらえている。三善英史の『雨』が演歌だとすれば『雨音はショパンの調べ』はポップスあるいはニューミュージック(この言葉もすでに「死語」かな?)。

「耳をふさぐ 指をくぐり 心 痺らす 甘い調べ」
「ひざの上に ほほをのせて 「好き」とつぶやく 雨の調べ」
歌詞はずいぶん大人っぽい。『雨』から十年ほど後の曲だから、自分も大人になっていたが、こんなシチュエーションとはおよそ縁がなかった。それでも恋に酔う期待感を抱いていたような気がする。

元はイタリア人歌手による楽曲だが、日本語の歌詞をつけたのは松任谷由実。ニューミュージック調であることも頷ける。小林麻美の大人っぽく、気怠いとでもいうような雰囲気と相まって忘れがたい一曲である。

三善英史も小林麻美も、そして松任谷由実も自分とほぼ同じ年代、年頃のはずだ。同じ昭和という時代を生きてきて、雨音を聞くたびに彼彼女らの曲を思い出すというのは、必然なのだろうか、それとも不思議な縁なのだろうか。

近年、雨が降れば大雨ということが増えている。静かな雨音を聞くのはだんだん希有な体験になりつつあるように思う。子どもの頃、夏の日の気温が33℃にもなると、いまでいう「猛暑日」のような感覚だった。いまでは33℃だと聞くと今日は暑さが控えめだと思ってしまう。感覚の鈍磨とは怖いものである。

そよ風が心地よいのは、人間の意思とは無関係に吹いたり止んだり、急に強く吹いたり弱くなったりするからだろう。一時期「ファジー」という言葉が流行った。ファジー技術だのファジー工学という言葉もあった。不規則性(曖昧さ)の中に規則性を見いだし、それを技術的に応用しようという試みである。

ファジー扇風機という商品もあったように思うが、売れたのかどうかは知らない。本物のそよ風に似せた風を起こす扇風機だったのだろうが、本物のそよ風を超える心地よさを再現できたのだろうか。そのうち静かな雨音を聞く経験もなくなっていけば、ファジーな雨音を再現してくれる機械も登場するかもしれない。

しかし、偽物は本物があるからこそ偽物なのであって、偽物は本物を超えることはできないはずだ。もちろん偽物の方が本物よりも心地良いそよ風や雨音を再現してくれるかもしれないが、それが偽物であって本物ではないという事実から逃れられないはずだ。

日本人は雨が好きな民族である言われる。日本には明確な四季があって、四季それぞれに降る雨も、異なる表現がされてきた。そんなこともあって、雨をうたった詩歌や雨を描いた小説のたぐい、雨の風景を表現した絵画などは数限りないだろう。

ところが、地球温暖化、あるいは近年の気候変動が進むにつれて、四季は徐々に曖昧になりつつある。夏はこれまでになく暑くなりすぎたり、冬は冬で寒くなりすぎたりする。降れば大雨や大雪。逆に夏なのに寒かったり、冬だというのに暖かかったりもする。夏から冬へ、冬から夏へと向かうとき、季節が急激に変化し、間にあるはずの秋や春が短くなっているように感じる。

四季は日本の文化を育んできた基盤である。その基盤の上に、雨音の郷愁やそよ風の爽快感が乗っている。基盤が揺らげば情緒も失われていく。温暖化や気候変動は文化も情緒も破壊するとすれば、いっそう罪深い。もちろん原因は人間にあるのであって、罪を償うのも人間である。ただ、少なくとも、われわれが原因を作り出し、結果を子どもたちに被せることはあってはならない。

雨音を聞きながらまどろむ静かな時間は遠からず奪われてしまうのだろうか。

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