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理解するのは、決断したあとでも良い

昨晩観た映画で、ひとつの会話が印象に残った。

主人公は、未来を知る力のある女性と語っていた。
主人公はこのように言った。

「(あなたが未来を知っているなら)俺に選択の余地はない」と。
しかし女性は答えた。「選択はもうしている。ここへ来たのは理由を知るためよ」

女性は主人公に対して、自分が未来を知っていようとも、あなたは自分の選択でここに来たのだと言った。そして、ここへ来たのは自分の選択の理由を知るため(理解するため)なのだと。

映画の文脈はさておき(さておいてすみません)、ここのセリフで「およよ?」と思った。この女性は、「選択してから、理解する」と言っている。

でも、何かを選択しようとするときに、選択する内容を「理解」して、なぜそれを選択するのかという「理由」を知ってから選択する、それが一般的な順序ではないだろうか。

例えば結婚を考えるときは、相手のことを知って、相手と自分が一緒に過ごす理由を自分で納得してから結婚に踏み切るのではないだろうか。

就職先を決めるときだって、就職先の仕事内容をちゃんと知って、自分がその内容に納得してから働こうとするのではないだろうか。

だからこそ、それとは反対の「決断してから理由を知る」という流れに違和感を感じた。


夫にそのことを話すと、彼は「何だかヘブライ的な考え方だね」と言った。

そう言われて聖書の冒頭にある「創世記」に登場する人物のことが思い出された。そう、イスラエルの人々にとって「信仰の父」とも呼ばれるアブラハムだ。アブラハムは神から「わたしが示す地に行きなさい。そうすればあなたを祝福しよう」と語られる。そして聖書の次の行には、ただ、『アブラハムは、主が告げられたとおりに出て行った』と書いてある。神が示す場所とは何処のことなのか。そして祝福とはどのようなものなのか。アブラハムには知りようもなかった。しかし、彼は自分の理解を待ってから旅立ったのではなく、ただ「行け」と言う言葉を拠り所にして旅立ったのだ。(そしてその先アブラハムは、自分の身に起こる予想もしなかった出来事を経験していくのだが…)

おそらく、旅立ちを決めたアブラハムの人生は、その決断を理解していく道のりだったのだろう。神が言われた「行くべき場所」、そして「祝福」が何であるのかを、アブラハムはただ頭で考えて理解するのではなくて、行動しながら身をもって理解していったのだ。

もしかすると、行動する前に理解できることなんて、世の中には本当に少なくて、ほとんどの物事は、実際にそのように行動して初めて理解できることなのかもしれない。頭で「理解したように思えること」はたくさんあっても、それはどこまで行っても頭で理解したことなのだ。


結婚前、夫になる彼のことは「優しそうな人だな」と思っていた。こちらの話もよく聞いてくれるし、相手を思いやる言葉を使える人だった。そして自分の人生で、何を大切にして生きていきたいのかを明確にしている人だった。私は、結婚したらこの人を支えて生きていきたいと思った。

でも、実際の結婚生活は予想とは異なるものなのだ。

優しさというよりは、むしろ面白さを全面に出して、日々家族を楽しませようとする夫の姿を知ったりとか。夫を支えようと考えていた私に対して、「僕の活動を支えるのではなくて、ふたりだから一緒にできることをやりたい」と言ったりとか。

おぼろげに思い描いていた結婚生活は、およそ何一つ実現しなかったとも思う。でも、予想していた通りになれば、それで良かったのかというと、「いや、そうじゃない」と思う。

時には、避けられるのであれば避けたいと思うような、ぶつかり合いを経験しながらも、互いを理解しようとしたこと。不機嫌な姿を家族にぶつけると、どうなるかを知って、怒りの収め方を学んだこと。思いがけず子どもを授かったこと。子どもがいたら、夫の活動は今まで通りにはいかなくなるだろうと周囲から言われていたけれど、結局続けることができたこと。結婚前に考えもしなかったことばかりだ。

これも、結婚生活がどういうものなのか、実際に結婚生活を送りながら理解している、と言えるのかもしれない。


実際に、過ごしてみなければわからないことはたくさんあるのだ。

結婚に関して言えば、とにかく踏み切ることができて良かったと思う。全てを納得するまで吟味してからしようとしたなら、途方もない時間と労力を費やして、結局のところ徒労に終わったかもしれない。

でも、もしかしたら人生の中で起こるあらゆる決断を前にして、「これは納得できないから」と決断を先送りにしていたり、機会を失っているものがたくさんあるのかもしれない。

もしかしたらそれは、とてももったいないことなのかもしれない。自分で自分の限界を定めてしまっていることなのだ。


映画の中で、女性はこのように言った。
「選択はもうしている。ここへ来たのは理由を知るためよ」

選択をして、歩みの中で理由を知ること(理解していくこと)。

この生き方が、もしかしたら、わたしたちにとってもヒントになるかもしれない。

「理解してから決断しなければ」と思っていると荷が重すぎることも、実際にやってみて理解したら良いと思えれば、ずいぶん気が楽になるものだ。

決断の後は、出来事の一つ一ひとつが、自分に理解を与えてくれる。それを十分に吸収したら良いのだ。

「こうしたい」「こうでありたい」と願うときに、心はすでに決まっている。あとはとにかくやってみたら良いのだ。


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