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わが子に、イエス・キリストについて伝えたい

自分の子どもたちにも、イエス・キリストのことを伝えたい。
ぼんやりと、そう考え始めた。
今年の初めの頃だ。

私も夫もクリスチャン。2人とも大学生の頃にイエス・キリストについて聞き、信じてクリスチャンとなった。
自分にとって大切な存在は?と聞かれたら、家族と答えるだろう。それから友人、出会った人々…。

でも、自分を救ってくれた存在、自分の生き方の指針となってくれた存在は?と考えると、答えは自ずとイエス・キリストに行き着く。
そう考えると、イエス・キリストというのは私にとって、最も大切な存在なのかもしれない。

私の夫はイエス・キリストの生き方に魅了され、あるいは心を打たれ、牧師という生き方を選んだ。

家族の前では冗談ばかり、食べるのが好きで、見ている方が気持ちいいくらいの食べっぷり、寝る前に欠かさず漫画を読むほどの漫画好きの夫である。
そんな姿ばかりを見ていると、夫が牧師であるということを忘れてしまうけれど、時折少年のように目を輝かせて「聖書を読んで、こんな発見をしたよ!」と嬉しそうに報告してくれる夫を見ると、彼の心の中にはイエス・キリストへの純粋な想いが、今も昔も変わらずに燃え続けているのだ、と思う。

そんな私たち夫婦だから、当然のように自分の子どもたちにもイエス・キリストのことを知って欲しいと願っていた。
もちろん、信じるか信じないかは本人が決めること。そして信じさせることは私たち人ができることではない。
でも知らなければ、信じることもできない。
せめて、イエス・キリストの生き方を知ってほしい。

そんなある日、夫が娘のために聖書の絵本を何冊かプレゼントした。
「イエスさま大好きー!」という言葉を娘に教え、「これで信仰教育は終わりだね」と笑っていた夫も、それで終わりではなかったようだ。
あんなに分厚くて、読み通すのに根気のいる聖書が、カラフルなイラストと短い文章でまとめられている。
ページをめくってみると、内容がスラスラ頭に入ってくるものだから、親の私の方が読んでしまいそうだ。

海外らしさを感じさせるコミカルなイラストに娘も目を奪われたのか、しばらくの間、この聖書絵本を「読んで」と言って何度も差し出していた。

聖書の内容がそのまま絵本になっているというだけあって、かなり分厚い絵本である。
一回で読み通すことはきっと想定されていないはず。そうなると、全部読むためには、読みかけたところから再開するしかない。

しかし、誰が予想しただろう。彼女は絵本を途中から読み始めるという考えがない。毎回毎回、読み始めるのは一番最初から。

「はじめ、世界にはなにもありませんでした」から始まり、アダムとイブが登場する。
それからノアやアブラハムが出てきて、出エジプトにさしかかるあたりには、「もう寝ようか」と言って本が閉じられる。
今まで絵本を読んでいて、イエス・キリストが出てきた試しがない。なんてことだ。


聖書も絵本となればこの通り
なんだか楽しそう

幼い子どもの興味をひく内容ではなかったのか、それとも親の忍耐が足りなかったのかはわからないが、いずれにしてもいつの間にか、聖書絵本は本棚にしまわれたまま、あまり読まれなくなってしまった。

「自分の子どもにキリストのことを伝えたい」
その想いはいつも心の片隅にあるものの、日常生活に追われる中で、いつも実行することはできない。
いつかいつかと思いながら、月日だけが流れていった。

私の重たい腰をあげてくれたのは、思いもよらない出来事だった。

4月から幼稚園が始まった娘。
今までずっと親の側で過ごしていた娘にとって、たった数時間でも親のいない環境で過ごすということは、大きなショックだったようだ。
入園翌日はなんとか耐えていたものの、その次の日からは朝起きるたびに大泣き。
口を開けば、「幼稚園に行きたくない!」と言って泣きわめいている。

いつかは慣れてくれるはず…。そう思いながらも、毎朝「行きたくない!」と言って大泣きする娘を、無理矢理引き渡すように先生に預けていると、幼稚園に行かないという選択も頭にちらついてくる。

「行きたくないんだね、わかるよ、私もそうだった」と言ってなるべく娘に寄り添おうとしてみたり、それでいて登園の時間が差し迫ってくると、「早く行くよ!」と言って急かしたり。
気分と状況によって一貫しない娘への対応に、自分自身で呆れながら、毎朝繰り広げられる娘との戦いに次第に疲れてしまった。

そんなときだ。
このことを、神さまに祈りたいと思った。
娘が安心して幼稚園で過ごせますように、と。
そして、そう願っていることを、娘にも伝えたいと思った。

夜、いつものように娘と布団の中で絵本を読んだあと、こうたずねた。

「一緒に神さまにお祈りしてみようか」
「うん」
娘から小さな返事が返ってきた。

よし、と思い、娘の手を握った。

「神さま、今、幼稚園に通っています。お母さんや父マンと離れて、寂しいこともありますが、どうか安心して過ごすことができますように。
イエスさまのお名前によってお祈りします。アーメン」

私の短い祈りを娘は黙って聞いていた。

祈り終わったあと、私は不思議と肩の荷が降りた気がした。幼稚園に行かせよう、行かせようと頑張ってきたけれど、神さまに委ねて自分はただ見守ればいい、そう思った。
そして、クリスチャンと言いながら、私自身がまずひとりで祈ろうとしていなかったことに気付き、少し情けなくなった。

でも、娘と一緒に祈ることができた。
これからは、もっと一緒に祈るようにしよう。

充実感のなかで、電気を消して、さあ寝ましょうかというときに、娘が小さな声で聞いた。

「イエスさまはおうちに来る?」

不覚にも笑ってしまった。
そうだよね、姿を見たいよね。
いつも話には聞くけれど、何者なんだろうね、イエスさまって。

イエス・キリストについて娘にうまく伝えられるかどうかわからないけれど、少なくともその一歩は踏み出したようだ。

人が神を信じるという不思議を、もしかしたら身近で見守れるかもしれないという期待を抱きながら、これからも子どもたちにイエスさまのことを伝えていきたい。

とはいえ、教えられたことよりも、親の姿を見て、子どもは学ぶのだという言葉を聞きながら、まずは我が身の襟を正すことから、と思うのだった。

ところで、入園から1ヶ月半ほど経った今、入園当時の姿が嘘のように、娘は幼稚園を楽しみにしている。
イエスさまは祈りを聞いてくれたのだろうか。

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