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死ぬかもしれないと思ったことに驚いた

3回目のCBTからの帰路にこれを書き始める。
数日前に目にした横道誠さんのNote記事によって腹落ちしたことがたくさんある。
そのことを思いながら書いてみる。

約3年前にコロナとは関係なく行き詰まることがあり劇烈な絶望感で毎晩それと向き合い号泣していた。
過去形なのはその症状が少々治まったからだが、決して安くはない認知行動療法を選択しようと思う程度には苦しい日々である。この歳になってリストカットをしだすとは思わなかった。(リストカットは若年層のするものという偏見はあるとは思う。実際に年齢層に偏りがあるのかどうかを調べたこともない)

CBTの過程で鬱の判断をされたが、今の状態が鬱なら私の人生の大半は鬱だったろうと思う。妙に前向きな時期も長かったから躁鬱なのかもしれない。専門的なことは全く分からない。「アメリカ人の半分は躁病」「日本人の半分は鬱病」という笑い話があるが、自分がその鬱病の方だろうことは診断されなくても分かっている。そのくらいの感覚。


目の前にぶら下がっている快楽が必要で、アルコールとセックスが好きだが、両立させるのは困難だった。
漫画・アニメ・ドラマ、それらも私にとって麻薬の一種だが、やはり映画を映画館で観るのが一番意識が持っていかれるのでとても良い。

「映画は効く」という表現を横道さんの文章で目にした。
「あぁ効いていたのだな」と腑に落ちた。

横道さんの別の記事で「自分のために泣くのではなく、悲しい映画を観て泣くことが「効く」」という言語化に、自分は日々自分のために泣いているが、映画を観て気持ちを持って行かれていることによって知らずに癒しを得ていたんだなと、知っていたようで知らなかったことを教えてもらった気分。


リストカットは、刃物の恐怖に向き合うことでそのときの劇烈な感情を逃す。死ぬためにするのではないということがよく分かる。

しかし半月程前に、酔っ払って意識を飛ばすために度数の高いビールを飲んでいるにもかかわらず、気分がよくない、寝れない、なんなら物理的に苦しい、とにかく苦しい、息が上がる、これがずーっと続くのか?生きてる間?と思ったら、肉体的な苦しみから逃れるためにリストカット用のカミソリでそのうち手首を切って死ぬだろうと確信した夜があった。

希死念慮とは違うのかもしれない。シラフのときは思わないから。
しかしシラフのときには怖くてできないだろうという横道さんの言葉には肯定しかない。
だからこそ逆に「酔っ払って体がおかしくなったら自ら死ぬ」と思ったことに驚いたし、このタイミングでこの記事を読んだことによって、自分の感覚を言語化されたような気がしてとても腑に落ちたのだった。

なぜ自死がいけないことなのか、なぜそう認識しているのかも謎だけれど、倫理観ではなく怖いからできないは正直なところである。

年末に読んだ豆塚エリさんの「しにたい気持ちがきえるまで」も思い出した。
「自分は死にたいと思っていたけど、身体はそう思ってなかったみたい」と言っていた。なるほどである。

映画は映画館で観るものだと思っているし、気に入った作品はリピートもするが、反面、現実逃避の自覚があるからものすごく虚しい気分になることもある。面倒で映画館に行けないときもある。
でもどうしても映画でいっときトリップしたくなる。


最近観て良いトリップができたのはケイトブランシェット主演の「TAR」
最高に面白かった。傲慢な指揮者が崩壊して再生する話し。サイコスリラーのようだけど、私は現実の話しとして捉えた。もう一回観たい。

https://gaga.ne.jp/TAR/about/


明日は「ウーマントーキング」「アイドリッシュセブン」「怪物」と、体力的に行けそうなら「The Killer -暗殺者」を観る予定。


「映画鑑賞によって希死念慮をなんとかしたいいきたい」

#希死念慮 #CBT #認知行動療法 #アル中 #日記 #映画

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