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文学の散歩道10

 冬の夕暮れ、「私」は横須賀発上り二等客車の隅に腰を下ろして、ぼんやり発車の合図を待っています。珍しく「私」の他に乗客はおらず、プラットフォームにも見送りの影も見えません。「私」は「云ひやうのない疲労と倦怠」を感じていて、外套(がいとう)のポケットに両手を突っ込んだまま、そこに入っている夕刊を出して見る元気もありませんでした。
 やがて発車の笛が鳴り、汽車が発車するという時、車掌の罵(ののし)る声とともにに「私」の乗っている二等客車の戸が開いて、「十三四の小娘」が慌ただしく入ってきました。「私」は娘を一瞥(いちべつ/ちらりと見ること)し、その田舎じみた服装や顔立ちに不快を感じます。

 「それは油気のない髪をひつつめの銀杏(いちょう)返しに結つて、横なでの痕(あと)のある皸(ひびだらけの両頬を気持の悪い程赤く火照(ほて)らせた、如何にも田舎者らしい娘だつた。しかも垢(あか)じみた萌黄色(もえぎいろ/黄色がかった緑色)の毛糸の襟巻(えりまき)がだらりと垂れ下がつた膝(ひざ)の上には、大きな風呂敷包みがあつた。その又包みを抱いた霜焼けの手の中には、三等の赤切符が大事さうにしつかりと握られてゐた。私はこの小娘の下品な顔だちを好まなかつた。それから彼女の服装が不潔なのもやはり不快だつた。最後にその二等と三等との区別さへも弁(わきま)へない愚鈍な心が腹立たしかつた。」※1

 このように、「私」は、自身の疲労と倦怠から来る不快さを、突然客車に乗り込んできた田舎の小娘に当たり散らすように、辛辣な言葉を並べ立てます。そして巻たばこに火をつけ、「一つにはこの小娘の存在を忘れたいと云ふ心もちもあつて」夕刊を広げます。しかし、「私」にはその紙面もあまりに平凡な出来事ばかりで、憂鬱さは消えません。

 「あの小娘が、恰(あたか)も卑俗な現実を人間にしたやうな面持ちで、私の前に坐つてゐる事を絶えず意識せずにはゐられなかつた。この隧道(ずいどう/トンネルのこと)の中の汽車と、この田舎者の小娘と、さうして又この平凡な記事に埋つてゐる夕刊と、━━これが象徴でなくて何であらう。不可解な、下等な、退屈な人生の象徴でなくて何であらう。」※1

 「私」は「一切がくだらなくなつて」、夕刊を放り出し、「死んだやうに眼をつぶつて」うたたねを始めます。そして幾分かがたったあとで、気が付くと、先の小娘がいつのまにか「私」の隣に席を移して、しきりに窓を開けようとしています。汽車は今まさに隧道に入ろうとしているのに、何故わざわざしめてある窓を開けようとするのか解せない「私」ですが、霜焼けの手で鼻をすすりつつ息を切らして悪戦苦闘する小娘の様子を、「まるでそれが永久に成功しない事でも祈るやうな冷酷な眼で」眺めていました。
 すると、汽車が隧道になだれこむと同時に、小娘の開けようとした硝子戸がばたりと開き、そうしてどす黒い煤煙(ばいえん)がもうもうと車内にみなぎり出し、「私」は煙を満面に浴びて激しくせき込みます。小娘はそれに頓着(とんちゃく/気に掛けること)する気色もなく、窓から外へ首を伸ばして鬢(びん)の毛をそよがせながら汽車の進む方向を見やっています。
 隧道を抜け冷ややかな空気が入り、ようやく咳きやんだ「私」は小娘を頭ごなしに𠮟りつけてでも窓を閉めさせようとも思いましたが、その時には汽車は隧道を抜け、「枯草の山と山との間に挟まれた、或貧しい町はづれの踏切りに通りかかつてゐ」ました。みすぼらしい藁屋根や瓦屋根が狭苦しく建てこみ、踏切番が振る白い旗がものうげです。
 その時、「私」は、その踏切の向こうに、頬の赤い三人の男の子が目白押しに並んで立っているのを見ます。三人とも背が低く、みすぼらしい着物を着ています。それが、汽車が通るのを仰ぎ見ながら一斉に手を挙げるや、一生懸命に喊声(かんせい/いっせいにあげる叫び声)をあげました。

 「するとその瞬間である。窓から半身を乗り出してゐた例の娘が、あの霜焼けの手をつとのばして、勢よく左右に振つたと思ふと、忽ち心を躍らすばかり暖な日の色に染まつてゐる蜜柑(みかん)が凡(およ)そ五つ六つ、汽車を見送つた子供たちの上へばらばらと空から降つて来た。私は思はず息を呑んだ。さうして刹那(せつな)に一切を了解した。小娘は、恐らくはこれから奉公先へ赴かうとしてゐる小娘は、その懐(ふところ)に蔵(ぞう)してゐた幾顆(いくか)の蜜柑を窓から投げて、わざわざ踏切りまで見送りに来た弟たちの労に報いたのである。」※1

 この光景を見た「私」に朗らかな心が湧き起こります。そして「私」は別人のように小娘を注視します。小娘は「私」の前の元の席に返って、相変わらず田舎娘のまま座っていました━━最後に、「私」はこう思います。

 「私はこの時始めて、云ひやうのない疲労と倦怠とを、さうして又不可解な、下等な、退屈な人生を僅(わずか)に忘れる事が出来たのである。」※1

 「蜜柑」は大正8年(1919年)、芥川28歳の時に書かれた小説です。元々は「沼地」という作品とともに「私の出逢った事」という題で文芸雑誌「新潮」に発表され、のちに「蜜柑」と「沼地」に改題され、それぞれが独立した作品として扱われるようになったものです。芥川の作品を俯瞰(ふかん/高い所から広い範囲を見おろすこと)すると、そのほとんどが「物語」ですから、この私小説風の「蜜柑」はいつもの芥川作品とは違った作品と言えそうです。しかもラストが、「小娘」の弟たちへの蜜柑の投擲(とうてき/放り投げる意)に心を打たれ、それまでの苛立ちや不愉快な気分が吹き飛んでいくのですから、このような爽やかな読後感を覚える芥川作品は稀(まれ)と言っていいでしょう。芥川と言えば、例えば「鼻」のように、「今昔物語」などの遠い過去の書に題材を借りて、そこで展開される物語の中で人間心理の深層を暴く、といった内容のものがどうしても目立ちます。そして、その文学世界には必ず皮肉と冷笑が満ち満ちています。それこそが芥川の構築した文学だったはずです。その彼がそういった物語とは風合いの異なる「蜜柑」を書いているのです。これは一体どういう風の吹き回しでしょう。勿論、一人の作家が同じ作風のものを書き続ける義理はありませんし、芥川だって自由に書いたには違いありません。が、それまでの作風を脱却するかのようなこの「蜜柑」には、とても気ままに書いたとは思えないほどの作者の力んだ姿勢が感じられるのです。そうでなければ「不可解な、下等な、退屈な人生」というような言葉を用いるでしょうか?田舎の小娘をその「象徴」とまで言うでしょうか?「蜜柑」は確実に、芥川が何らかの強い意図を以て書いた文学作品だと思われます。

 それでは「蜜柑」の構造を読み解いてみましょう。
 短いこの作品に二度も出てくる「不可解な、下等な、退屈な人生」━━━この言葉は「知性」の極北(きょくほく/比喩的に、物事が極限に到達するところ)を表しているように思えます。このあたりが「知」を重んじる芥川らしくはありますが、それに対峙(たいじ/対立する両者が向き合って動かないこと)するかのような小娘の、田舎者で反知性的な有り様と行動が、この「蜜柑」の光と影を形作っています。この場合、「知性」が光であり、「反知性」は影です。そしてその光と影が一瞬にして反転し、小娘の投擲した蜜柑の輝きが本物の光となって「知性」の影を消し去ってしまった、という小説がこの「蜜柑」なのだと思います。これを敷衍(ふえん/おし広げて詳しく説明すること)しますと、蜜柑の投擲の瞬間、今まで影の存在であった小娘の「反知性」が途端にまばゆい光になり、光の存在であったはずの「私」の「知性」がその影になるや、そのまばゆい光に圧倒されてその影さえも消えてしまった、ということです。端的(たんてき/てっとりばやくの意)に言えば、暗い光を帯びた「知性」が、暖かな蜜柑色の「反知性」の圧倒的な輝きに吞み込まれ、凌駕(りょうが/他人の上に抜き出ること)されたということです。━━━これが「蜜柑」の構造です。
 そう解釈すると、この「蜜柑」は、単に芥川が筆のすさび(気の向くままに書く意)で書いたものでは決してない、むしろ何か重要な作品として浮上してさえくるのです。何となれば(なぜならばの意)、芥川はそこで、「知性」を超えるものがあることを認めているからです。言葉を換えれば、「知性」の敗北を示唆(しさ/それとなく教えること)しているからです。
 「蜜柑」はただ芥川が体験したことを書いただけの私小説ではありません。これと似たような経験は実際にあったのかもしれませんが、その経験を題材にして彼が新たに構築した私小説だと思われます。そして、そこには、他でもない芥川自身の光と影が見え隠れしているのです。

 芥川龍之介は大正5年(1916年)、24歳の頃、東京帝国大学英文科在学中に書いた「鼻」を夏目漱石に激賞され、自身、作家になる道を揺るぎないものとしました。「羅生門」「鼻」、そして「芋粥」とともに、大正6年、第一創作集『羅生門』が上梓(じょうし/出版すること)されるや、芥川は一躍文壇の寵児となりました。それから10年余り、彼は枚挙(まいきょ)にいとまがない(数えきれない意)ほどの傑作短編を書き続け、その作品と名声は現在においてもあまねく(広くにわたっての意)世に知られています。
 芥川龍之介、と聞いてまず思い浮かべるのはその風貌です。顎に手を当てて横目でポーズをとる写真からして、その芸術家気取りの性格が伝わってくるようです。なるほど、彼の薄い唇には皮肉な笑みが似つかわしい。先にも少し述べましたが、芥川の作品はどれもこれも人間の化けの皮をはいでほくそ笑むようなシニカルな(冷笑的、皮肉なさま)ものが多く、それがまた現在でも衰えを知らぬ彼の絶大な人気を支えているのでしょう。文章も非常に巧みです。題材に合った多彩な文体を駆使してペダンチックな(学問、教養をひけらかすさま)用語をまき散らしながら読者をぐいぐいと小説世界の中に引き込みます。まさに文学芸術の鬼才、書くために生まれてきたような逸材、不世出(ふせいしゅつ/世にまれなこと)の天才と言って間違いありません。
 実際、芥川は驚異的な天才でした。特にその読書力たるや、常人のそれをはるかに凌(しの)ぐものでした。当時芥川や菊池寛(きくちかん)、久米正雄(くめまさお)らと親交のあった作家小島政二郎(こじままさじろう)の「長編小説 芥川龍之介」(昭和52年)によると、友人と会話しながら手にした本をぱらぱらとめくっているかと思いきや、実はそのスピードで本を読んでいたという逸話があります。英語を読むのも物凄いスピードで、4,5冊の英語の論文の本を2,3日で読了するのは朝飯前、普通の英文書なら1日千二三百ページは楽だと言っていたとのことです。勿論、分析力、思考力は言わずもがなで、そのまま大学教授になれる程の学識があったことは、大正7年に芥川を慶応大学文学部の教授として招く計画が実際にあったことでも分かります。このあたりのことは小島がその著「眼中(がんちゅう)の人」(昭和17年)でも詳しく語っていますが、さて、そういう人間が小説を書くのですから、芥川の小説がペダンチックになるのは当然の成り行きだったのかもしれません。頭の中から知識があふれ出てくるのでしょう。
 もう一つ、芥川はかなりの遅筆だったようです。小島によると、芥川は徹夜をして原稿用紙1,2枚程度しか書かなかったそうです。というのも、文章を凝りに凝ったものに仕上げるべく推敲を重ね、まさに彫心鏤骨(ちょうしんるこつ/非常に苦心して文を作ること)の努力をしていたからなのです。天才が身を削るような努力をするのですからより高度な文学作品が生まれたのも頷(うなず)けます。
 このように、芥川はその抜群の知性と妥協のない文章の錬磨を以て、卓越した物語を次々と生み出してきたわけです。芥川の作品がどれもこれも面白く、完成度の高いことは偶然ではありません。彼の驚異的な知性と努力の当然の結果なのです。
 ━━━しかし、そこに芥川の盲点はなかったでしょうか?盲点ではなく、弱点、あるいは反面と言った方が適当なのかもしれません。いずれにしろ、芥川の作品にはある重大な、そして致命的な弱点が存在します。これはどうしても否めない事実です。そしてそれが、芥川に「蜜柑」を書かせた最大の理由になったと思われるのです。

 芥川の作品は心を打ちません。
 心を震わすような感動がないのです。芥川の小説は頭で書いた小説です。何と言ったらいいでしょう、これは凄いと感心はしても、成程と頭でその凄さを理解はできても、それが面白いばかりで、読む者の心に迫り魂を揺さぶるような感動を覚えないのです。ましてその人の人生にはほぼ何の影響も与えないのです。物語としては非常に面白いけれども、芥川の小説は、人生の教科書、バイブルには決してなりません。「羅生門」「鼻」「地獄変」「きりしとほろ上人伝」「戯作三昧」「或日の大石内蔵助」「玄鶴山房」「藪の中」などなど名作佳作はずらりとあれど、どれも何故か胸を打たないのです。さすがに年少者向けに書いた「杜子春」「蜘蛛の糸」は道徳的な問題提示をしていますから、それ相応に胸を打つ場面も出てきますが、そこでも人間の浅ましさを極端に描くことによってそれを際立たせているのですから、どうしても「寓話(ぐうわ/教訓や風刺を含めたたとえ話の意)」の域を出ないのです。作り話なのです。自分の心のバイブルは「蜘蛛の糸」ですという人がいるでしょうか?人生のバイブルは「羅生門」ですという人がいるでしょうか?
 これが芥川の弱点です。この弱点は彼の作品の文学的レベルが非常に高いだけに逆に目立ってしまいます。人を驚かせても、深く考えさせても、その反面、人を心から感動させられないという弱点を、これほどの天才が自身感づいていなかったはずがありません。そして、それを思い知ったのは、他でもない、武者小路実篤が立ち上げた白樺派の存在だったと思われます。人間の個々の成長と人道主義を掲げて当時文壇に旋風を巻き起こしていた白樺派━━━彼らの文章は平易で、話し言葉に近いものですが、それでも、いや、それゆえにこそ人に感動を与えます。芥川は己の作品にそれが欠けていることを感じていたに違いないのです。しかし、それとて彼の「知性」の前では敵ではなかったでしょう。例えば武者小路実篤の文章は非常に熱いけれどもあまり上手とは言えません。武者小路の真価はその思想にあるのであって、文学的にはその思想ほどのレベルではないことは明らかです。芥川は武者小路に好感は持っていますが、文学者としては敵ではなかったはずです。ところが、ここに唯一人、芥川の前に立ちはだかる存在がありました。━━━その男の名は、志賀直哉。━━━小説の神様です。

 芥川の盟友、菊池寛が正面切って志賀直哉を称賛したのは、大正7年(1918年)「志賀直哉氏の作品」においてです。

 「自分は現代の作家の中で、一番志賀氏を尊敬している。尊敬しているばかりでなく、氏の作品が、一番好きである。自分の信念の通りに言えば、志賀氏は現在の日本の文壇では、最も傑出した作家の一人だと思っている。  
 自分は、「白樺」の創刊時代から志賀氏の作品を愛していた。それから六、七年になる。その間に自分はかつて愛読していた他の多くの作家(日本と外国とを合せて)に、幻滅を感じたり愛想を尽かしたりした。が、志賀氏の作品に対する自分の心持だけは変っていない。これからも変るまいと思う。」※2

 と冒頭から手放しで志賀直哉を讃辞しています。それから菊池は、直哉の文章の卓越したリアリズム、底に潜む人道主義、「人間性の道徳」、そして「人間的な義(ただ)しさ」について述べ、「志賀氏の短篇などは、充分世界的なレヴェルまで行っていると思う。志賀氏の作品から受くるくらいの感銘は、そう横文字の作家からでも容易には得られないように自分は思う。」と志賀直哉に最大の敬意と愛情を示しています。
 芥川も同様に感じていたはずです。芥川の「蜜柑」(大正8年4月)は菊池の「志賀直哉氏の作品」(大正7年11月)からわずか5か月後に発表されているのです。これが単なる偶然とも思えません。おそらく芥川は、菊池の文章に触発(しょくはつ/刺激して行動させること)されたのでしょう。
 志賀直哉は、もうそれまでに多くの名作を書いていました。「或る朝」「網走まで」「剃刀」「母の死と新しい母」「クローディアスの日記」「大津順吉」「正義派」「清兵衛と瓢箪(せいべえとひょうたん)」「范(はん)の犯罪」「城の崎(きのさき)にて」「好人物の夫婦」「赤西蠣太(あかにしかきた)」「和解」などなど、どれが代表作になってもおかしくない名編がすでに大正7年までに書かれています。そしてそのおよそ半分が私小説です。文体は簡潔にして平易、が、その文章はあたかも眼前にその場面が映し出されているかのような表現力を持ち、その神業とも言える筆さばきで人生の局面を真摯に描くのですから、その文学は読む者に深い感銘を与えずにはおかないのです。
 次々と生み出されていく直哉の名作を前にして、芥川は、自身の文学の小ささを感じていたのではないでしょうか。これまでのような作品では到底直哉の作品に太刀打ちできません。こと心を動かすかどうか、という点ではまるでお話になりません。そこで芥川は志賀直哉に私小説で立ち向かおうとしたのではないでしょうか。「知性」ではなく、それを超えたところにこそ本物の文学の真価があるということは志賀直哉が証明しています。常に頭で文学を創造していた芥川にはそれが問題でした。そしてその答えが「私の出逢った事」の「蜜柑」と「沼地」であったのだと思います。おそらく、芥川は志賀直哉に挑戦したのです。
 「蜜柑」は良い出来だとは思います。前述の通り、その構造は「知性」の敗北を示唆するものでした。芥川は「知性」を投げうってでも心を打つ作品を生み出したかったのでしょうから、その思いをそのまま「蜜柑」に投影させたのだろうと思います。芥川は「知性」を超えるものをその文学で表現したかったのでしょう。だからこれはその宣言なのです。しかし、芥川の場合はそれが限界です。これ以上の事が芥川に出来るでしょうか。宣言とはいえ、わざわざ「不可解な、下等な、退屈な人生」という「知性」の言葉を書かずにはいられない芥川に、次の作品があるでしょうか?
 「沼地」の方も見てみましょう。※3
 「沼地」は、「私」がある絵画展覧会の一室で、採光の悪い片隅に懸かっていた油絵を発見した話です。その油絵は「沼地」という題で、何とも重苦しい彩色で描かれた絵でしたが、「私」はその絵に恐ろしい力が潜んでいることを感知します。そして、「踏むとぶすりと音をさせて踝(くるぶし)が隠れるような、滑(なめらか)な淤泥(おでい/どろの意)の心もちである。私はこの小さな油画の中に、鋭く自然を摑(つか)もうとしている、傷(いたま)しい芸術家の姿を見出した。そうしてあらゆる優れた芸術品から受ける様に、この黄いろい沼地の草木からも恍惚(こうこつ)たる悲壮の感激を受けた。」のです。そこに、既知の新聞の美術記者が現れ、「私」はこの絵が傑作だと告げます。すると記者は、その絵を描いた画家はすでに死んでおり、遺族に頼み込まれて懸けたもので、画家は前から気が違っていたのだとその絵を貶(おとし)めるかのように言い、まるで「私」の不明を失笑するかのような態度をとります。しかし「私」は記者に馬鹿にされたことよりも、むしろ「無名の芸術家が」「その生命を犠牲にして」描いたその絵に「恐しい焦躁(しょうそう)と不安とに虐(さいな)まれている傷(いたま)しい芸術家の姿を見出し」、「厳粛にも近い感情」を覚えます。そして記者の顔をまともに見つめながらこの絵が傑作であることをあらためて告げるのでした。
 ━━━話としては面白いのですが、これが本物の「芸術家」の覚悟である、という主題があるばかりで、まずまずの掌編(しょうへん/ごく短い文学作品の意)にとどまっています。確かにここには「知性」らしい「知性」は見当たりません。するとどうでしょう、芥川の小説の魅力は半減してしまうのです。皮肉や冷笑のない芥川なぞ芥川ではない、とまで言いたくなります。これならまだ「知性」が残っていた「蜜柑」の方がまだしもというものです。このジレンマは苦しい。
 ここに芥川の誤算があったと言うべきでしょうか。「知性」を超えたものが必要であることが分かっていても、それこそが読む者に感銘を与えるのだとは分かっていても、そもそも芥川にそれを書く資質があったでしょうか。おそらくなかったのです。これが芥川の悲劇でした。むしろこう言うべきでしょう。常人をはるかに凌ぐ「知性」の持ち主が、その「知性」を超えることはかえって至難の業(わざ)であるに違いないのです。いつも物事を深く考えている人に何も考えるなと言っているようなものでしょう。芥川はすぐにそれを気付いたはずです。芥川の「知性」がそれほどに巨大で膨張していたことは想像に難くありません。「知性」を消し去った芥川はもはや芥川ではなかったのです。「沼地」は失敗作とまでは言えませんが、芥川自身が期待するほどの出来にはなっていないと思います。本人も分かっていたでしょう。
 芥川には志賀直哉のような小説が書けるはずがありませんでした。それでも芥川はずっと志賀直哉を意識しています。同時代に生きているのですから当然と言えば当然でしょう。志賀直哉は芥川より9歳年長です。芥川には先輩志賀直哉がどのように見えていたのでしょうか?

 小穴隆一(おあなりゅういち)という画家が、「二つの絵 芥川龍之介の囘想」という著書の中で芥川の思い出を書き記しています。小穴隆一は芥川の親友で、義足の画家でした。芥川の著作の挿絵も描いていますし、自決した芥川の顔をスケッチで残したことでも知られています。芥川は昭和2年7月に自殺していますが、その2か月前にある女性と心中未遂事件を起こしています。ある女性とは芥川の妻、芥川文(ふみ)の友人で、平松ます子ですが、芥川とます子は帝国ホテルで二人で薬を飲んで一緒に死ぬ約束をしていました。ところがます子が思いとどまり、そのことを小穴と文に知らせ、二人が帝国ホテルに駆け付け、心中は阻止されました。その時芥川と小穴だけがホテルにそのままとどまりましたが、翌日芥川は小穴に次のように喋っています。

 「自分も顧みれば既に過渡期の人として過ぎてきた。自分の仕事といふものは既に行きづまつてしまつた。自分は仕事の上では今日まで如何なる人々をも恐れてはゐなかつた。また、さうしてやつてきた。智恵では決して人に負けないと信じてきてゐたが、ここに唯一自分にとつて恐るべきは志賀直哉の存在だ。恐るべき存在は志賀直哉であつた。志賀直哉一人だ。志賀直哉の藝術といふものは、これは智恵とかなんとかいふものではなく、天衣無縫(てんいむほう/天の衣に縫い目がないように文章に技巧のあとが見えず完全で傷がないこと)の藝術である。自分は天下唯一人志賀直哉に立ち向ふ時だけは全く息が切れる。生涯の自分の仕事も唯一人志賀直哉の仕事には全くかなはない」※4

 芥川が残した、志賀直哉への畏怖(いふ/恐れかしこまること)の言葉です。芥川はこれほど志賀直哉を意識していたのです。
 一方、志賀直哉の方はどうだったのでしょう。
 芥川の自殺したのは昭和2年7月24日、その6日後の7月30日に書かれた「沓掛(くつかけ)にて━━芥川君のこと━━」で直哉は次のように述べています。

  「芥川君とは七年間に七度しか会つた事がなく、手紙の往復も三四度あつたか、なかつたか、未だ友とはいへない関係だつたが、互に好意は持ち合つて居た。」※5

  「一体芥川君のものには仕舞(しまい)で読者に背負投げを食はすやうなものがあつた。これは読後の感じからいつても好きでなく、作品の上からいへば損だと思ふといつた。気質(かたぎ)の異(ちが)ひかも知れないが、私は夏目さんの物でも作者の腹にははつきりある事を何時までも読者に隠し、釣つて行く所は、どうも好きになれなかつた。私は無遠慮に只(ただ)、自分の好みを云つてゐたかも知れないが、芥川君はそれらを素直にうけ入れてくれた。そして、
 「芸術といふものが本統に分つてゐないんです」といつた。」※5

 「作者としての芥川君が少し気取り過ぎてゐた事は本統だ。(中略)
 佐藤君が「その窮屈なチョッキを脱いだらよからう」といふ意味を書いてゐた事があるが、私も同感だつた。さういふ意味ではチョッキを脱いだもつと別な芥川君があり得るわけで、今芥川君が自らを殺して了つた事は、さういふ芥川君を永久に見られなくなつた意味で、非常に惜しまれる。」※5

 「私は芥川君の死を七月二十五日の朝、信州篠ノ井から沓掛へ来る途中で知つた。それは思ひがけない事には違ひないが、四年前(ぜん)武郎さんの自殺を聞いた時とは余程異(ちが)つた気持だつた。乃木大将の時も、武郎さんの時も、一番先きに来た感情は腹立たしさだつたが、芥川君の場合では何故か「仕方ない事だつた」と云ふやうな気持がした。」※5

 志賀直哉にとっては、芥川龍之介は1年に1度会うくらいの少し距離のある存在でしたが、直接本人にその作品について評することのできる関係ではあったわけです。「チョッキを脱いだら」という言葉は、もっと裸になれ、気取りを取れ、「知性」の鎧(よろい)を解け、という意味でしょう。また、有島武郎の人妻との心中の時と違って芥川の自殺はやむを得ない気がした、というのは芥川が心身とも衰弱していたのを近年の作で知っていたのでしょう。いずれにしろ直哉にとって芥川は後輩の優秀な作家に過ぎません。いかにも直哉らしい自然体です。その点が芥川と直哉の違いでしょう。芥川だけが直哉に立ち向かうのです。芥川の悲劇はそもそもそこから始まっているような気がします。
 考えてみれば、二人の素質はまるで異質なのです。芥川ははじめから「物語」作家です。一方志賀直哉ははじめから「心境小説」作家なのですから、二人の立つ地平はまるで違うのです。それを乗り越えて直哉に立ち向かう芥川の姿は、ある意味滑稽で悲しい独り相撲とも映るのです。

 さて、芥川がその時自殺しなかったとしても、直哉が言うように、芥川は果たして「チョッキを脱ぐ」ことができたのでしょうか?「蜜柑」と「沼地」で明らかなように、芥川から「知性」を除けば芥川ではなくなるのです。「知性」という鎧があってこその芥川ではないでしょうか。その鎧を脱げ、という要求は芥川にとってそれこそ「自殺」に等しいのではないでしょうか。
 その回答が残されています。━━━芥川最後の小説、「歯車」です。
「歯車」は昭和2年、芥川が自殺したあとに発表された遺稿です。この小説は、小説の形はとっていますが筋はなく、神経衰弱と妄想に苦しむ芥川の壮絶な手記と言ってもよいものです。そこには、違う場所で何度も現れる不吉な「レエン・コオトを着た男」をはじめ、視野に突然現れ回転するいくつもの半透明の歯車の幻視に苦しめられ、連続する強迫観念に憔悴(しょうすい/やせ衰える事)する芥川の地獄のような日々が描かれ、彼の発狂に怯える病的な状態が如実に語られています。作家の実名や作品名、見知らぬ外国語(フランス語)などもたびたび飛び出してきますが、その中に志賀直哉の作品「暗夜行路」が出ています。

 「僕はベッドの上に転がつたまま、「暗夜行路」を読みはじめた。主人公の精神的闘争は一々僕には痛切だつた。僕はこの主人公に比べると、どのくらゐ僕の阿呆だつたかを感じ、いつか涙を流してゐた。」※6

 芥川は最後の最後に裸になったのです。「歯車」は、裸の芥川が主体となっている小説です。「知性」の言葉も噴出してはいますが、「チョッキ」にはならずにいて、その「知性」すら圧倒する裸の芥川の苦しみがこの小説の主題と言っていいでしょう。この小説を芥川の最高傑作だとする作家が当時少なからずいたこともそこに起因すると思われます。

 「━━━僕はもうこの先を書きつづける力を持つてゐない。かう云ふ気もちの中に生きてゐるのは何とも言はれない苦痛である。誰か僕の眠つてゐるうちにそつと絞め殺してくれるものはないか?」※6

 これは「歯車」の最後の文章です。裸になった芥川の、暗い、地の底から響いてくるようなつぶやきに、戦慄が走ります。鳥肌さえ立ちそうです。
 そしてその時に気付くのです。━━━これは、「沼地」の画家だと。あの「沼地」の狂気の画家━━━あれは裸の芥川龍之介であったと!
 もう一度、「沼地」を見てみましょう。
 「無名の芸術家が」「その生命を犠牲にして」描いたその絵に「恐しい焦躁(しょうそう)と不安とに虐(さいな)まれている傷(いたま)しい芸術家の姿を見出し」、「厳粛にも近い感情」を覚えているのは、今の自分たちではありませんか!そして、その傷ましい、焦燥と不安に虐まれて死んでいった芸術家は、他でもない、芥川龍之介!「沼地」の絵は小説「歯車」!━━━鳥肌が再び立ちそうです。これは偶然の一致では決してあり得ない、完全な一致です。
 芥川は、「沼地」で本当に裸の己を露(あらわ)にしていたのです。あの中で描かれていた狂気の画家は、現実の芥川なのです。「知性」のベールをはぎ、「チョッキを脱い」だ、裸の芥川だったのです。芥川は本当にあの時、「知性」をかなぐり捨てて、傷だらけの、青白い、痩せ衰えた心身をさらして、志賀直哉に挑戦していたのです。━━━これを悲劇と呼ばずして何と言うのでしょう。絶句、と言うべきか、あまりの事に言葉が見つかりません。
 天才芥川の痛々しい姿にこちらの胸も苦しくなります━━━もうそろそろこの「散歩」も終わりにしなければならない時が来たようです。

 最後にもう一つだけ述べておきたいことがあります。━━━芥川は本当に「チョッキを脱ぐ」必要があったのでしょうか?「知性」をはいでしまえば、彼の心身は惨憺(さんたん/痛ましく悲しいさま)たる有様だったのです。身勝手な話ですが、それよりもその「チョッキ」を換えてしまえばよかったのではないでしょうか。そこに芥川のもう一つの可能性はなかったのでしょうか?
 小島政二郎の「眼中の人」に、次のような一節が残されています。

 「芥川の場合は、(中略)議論をしても、八分くらいのところで太刀を収めて、最後の一太刀はただ振りかぶって見せるだけで、バラリズンと骨まで斬り下げるような野暮はしなかった。」※7

 また、「長編小説 芥川龍之介」においても同様の記述があります。

 「芥川は、サッと太刀を振り被っては見せるが、それだけで、こっちの息の根を留めるような真似はしなかった。だから、議論していても楽しかった。」※8
 
「眼中の人」(昭和17年)と「長編小説 芥川龍之介」(昭和52年)の間には35年の歳月が流れています。小島は余程芥川のこの一面が忘れられないのだと思います。小島はまた、続けて次のようにも述べています。

 「幸い、こっちが勝った時でも、芥川は早めに太刀を引いて顔中をクシャッと顰(しか)めて見せる━━それが癖の、閉口頓首(へいこうとんしゅ/どうしようもなく困りきること)した時に見せる表情をして見せた。それが子供ッぽくって、トテモ可愛らしかった。」※8

 芥川は、優しい人でした。思い起こしてみれば、蜜柑を弟たちに投げ与えた田舎の小娘のその心を、彼は即座に理解し、共感し、そこに眩(まぶ)しい程の暖かな光を感じたのです。優しい人だからこそ感じたのです。「蜜柑」はその優しさがなければ決して成立しない小説でした。蜜柑の輝きは芥川の優しさの輝きでもあったのです。芥川が目指すべきだったのは本当はその優しさではなかったのか、「知性」を超える可能性はそこにこそあったのではないかと思わずにはいられません。
 ━━━そう考えた時、あの蜜柑の輝きが、一層と眩(まぶ)しく感じられて仕方がないのです。

※引用は次の通りです。
※1筑摩書房「現代日本文學大系43 芥川龍之介集」より。
※2講談社学術文庫「半自叙伝」より。(青空文庫参照)
※3以下「沼地」の引用は、ちくま文庫「芥川龍之介全集3」より。
※4中央公論社「二つの絵 芥川龍之介の囘想」より。(青空文庫参照)
※5岩波書店「志賀直哉全集(1999年版) 第六巻」より。
※6筑摩書房「現代日本文學大系43 芥川龍之介集」より。なお、「歯車」に出てくる「暗夜行路」は志賀直哉唯一の長編小説で、前編が大正10年から書き始められ、大正11年に前編のみが新潮社から出版されています。後編が完成したのはずっと遅く昭和12年ですから、芥川が読んでいたのは「暗夜行路」の前編だということになります。
※7筑摩書房「現代日本文學大系45 水上瀧太郎 豊島與志雄 久米正雄             小島政二郎 佐々木茂索集」より。
※8講談社文芸文庫 「長編小説 芥川龍之介」より。
また、適宜括弧( )を付して読みと意味を添えました。

追記(2023年10月14日)
 この論考の後半で、「歯車」を紹介した際、本来は違った道筋で論を進める意向でした。芥川は「歯車」で初めて裸の己で作品を書き、それは志賀直哉の作品に匹敵するものであったこと、そしてそれは結果的に自身の命と引き換えに生み出されたものであることから、そこに運命の皮肉を感ずるとともに芥川の皮肉な笑みすら浮かび上がってくる思いがすること等などを書いていくつもりでした。おそらくそちらの方が論考としてはスマートに出来上がっただろうとは思います。しかし、「歯車」の最後の文章を写して、そこに「暗い、地の底から響いてくるようなつぶやき」という表現でそれを現した瞬間、突然、「沼地」の絵から裸の芥川の姿が見えたのです。その衝撃たるや、深山の薄暗い森の中でいるはずのない幽霊に出会ったような思いでした。芥川の亡霊、と言うと大袈裟ですが、恐怖に近い衝撃であったことは確かです。そこで早々とこの深山から引き返すことにしたわけです。
 最終章の蜜柑の輝きについては、余計な付け足し、蛇足に過ぎないものかもしれませんが、芥川鎮魂の意味で書かずにはいられませんでした。それほど裸の芥川発見の衝撃が強いものであったわけです。
 なお、自身の紹介に、この「文学の散歩道」は以前書いたものであることを明記していますが、この芥川龍之介「蜜柑」については全面的に書き直しています。1(森鷗外)、2(島崎藤村)、4(徳田秋声)、5(永井荷風)は加筆訂正レベル、3(夏目漱石)、6(谷崎潤一郎)、7(武者小路実篤)は論旨はそのままに大幅に書き直し、8(志賀直哉)、9(有島武郎)はより論旨を掘り下げてほとんど書き直したものです。今回の10(芥川龍之介)は論旨も完全に変えてはじめから全て作り直しました。以後もそうなるでしょう。以前書いたものは手書きで、枚数にも時間にも制限があり、とかく満足いくものとは言えなかったからです。実はそれから12、3年経過しています。節目となる10作目を発表するにあたり、このあたりの事情も明らかにしておきます。
 









 




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