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2023年、冬、沖縄②

3日間目いっぱい沖縄を楽しもうと思い、朝7時30分神戸発の飛行機に乗り、10時前に那覇空港に到着した。初めて降り立つ那覇空港の印象は、地方空港にしては非常に大きいなという印象だった。個人的な印象としては伊丹の大阪空港と同規模か、それ以上の大きさを感じた。後で調べてみたら、大阪空港は敷地面積311ha、滑走路は1,828×45m、3,000m×60の2本、那覇空港は敷地面積490ha、滑走路は3,000×45m、2,700×60mの2本とのことで、那覇の方が1.5倍以上ある。

空港からレンタカーの送迎バスに乗り、店舗まで移動して車を借りた。初日は南部の戦跡を中心に回ろうと思い、まずは糸満市にある「ひめゆりの塔」と隣接するひめゆり平和祈念資料館を訪れた。大々的なものなのかと想像していたが、比較的こじんまりとしたものであった。何となく雰囲気が昨夏訪れた鹿児島の知覧にある特攻平和会館に似ていた。知覧の特攻隊員たち同様、犠牲になった学徒たち一人ひとりの写真パネルが展示され、それぞれの特徴や性格が綴られていた。知覧に行った時にも感じたことであるが、犠牲になった人たちそれぞれの人生が戦争によって大きく変えられてしまったという現実は直視しなければならないし、個人の生命、財産、権利、自由、夢というものを奪うのが戦争であるという思いを強くした。

昼食をとってから、同じ糸満市内の摩文仁にある県営沖縄平和祈念公園を訪れた。残念ながら沖縄平和祈念資料館は改修工事中のため休館であったものの、「平和の礎」と各道府県と外地出身者の慰霊塔、軍関係者の慰霊塔を回った。「平和の礎」と慰霊塔を回っていて気付いたのは、民間人犠牲者も含めた全ての戦没者の名を刻んだ「平和の礎」が建立されたのが、戦後50年にあたる1995年という点であった。「黎明之塔」のような軍関係者の慰霊碑(いや、いわゆる「顕彰碑」と表現した方が正確かもしれない)が建立されたのが、沖縄の本土復帰以前の1960年代であったことを考えると、民間人犠牲者の慰霊碑建立にはずいぶんと時間がかかったことがうかがえる。


長崎の平和公園の前身となる爆心地公園が1949年開園、広島の平和祈念公園が1954年開園と戦後10年ほどで建造されたのに対して、現在の沖縄県営平和祈念公園の前身となる琉球政府立公園に指定されたのは1965年と戦後20年ほどが経ってからである。整備が遅れた背景に、アメリカ統治と十分な財源がなかったことがあるのだろう。

「ひめゆりの塔」でも平和祈念公園でもアメリカ人と思しき家族連れとすれ違った。少なくとも平和祈念公園ですれ違ったのは日本人よりもアメリカ人と思しき人たちの方が圧倒的に多かった。「平和の礎」には沖縄で戦死した米兵の名前も刻まれていることからそこに国境はない。それゆえ外国人が数多く訪れることに特に違和感はないが、日本人以上にアメリカ人と思しき人たち、それも家族連れとすれ違うことに、沖縄戦に対する彼らの関心の高さが伝わってきた。

そんな姿を見たこともあって、「今日これから嘉手納と普天間も見て来よう」と思い立ち、まずは嘉手納基地を一望できる「道の駅かでな」に行ってみることにした。糸満から一旦那覇市内に入り国道58号線で普天間基地の横を通り1時間ほどで着いた。那覇空港に着いてからずっと思っていたことではあるが、沖縄本島は道路整備が非常に行き届いている。高速道路を使わなくとも、よく整備された国道と県道を利用すればさほどストレスなく様々なところにアクセスできるのではないだろうか。

「道の駅かでな」には嘉手納飛行場を一望できる展望台がある。嘉手納飛行場の敷地面積は1,985.5ha、滑走路は3,688×91m、3,688×61mの2本、100機以上の軍用機が運用されている。冒頭、那覇空港の仕様について触れたが、嘉手納飛行場の敷地面積は那覇空港の約4倍であり、滑走路の使用も那覇空港よりもはるかに充実している。この日は土曜日ということもあってか離着陸する軍用機の姿はなかった。そのため「道の駅かでな」の展望台も比較的人は少ないようだった。

3日目に再び付近を通った時に気付いたことであるが、休日と平日とでは嘉手納の「音」は全く異なる。平日(1/9の「成人の日」であったが、アメリカにとっては平日)の嘉手納は戦闘機の爆音が鳴り響き、戦闘機ファンのカメラマンが数多くいた。

「道の駅かでな」で何となく嘉手納飛行場を一望してから、普天間飛行場が一望できるという宜野湾市の嘉数高台公園に向かった。海を望むことができる高台ということで、沖縄戦の時にはトーチカが設けられていたそうだ。ここからは普天間飛行場がよく見える。普天間飛行場の敷地面積は480ha、滑走路は2,740×46mが1本と、敷地面積においては冒頭の那覇空港より少し小さい。話で聞いていた通り、住宅地のど真ん中に基地がある。もちろん、正確に言うと基地の周りに住宅地ができたということなのであろうが…。嘉手納同様、こちらも土曜日ということで離着陸する軍用機の姿はなかった。ただ、駐機中のMV-22B(オスプレイ)を確認することができた。

3日目に勝連半島の勝連城跡を訪れた際、上空にヘリとオスプレイが飛んでいるのを見て、実際の運用状況を見てみたいと思い、再び嘉数高台公園を訪れてみたが、駐車場に車を停めることができず見学は断念した。おそらく私同様普天間飛行場の運用状況を見たいと考える人たちが多数訪問していたのではないかと思う。

土曜日の時点で嘉手納、普天間をめぐってみて強く思ったのは、在沖米軍の実情、「沖縄の日常」を見るためには「休日の沖縄」に来てもほとんど意味はないということだった。おそらく「平日の沖縄」に来ない限り、「米軍基地の集中する沖縄」を見ることはできないのである。そう考えるに至って、大学生の頃に聞いたある言葉を思い出した。

「バカンスじゃない沖縄」

今から20年ほど前だったか、筑紫哲也が大学に講演会で訪れたのだが、その時の講演会のタイトルだ。筑紫は、国内の観光地として人気のある沖縄について、「観光だけではない」ということを強調し、その「歴史性」や「政治性」にも目を向けることを訴えたかったのだろう。20年を経て、今なお自分の心の中にこの言葉が残っていることを考えると、それなりに訴求力のあるタイトルだったということである。

たった数時間、沖縄の戦跡と米軍基地を回っただけで沖縄戦や米軍基地問題について理解が深まったとは思わない。ただ、「もう少し沖縄についてまじめに考えてみよう」と思わせる、貴重な数時間になったと思う。

(つづく)

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