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“啓発“は学びだけでは終わらない

 突然だけど、占い師やカウンセラーに自分の気持ちをピシャリと言い当てられたことがある人はどれぐらいいるだろうか。しかもそれは、自分すらも言語化できなかった、でも自分にしか分からないだろうと思うような気持ちをだ。

 私はある。そして全面的に信じた。その結果、自分を見失った。だからその場を外れることにした。

 これは誰かが悪いとか、そういう集まりが悪いという話しではなくて、そうした経験から得たことの、私にとっては一皮剥けるぐらいの大きな出来事となったことの、ただの記録です。

“啓発“とは

 “啓発“とは、コトバンクではこんなふうに説明されている。

人が気づかずにいるところを教え示して、より高い認識・理解に導くこと

 自己啓発の講座やセミナーはずっと流行しているように思う。関連した書籍もたくさん出版されていて、私もいくつか読んだことがある。どれも面白かったし、大なり小なり影響を受けた。でも、染まるほどハマることはなかった。というのも、自己啓発関連の話には大抵「ビジネス」がついてくるからだ。ほんの数年前のことだけど、副業禁止の会社員にはあまりときめきを感じなかったからだ。

 その後、かねてから勉強していた占星術の繋がりで、心理占星学からのアプローチから啓発を受けることになった。当時の私はビジネスには興味がなかったが、「今日より明日を、よりよく生きたい」という願いは持っていたからだ。

 この勉強(学び)が、結果的に私に様々なことを教えてくれることになった。もちろん、講座で学んだことも大きいけれど、何よりも大きいのは「離れてから経験したこと」の存在だ。

人に委ねることの楽さ

 冒頭のように、自分の気持ちをピシャリと言い当ててもらえると、もしかするとこの人は自分のことを自分よりもわかっているのかもしれないと思う。そして、少しずつ日常のあらゆるシーンにその人の考えが染み込んでゆき、やがてそれがごく自然に行われるようになり、自分のことなのに自分で考えなくなる。

 この楽さはかなりのものだ。なぜなら、今までならつまづいたり、うまくいかなかったことが、うまくいくようになるからだ。職場での人間関係から、親子関係、夫婦関係、あるいは新しい知識を吸収する楽しさなど、とにかく楽しさに溢れている。

自分を見失うということ

 しかし「全てを委ねる」という姿勢は、そう長くは続かない。まるで自分のことを、自分よりもよく知っていると思えた人でさえ、やはり他人で、100%全てが一致するわけではない。だから徐々に違和感を持つようになり、この人の意見に全面的には賛同できないと思うようになり、そして心が離れてゆく。

 心は離れようとしているのに、そこから離れる怖さが勝って、あるいは経験した「楽さ」を捨て切れないがために、ズルズル流されてしまうこともあるだろう。私はそうだったし、この頃の一番ストレスが強かった。そして、最も自信を失っていたのもこの頃だ。

 そうなると、まるで魔法が解けたかのように、たとえ現実がどれだけ上手くいっていても面白くなくなっていた。当然だろう、自分の本意ではないことに異を唱えられない状況は、自分を放棄しているのと同じなのだから。

 そして私はそのグループを抜けた。

“自分でつかむ“手応えの嬉しさ

 このコラムの中にこんな一節がある。

「自分の力でやった」「自分の判断でやった」「自分の意志でやった」という手応えは、幸福の重要な条件ではないでしょうか。たとえば、自分が取り組んだゲームがうまく行ったときでも、それが全くの偶然でうまく行ったときと、自分自身の創意工夫、技術などでうまく行ったときとでは、喜びの質が異なります。「自分が頑張って成し遂げたのだ」「自分の力で出来たのだ」と感じる時、私たちはその喜びを受けとる「正当な権利を持っている」と思えます。

 私がグループから抜けてまず感じたのは、この喜びだった。誰の手も借りず、自分で考えて、自分で決めて、自分で行動する。その結果、たとえ転んだとしても、失敗したとしても、ちゃんと心の底から嬉しい。心や体が痛みを感じていたとしても、ちゃんと嬉しい部分がある。

 これが自由なんだと感じた。そんな大げさなと思うかもしれないけど、本当にとても自由を感じたのだ。

 と同時に、失敗したというのに不思議なほど満足で、自信がついていた。次はこうしてみよう、こうやってみたらどうだろうと、失敗の向こう側に道が見えた。いや、そもそも失敗ではないんだ。これは成功までの道筋なんだ。だから、私の目の前には今、無数の道が開いているんだと感じた。

 失敗を恐れて行動できなかった頃の私ではなくなっていると感じた。これは紛れもなく、啓発のおかげだ。あらゆる意味で、あの経験があったからこそ、今こうして言葉にできているのだと思う。

“啓発“での学びを生かすには

 いろんな人がいるので、一概に「“啓発“での学びを生かすには」と言い切ることはできない。だからあくまで私の場合になるのだけど、私は「経験から得たことを、誰の言葉も借りず、人にも伝えられるぐらい大きな意味で理解すること」だと思う。そこまで理解して初めて自分の身にもなるように感じている。

 私の場合は、経験することに臆病になっていたから、先に他者の言葉で知識を身につけたけれど、グループから抜けることで「自分の力で頑張って成し遂げる」という正当な権利を受け取ることができ、本当の意味での“啓発“が、今進んでいるのだと感じている。

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