見出し画像

井上陽水『氷の世界』 (1973)

井上陽水の3作目のスタジオ・アルバムは日本の音楽界にとって特別な意味を持つモンスター・アルバム。1973年12月1日のリリースで、翌74年とその翌年の75年に2年連続で年間アルバムチャートNo.1に輝くロングセラー・アルバム。そして日本で初めてミリオンセラーを獲得したアルバムとして歴史にその名を刻んだのも、今更ここで私が説明するまでもないでしょう。フォークという枠にもはや収まらない楽曲やサウンド面での革新性、アルバムをトータルで聴かせるべく徹底的に考え抜かれた各曲の構成や配置。
これより以前にリリースされた『断絶』も『センチメンタル』も『陽水ライヴ もどり道』も個人的には大好きで、その後の作品にも愛聴盤が何枚もある私ですが、「一番好きなアルバムは?」と聞かれれば迷わず『氷の世界』と答えます。井上陽水の好きなアルバムを3枚挙げよと言われたら、めちゃめちゃ迷っちゃいそうですけどね(笑)。

これまでリリースされたアルバムにはすべて自身の作詞・作曲ナンバーが並んでいたのに対し、この『氷の世界』では初めて陽水さん以外の作者がクレジットされた曲がちらほらとあります。もちろん、それまでのアルバム同様に全曲を純然たるオリジナルでいくこともできたと思いますが、今回は「他人が曲作りに関わったナンバー」を収録するのをあえて「よし」としている感があって、しかもそれらの楽曲がアルバム内でめちゃめちゃ良い役割を果たしていますね。本当に色々な要素がうまいこと重なり合ってこの名盤が誕生したのだと感じています。

SIDE 1
1. あかずの踏切り
軽快なドラムスとキャッチ―なスキャットに導かれたこの楽曲でアルバムはスタートします。この軽快なナンバーの作曲はアレンジャーの星勝。もともと『陽水ライヴ もどり道』でマイナー・フォーク調だった「あかずの踏切り」というナンバーがこんなにも大胆に生まれ変わるなんて。リアルタイムで聴いていたファンはさぞびっくりしたことでしょう。しかしこの大胆な切り口のアイディアは功を奏し、今までとは確実にどこかが違う、このアルバムの方向性を見事に決定づけたと思います。
「あかずの踏切り」とは一体何なのか。目の前を次々と、思いもよらぬ速さで、極彩色の色どりで、駆け抜けていく電車にさえぎられた踏切りの向こうとこっち。恋人がいるのが「踏切りのむこう」で、極めつけは「子どもは踏切りのむこうとこっちとでキャッチボールをしている」と。こうやって具体的なものをモチーフにしながら何かを暗示していく(ような)陽水さんの詞の世界には本当に底知れぬ魅力がつまっていますね。

2. はじまり
アルバムのトップを飾る「あかずの踏切り」のスキャット・コーラスがブレイクしたと思ったら、間髪を入れず、アコギ・ストロークのイントロと陽水さん自身の ♪ア~ウ~ のコーラスでこの曲が始まります。1分にも満たない繋ぎのナンバーですが、シンコペーションとクリシェを用いたコード進行に乗せた、軽快ながらもどこか少し陰のあるメロディーが印象的。ラストのところのコードを半音下げて、次の「帰れない二人」に巧みに繋げています。

3. 帰れない二人
で、この「帰れない二人」のイントロのアルペジオへと流れていきます。この冒頭3曲の展開は本当に圧巻で素晴らしい。『サージェント・ペッパーズ』の冒頭の3曲を彷彿とさせてくれますが、かなりのビートルズ・ファンの陽水さんのことですから、きっと多分に意識していたのでしょうね。もうここまでの3曲の流れだけで「名盤」確定!といった感じですが、この「帰れない二人」という楽曲自体が、超が何個もつくほどの名曲なので、まだまだ語らせてください(笑)。
「心もよう」とのカップリンで先行シングルとして9月にリリース。当時どちらをA面にするかでかなり時間をかけて検討がなされたようです。結局プロデューサー多賀英典氏の意見で「心もよう」がA面となり、「帰れない二人」はシングルとしてはB面という位置に収まりました。しかし、この曲の持つエバーグリーンな魅力は、アルバムA面3曲目という絶妙な位置によって最大限引き出されることとなり、リリースから50年近くが経った現在でも全く色褪せることがありません。
当時まだ無名だった忌野清志郎との共作。どちらかが作詞でどちらかが作曲、とかじゃなくて、作詞作曲陽水・清志郎というのがまたいいですね。どこの部分をどっちが書いたのか、想像するだけで楽しくなってしまいます。美しいメロディもさることながら、歌詞がこれまた素晴らしい。「思ったよりも夜露は冷たく 二人の声も震えていました」「僕は君をと言いかけた時 街のあかりが消えました」「もう星は帰ろうとしている 帰れない二人を残して」・・・たったこれだけの言葉の数で、情景やストーリーが鮮明に脳裏に浮かびます。
演奏陣がこれまた素晴らしい。♪街のあかりが消えました~の直後からフィルインで入ってくるドラム。それまでの抑えたドラミングとの対比が素晴らしくてグッときてしまいます。林立夫さん最高ですね。さらに圧巻なのが、2番の歌が終わってからの展開。高中正義氏のギターソロ、いったんブレイクで流して、ドラムが再びフェイドイン。そこから今度は深町純氏の鍵盤が前面に出た演奏パートが始まります。最高に盛り上がる、本当に何度聴いても飽きない展開です。最後にサビを1回繰り返して(ここがまたいい)、ラストは再び高中氏のギターソロとともにフェイドアウト。どこをどう切っても名曲としか言いようのない、ポップス史に燦然と光輝くナンバーです。

4. チエちゃん
「ひまわり模様の飛行機にのり」行ってしまったチエちゃん。3拍子のリズムに乗せて、A面の中では比較的明るいトーンで歌われるこの曲。チエちゃんは親の転勤か何かで突然転校してしまったのか、それとも「誰にも見送られずに」亡くなってしまったのか。聞き手がどう受け取るのかが一通りにはならないのがまた陽水さんの歌詞の魅力だったりします。私はずっと前者のイメージだったのですが、ユーミンの「ひこうき雲」を聞いてからは、その影響もあって後者でとらえるようになっています。

5. 氷の世界
このアルバムは5曲ほどロンドンで録音が行われていますが、その中で最も重厚なサウンドに仕上がっているのがこのタイトル曲「氷の世界」なのではないでしょうか。スティーヴィー・ワンダーの「迷信」にインスパイアされたファンキー・ロック・チューンで、ギターとエレクトリック・ハプシコードによる印象的なリフ、濃厚な女性コーラスやホーン等がフィーチャーされた華やかなサウンドに彩られています。しかし、そのすべてを吹っ飛ばすのは「窓の外ではリンゴ売り 声をからしてリンゴ売り」で始まる陽水ワールドのインパクト。しかもそれは誰かがきっと「リンゴ売りのまねをしているだけなんだろう」と。一生をかけて考察してもたぶん明確な答えはでないだろうし、陽水さん自身に聞いてもきっとはぐらかされるだけで(笑)、やはりここでも聞き手の受け取り方次第ということなのでしょう。
海外発の洗練されたサウンドの中で、間奏や後奏の陽水自身のハーモニカだけが間近なところで響いてくるのも個人的にはグッと魅力的なポイントです。

6. 白い一日
「氷の世界」がゆっくりとフェイドアウトしてから、ほぼイントロなしで♪真っ白な陶磁器を~と歌い出されるこの曲は、何とも美しく切ない叙情的なフォーク・ナンバー。2本のアコースティック・ギターに後半はヴァイオリンが絡んできます。作詞は小椋佳さんで、彼自身もこの曲を74年に録音していてシングルとしてもリリースしています。「君」への想い。古くさい手紙(出せなかった手紙)を破り捨てて寝ころがる描写。う~ん、わかるわかる。そして中間部では、君が向こうにいる「踏切り」が再び登場するのが何ともニクイ(小椋さんの詞なので偶然かもしれないけど・・・)。今回は「あかず」ではなく、遮断機が上がって大人の顔をした君が振り向きます。想像の中の世界ですが。

7. 自己嫌悪
A面ラストを飾る曲。「チエちゃん」に続いて3拍子の曲ですが、こちらはマイナー調でグッと暗いイメージ、余韻を残すナンバーとなっています。これもまた解釈の難しい歌詞の曲ですが、ここに登場する4人の「男」とは誰なのか。自己嫌悪というタイトルから考えて、すべて陽水さん自身のことを言っているのかもしれないし、3番・4番(もしくは4番のみ)が自身のことを歌っているようにも取れる。そうなると1番・2番は誰のことなのか(2番は前年に亡くなったお父さんのことか)。そんなことを思いながら、アルバムA面は終了します。この曲の余韻が頭の中にある状態でレコードをひっくり返してB面へ。CDやサブスクではなく、LPでこのアルバムを聴く醍醐味の一つがここにあります。

SIDE 2
1. 心もよう
A面の余韻を断ち切るかのように、ジャジャジャ~ンという「心もよう」のイントロとともにB面がスタートします。73年9月にリリースされた先行シングルのA面曲。陽水流の“叙情派フォーク”といった感じで、切ないAメロの旋律とサビのたたみかける展開との対比が鮮やかで素晴らしい楽曲ですね。この時点ではこちらをシングルA面に選んだプロデューサーの采配は間違いではなかったのでしょう。初期の陽水さんのナンバーの中では「夢の中へ」と並んでシングルヒット性の高い楽曲と言えると思います。遠く離れてしまった相手への恋心を歌っていますが、女性側の視点から歌うというのは陽水さんの歌詞としては意外と珍しくて、この「心もよう」の他には、ファースト『断絶』に収録された「小さな手」くらいしか思い当たりませんね(後年に女性アーチスト向けに書かれた楽曲は除く)。

2. 待ちぼうけ
「帰れない二人」に続いて2曲目の忌野清志郎との共作曲。高中正義のリードギターと深町純のピアノに導かれた軽快なポップ・ロック・ナンバーで、アルバムの中で最も明るい楽曲と言えるかもしれません。3連符のヒラのメロディも軽快でいいですね。でも「待ちぼうけ」というタイトル通り、部屋に彼女はやって来なくて、3番で「外は暗くなって」きてしまうあたりは結構切ない話ですよね。その3番のサビのコーラス(陽水さんの多重録音)は凝っていて面白い。そしてラララララララ~ララとヒラの3連符のメロディーが繰り返され、ラストでリードギターとピアノが活躍してクライマックス。この構成「帰れない二人」とちょっと似ています。

3. 桜三月散歩道
作詞を漫画家の長谷(ながたに)邦夫氏が担当したという異色作。アコースティック・ギターを中心としたナンバーで「白い一日」や「心もよう」と同様に安田裕美さんのアコギの美しい音色のリード・ギターが活躍します。「桜三月散歩道」というタイトルもいいですが、1番から3番までそれぞれ最初の2行が全く同じ歌詞を歌うところや、それぞれの最後が「~三月(さんがつ~) 」と余韻を残すような感じで終わるのもなぜだか妙にグッときてしまいます。2番と3番の間奏では長いセリフパートがありますが、ここ、バックでは別のコード進行に乗せて、ストリングスで別メロディーが奏でられているのがとても印象的です。

4. Fun
全体的に緊張感のあるこのアルバムの中で、この曲が一番「なごみ系」なのかもしれません。雨をテーマにしたミディアムの心地よいメロディー。ちょっとオールドタイミ―な曲調で、何となくバカラック的でもあり、どことなく「みんなのうた」風でもあり。でも歌詞を追っていくと「君は雨を見ているの?雨を見てるふりだけなの?」とか「日記に書いてることはやっぱり悲しいことかな?それとも今日から日記をやめると書いているのかな?」とかやはりなかなか一筋縄ではいかないところが陽水さんらしいです。

5. 小春おばさん
アルバム収録曲の中で最も印象的な曲名の一つがこの「小春おばさん」でしょう。小春おばさんって誰?ってツッコみたくなるところですが、陽水さんの親戚に実際にいらっしゃるおばさんだそうです(という話を以前にどこかで読んだことがある気がするのですが、違ったかな・・・)。
曲調はまさしく「静」と「動」。ロンドン録音の一曲で、静寂なイントロの中で響く女性コーラスが何とも怪しい雰囲気を出しています。「静かな」ヒラの部分では、♪風は北風、冬風~ の「ぜ~」が陽水さんのボーカルにしてはかなり低いところまでいくのが印象的。あと「貸本屋」。気になりますねぇ。ピアノのリフを挟んで、サビは一転してエモーショナルに歌い上げます。♪小春おばさん~ の「ん~~」で伸ばすのは、結構斬新なアイディアですね。1番はヒラからサビへすぐに移りますが、2番ではヒラとサビの間に間奏が入るのもなかなか面白いアレンジだと思います。
余談ですが、この曲のサビのパートもしっとりと静かなトーンで歌うバージョンってのがあったら聞いてみたいです。結構「あり」な世界観だと思うのですが、いかがでしょうか。

6. おやすみ
本当に盛りだくさんな、時としてかなり攻めた楽曲ぞろいのこのアルバムのラストを飾るのは、すべてを優しく包み込むようなこのナンバー。ピアノによる印象深いイントロ。この曲もロンドン録音で、ピアノの演奏はピーター・ロビンソンというミュージシャンによるもの。伴奏や間奏など曲を通して素晴らしい演奏を聞かせてくれています。「深く眠ってしまおう 誰も起こすまい  あたたかそうな毛布で 体をつつもう」という3番の歌詞がたまらなく好き。そして「もうすべて終わったから」と歌って、美しいハーモニーでエンディング。アルバムを通して聴き終えた充実感と余韻が同時に押し寄せるこの瞬間、この感覚がたまりません。

前回の投稿からなんと1年以上も間隔があいてしまいました。音楽はコンスタントに聴いてはいるのですが、他にも時間を使いたいことができたため、この1年は何となくそっちを優先して過ごしていたという感じです。今回の再開をきっかけにまたぼちぼちと記事を書いていこうと思います。
『氷の世界』は日本のミュージックシーンを語る上で、かなり重要な位置にあるアルバムであることに間違いないでしょう。このアルバムがリリースされたのは前述のとおり1973年12月1日ですが、そのわずか10日ちょっと前、これまた日本のポピュラー音楽界を大きく変えるきっかけとなったレコードがリリースされています。それは当時まだ10代だった少女によるデビュー・アルバム。次回取り上げる予定です。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?