河野多惠子「考えられないこと」


先日読んだ「文学問答」に影響されて、山田詠美に続き河野多惠子作品も初読み。

3つの短篇のうち、「好き嫌い」は小説だとわかるが、「歌の声」「考えられないこと」はエッセイのようにも見えるし、エッセイを装った小説のようにも読める。こちらの2篇の共通点は、幽霊だろうか。

「好き嫌い」が好きだ。

主人公であるハマ子の子供時代について淡々と綴られている。

一年間の幼稚園生活が終わる頃には、ハマ子は自分がぶすっとした顔をしている子であることをすでに知っていた。
彼女は自分の顔がぶすっとしていることを視覚ではなく、顔そのもののなかから伝わってくる感じによって知るようになったのであった。


この部分が特に印象に残った。私も小学生から中学生にかけて、学校では表情の無いぶすっとした顔をしていた。ぶすっとしていることは、鏡を見なくても分かる。「顔そのもののなかから伝わってくる感じ」なのだ。

私の顔がぶすっとしていることについて、当時の小学校の音楽教師が授業中の雑談で話題にしたことがある。いつもそういう顔をしていると表情筋が弱って大人になったときにブスになるから、顔のマッサージをしたほうがよいと言うのだ。教師は見本として、彼の両頬を両手の人差し指と中指で円を描くようにマッサージしてみせた。

授業中にクラスメートの前でぶすっとした顔について指摘された私は、自分の顔つきに対してその後も大きなマイナスの感情を持ち続けることになる。かといって、学校という場で笑顔を作ることもできなかった。

なぜいつもぶすっとしているのか、教師ならばその表情の奥にある子どもの感情に思いを馳せてくれてもよかったのではないか。そこまで教師に期待するのが甘えだというのならば、そこまで踏み込んで向き合うつもりがないのならば、人の表情のことなどほうっておいてほしかった。

この「好き嫌い」という小説の中では、「ぶすっとした顔」であることについてなんの評価もしていない。良いとか悪いとかではなく、ただ「ぶすっとした顔」をしていたということが書かれているのみである。

そのことに、私は救われた。正確に言うならば、子供の頃のふさぎこんでいる私をやっと救ってあげられた。

本を読んでいると、時々こういうことがある。

かつて自分が経験した形のないモヤモヤとした気持ちに、言葉が与えられて美しい文章となって物語に組み込まれている。

「わかる!私もそうだった!」となれば、それはもう、嫌な思い出ではなくなっている。心を蝕む毒の部分が浄化されて感情と切り離され、「そんなこともあったなぁ」というただの出来事として、記憶の引き出しのあるべき場所におさまってくれる。

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