瀬戸正夫さんに会いに
渋滞のスクンウィットで年季の入ったタクシーを拾った。瀬戸さんに教えてもらった通りの名前と番地を伝えると、運転手は軽くうなずいた。
なにしろバンコクの土地勘はほとんどゼロなので、渋滞もあるし遅れないようにと早く出てきてしまったら、約束の時間より40分も前に着いてしまった。
空を見上げると薄っすらと青空が見えていて、PM2.5でこのごろは世界最悪の空気汚染を誇るチェンマイより、ずっと澄んでいた。地図で確認すると、すぐ近くをチャオプラヤー川が流れている。時々吹いてくるのは、川の風なのだろうか。
古い住宅街の一角だが、周辺には寺や小さな市場もあるようだ。散歩でもして時間を潰した方がいいかもしれない。そう思いつつ、家の前でうろうろしていると、隣の家のマダムがちょうど車で出かけるところで、「マサオのお客さんでしょう。中にいますよ」と声をかけてくれた。ほら、そこのベルを押してください、と言う。
瀬戸さんのお宅は、タイの下町によくあるタイプのタウンハウスで、一階の玄関の手前は車庫になっている。簡易的なシャッターが閉じられているが、隙間から、今の日本では到底走っていない濃い緑の旧車が停めてあるのがみえた。1970年代製の三菱ランサーだ。トランクには、現役の頃に貼ってあったのだろう、ข่าวカーオ(報道)という大きなタイ語のステッカーの跡が残っている。ボンネットにはローマ字で「SHIMBUN」という文字もあった。その隣りの文字は「ASAHI」に違いない。車の中には、段ボール箱が積め込まれ、物置き代わりになっていて、もう随分長い間使われていないようだ。
こんな格好でごめんなさい、と言いながら、瀬戸さんより20歳ほど年下の奥さんがムームー姿で出てきた。早く来てしまったことを詫びると、いいんですよ~、と笑顔で門を開けてくれた。
車庫をほぼ占領してしまっているランサーの隙間を通り抜けると、玄関の入り口に置かれたペット用のゲージのなかに、黒猫が寝そべっていた。ランサーの下で生まれた元ノラ猫だという。ゲージの扉は開けっ放しだ。猫が外にでちゃうから、さあ遠慮なく入ってくださいと、奥さんは促した。
お客さんが来ましたよと、奥さんが二階へ声をかけると、「はーい」という聞きなれた声が返ってきた。階段の手すりを両手でしっかり持ちながら、瀬戸さんが下りてきた。一段一段、足元を確かめつつ、下りてくる。黒いシャツに黒いスラックス、いつもの記者のスタイルだ。白くて長い髪の毛が電灯に透けていて、相変わらず仙人っぽい。足は丈夫そうだが、目が悪くて自由に歩くのは難しそうだ。降り切ったところに、奥さんがキャスター付の事務椅子を待機させてあり、瀬戸さんはそれにちょこんと座ると、椅子に座ったまま足で漕ぐようにして食卓の方へ移動した。
丸い食卓には、台所のある裏口から反射光がやわらかく差し込んでいた。壁のホワイトボードに、setsuko 10:30 と書いてあるが、部屋の掛け時計はようやく10時になるところである。
一階は全体的に薄暗くてひんやりしていた。入り口付近が一番暗く、片隅にソファーベッドが置かれ、大きなテレビが設えられている。瀬戸さんと話している間、奥さんはそこに座ってテレビを見ていた。裏口の壁ぎわの床には、中国スタイルの赤い小さな祠が祀られていた。住居も家具も日用品も、全てが少し色あせていているが、隅々まで整理整頓されていて、丁寧に、慎ましやかに暮らしている様子が伝わってくる。
瀬戸さんのところには、定期的にいろんな人が訪れているらしい。毎月、瀬戸さんの話を録音する旧知の日本人やタイのドキュメンタリー番組の取材陣、水泳や日本語の元教え子たちが入れ替わり立ち代わり会いに来る。つい先週も日本語教室の元教え子が挨拶に来て、お小遣いをくれたんだと楽しそうに教えてくれた。
92歳になられたというけれど、長年水泳の先生もしていた瀬戸さんはすこぶるお元気で、水泳ができなくなった今も、毎朝、エアロバイクをこぐのが日課だ。話していると昔とあまり変わらない印象で、コロナ禍もほぼ終わり、目さえ良ければ、今ごろはあちこち出かけていたのかもしれない。
初めて私が瀬戸さんにお会いしたのは大学生の時だった。1997年、スタディツアーで訪れた16人の学生のひとりとして瀬戸さんのお話を聞き、カンチャナブリー県の泰緬鉄道の博物館にでかけた。ごくおとなしい学生だったから瀬戸さんの記憶には残っていないと思うが、私には当時の瀬戸さんの印象が強烈に残っている。写真が好きだった私は、カメラをぶら下げている瀬戸さんには人一倍興味があったが、内気な性格なので、瀬戸さんの眼光鋭い大きな目が怖くて、目線が来ると反射的に視線をそらしていた。瀬戸さんはそんな私の様子を見逃さず、「下を向いていちゃ、だめだよ」と叱った。その時の私はますます下を向きたくなったが(苦笑)、今思い返すと、若い人を馬鹿にしてはいけないと常々仰っている瀬戸さんは、私のように弱っちい学生のことも放っておけず、大切なことを教えてくれようとしたのだと思う。
卒業後、私はチェンマイで日本語の情報誌の仕事をするようになり、数年ぶりに再会した瀬戸さんに、その場で、昔のチェンマイについての連載を依頼したこともあった。人並外れた記憶力で昔のことを細部まで覚えている瀬戸さんは、若いころ旅したチェンマイで、日本人写真師の田中盛之助氏に会ったことや、ピン川沿いにあった元祖カオソーイ屋の話など、いろいろと思い出して書いて下さった。
目が悪くなり始めてからは、チェンマイに来るときはランサーではなく鉄道を利用していた。旧市街の安いゲストハウスの予約を頼まれ、駅までバイクで迎えに行ったこともある。私のバイクの後ろに乗った仙人瀬戸さんを記念に撮っておかなかったことが悔やまれる。幽霊をみるのが得意(?)な瀬戸さんは、ゲストハウスの部屋の扇風機が夜になると昔の兵隊の顔になると言ってクレームをつけたが、次に来た時もそのゲストハウスの同じ部屋を予約するようにと指定した。兵隊の幽霊のことがけっこう気に入っていたのかもしれない。
2019年には、瀬戸さんの新連載「悲惨な戦火に巻き込まれて」が始まったが、残念ながら、コロナで情報誌自体が休刊になってしまった。ご本人も連載を楽しみにしていただろうから、続けられなかったのは残念だった。
コロナ禍で仕事もなく、鬱々とこもっていたころ、時々、瀬戸さんから電話がかかってきた。
「せっちゃん、元気にしてる~? みんな、大丈夫? 僕にできることがあったらなんでも言ってちょうだいよ~」
瀬戸さんは毎回そう声をかけてくれ、私も毎回、大丈夫です、元気にしています、と答えた。お気持ちが嬉しかった。売ってなにかの足しにしてもいいからと、タイ語に翻訳された瀬戸さんの著書が2カ月に一度くらいのペースで、私の元に送られてくるようになった。
瀬戸さんは優しいのである。 ご自身の著書に書かれたエピソードに、バンコクで起きた大事件の取材に日本から来たカメラマンが、肝心の撮影に間に合わず困っているのを見て、瀬戸さん自身が撮影したフィルムをそのまま譲ってあげた、という話があるほどだ。競争の激しい報道の世界でなかなかできることではない。
現在はご家族と平穏に暮らす瀬戸さんだが、その前半生は今の時代からは想像もつかない過酷なものだった。
プーケットで医師をしていた日本人の父親とタイ人の母親の間に生まれた瀬戸さんは、その境遇により、苦労の多い幼少時代を過ごした。バンコクの日本人学校時代に太平洋戦争が勃発。わずか14歳で日本軍の軍事教練を受けさせられた。20キロの土嚢を担いで走らされる訓練は、体の鍛錬ではなく、爆弾を抱えたまま敵軍に突撃して自爆する訓練だと知ったのは後になってからだという。
終戦後、在タイ日本人はバーンブアトン収容所に集められ、瀬戸さんもそこで大人と同じように働いた。収容所の日本人の多くが強制送還になったが、瀬戸さんはタイに残った。その後、日本の国籍取得を志願したものの、10年間保留にされた挙句、日本政府からの回答は「不可」だった。その時はショックで自殺まで考えたという。そんな瀬戸さんの苦悩の半生については、著書の「父と日本に捨てられて」に詳しい。
さまざまな職業を経て、朝日新聞のジャーナリストとして長年タイ国内外を取材して歩いてこられた。戦争を繰り返してはいけないという思いから、次の世代を担うタイや日本の学生たちに自身の体験を語る活動を続け、現在も戦中の記録や情報の収集に努めている。
お話を聞いているうちに、あっという間に2時間近く経っていた。瀬戸さんは事故で右目があまり見えないうえに、ご高齢で左目も視力が落ち、どこか宙を見ているようで、視線は少し頼りなさ気である。
しかし、その目の光はとても穏やかだ。
「どんなに大変でも、くよくよしていたらいけない。そのことを僕はまだ、みんなに伝えていかなくちゃいけないと思ってるの」
激動の人生をたくましく生き抜き、下を向かずに歩んできた瀬戸さんのシンプルな言葉が、心に響いた。
120歳まで生きるつもりです、と、いつか頂いた手紙に書いてあった通り、長生きをして、これからも瀬戸さんの言葉を伝え続けて欲しいと思う。
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