梅雨(小説)
うどんにワサビって、つけんの?
浅田の言葉を無視して、あたしはチューブをぎゅっと絞った。ぼとんと落ちた塊を、お箸でわしゃわしゃかき混ぜる。濁っためんつゆに、出来損ないの残骸が浮いてきて、ぐるぐる回った。ずるずるっと、一気にすする。つめたい。心地いい。ワサビとうどんって、どうしてこんなに合うんだろう。返事をしないあたしに、浅田は肩をすくめ、自分のつゆにえび天を浸す。
あたしはテレビのニュースを見ながら、浅田はスマホの画面を見ながら、向かい合って夕食を食べている。同棲して二年。付き合ってそろそろ三年が経とうとしている。「あ、豪雨警報」浅田がスマホを見たまま呟く。「今から来るの?」とあたし。「すごいのがくるらしい」。お互いを知ろうとする会話なんて、とうの昔に忘れてしまった。あたしたちはいつもあいまいな会話をする。あたしたちには意見がない。あたしたちはぶつからない。ぼやぼやした会話をしているので、なんだか姿かたちまで、ぼやぼやしてきた気がする。浅田ってどんな顔してるんだっけ? どんな声だったっけ? 長く付き合っているはずのに、細かいことを思い出せなくなったなあ。そんなことを思いながら、目頭をぼりぼりかく。
浅田の読み通り、辺りはすぐに暗くなった。雲がすさまじい勢いで空の色彩を奪っていく。あ! あたしのプラム! ベランダで育てていたプラムの鉢を、慌てて中へ入れる。プラムの鉢植えは、一年前、浅田に言われて買ったものだった。「小学生の気持ちで付き合ってみない?」と提案されたのだった。小学生? そう、小学生。心の本能のままに生きる、善良でエゴイスティックな小学生。浅田は当時、学生だった。先生になる気もないのに、教育実習に行っていた。実際の子供を見て、心を揺さぶられる瞬間があったのだろう、熱心にそれを提案してきた。あたしはその頃、一の経験で百感じてしまう浅田を、とても愛しいと思っていた。そんな感受性豊かな浅田が言うんだから、あたしたちがあるべき姿は、「善良でエゴイスティックな小学生」で間違いないのだ。それがあたしたちがうまくやっていく唯一の方法なのだ、と思った。そういうわけで、まずは小学生らしく、植物を育てることにした。浅田はミニトマト。あたしはプラムを選んだ。ミニトマトより失敗しない植物なんてないと思うけど、結局浅田のミニトマトは育たなくて、ふつうに枯れた。あたしのが先生向いてんじゃないの、とからかったら、むっつりと黙ってしまった。浅田をばかにするのはおもしろくて、あたしはいつもにやにやしてしまう。
プラムを中に入れた瞬間、ごおっと音がして、勢いよく雨が落ちてきた。やばっ! あたしは少しわくわくして斜めに刺さる槍のようなそれを見つめた。
「浅田、雨の日ってちょっと楽しくない?」
んー。浅田はスマホを見ながら、そう答えた。あたしが黙って見つめると、顔を上げて少し微笑んで「うん」と返した。昔だったら「浅田、今あたしのことめんどくさいと思ったんでしょう」とか言って、拗ねたかもしれないけど、もう拗ねる自分が痛くて、小っ恥ずかしくてやっていられない。あたしは席について、盛り付けられたシシトウとしいたけの天ぷらを食べた。いつも、あたしの分をきっちり残しておいてくれるのは、浅田のいいところである。
食器を片付けて一息する頃にも、雨は続いていた。浅田がプラムの前に座り、外を眺めている。小さな背中だった。こんなに小さかったっけ、身長は低くないはずだけど。あたしは隣に腰を下ろした。すると浅田があたしに尋ねてきた。
「あとひと月で世界が終わるとしたら、誰と一緒にいる?」
「えっ……唐突だなぁ」
一瞬、もう少しでやれそうな職場の男の子の顔が浮かんだけれども、
「浅田かな」そう答えた。
「何故」
「だって……」
だって、面倒くさくない。同じ時間に、同じものを食べて、同じ番組を見て、同じ布団の上で、同じ攻め方と同じ対位でえっちして、同じ体制で寝るのが、いちばん楽だって知ってるから。浅田以上に、あたしの感じるところを知っていて、あたしの機嫌の取り方も心得ている男を探すのが、面倒くさいから。もうあたし、二十二だから。辛酸嘗め尽くして、穏やかに愛されることが一番楽だって知っているから。
そういう風に思ってるから、浅田も、あの人のとこに行かないんでしょ?
「……好きだから。浅田のこと」
そう返した。浅田は少し黙って、そうだな、と言った。それから、そうだよなあと、もう一度頷いた。そうだよ。あたしも言った。そう、それだけだよ。そういうことにして、いつもやってきたじゃん。
地を叩くような音がした。どこかに雷が落ちたのだ。一瞬明かりが消え、それから付いたり消えたりが、繰り返された。視界がぼやぼやする中で、浅田の口が動いた、気がした。でも、雷の音が大きくて、何と言ったのか、あたしには分からなかった。
プラムの葉が耳の奥でがさりと鳴った。
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