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家の中の外

 創作活動を続けていると、同じように創作をされている方とたくさん知り合うようになります。そのなかでも特に、創作をはじめたばかりの方の話は興味深いものです。


 ある学生の方は、短歌を最近はじめて、ずっといびつだと感じていた自分のからだの愛おしさに少しだけ気づけた、と言っていました。
 子育てが一段落したというある方は、小説の創作をはじめてから、瞬く間にすぎ去る日常のすき間に、自分の感情がこれほどたくさん落ちていることに驚いた、と言っていました。
 ある会社員の方は、詩を書きはじめてから、自分の幼い頃の強烈な寂しさと、趣味の登山を通した自然との触れあいが、思いがけない形で結びついた、と言っていました。
 あるご高齢の方は、スケッチを習いはじめてから、長年なんとなく見てきた自宅の庭に生える草花の形が、これほど奇妙で面白いものだと思わなかった、と言っていました。

 ややもすると自己中心的、と思われることもある創作行為が、逆に自分から遠ざかり、外の世界に再び出会うということ。
 まるで家の中に入ろうとして扉を開けると、知らぬ間に外に出ていたようなものです。

 ここでの「外」というのは取りこぼして忘れていた自分自身や、他者も含まれます。この「外」は、自分の中に一度ひたしたことのある、わたしの延長である世界です。頼りなげではあるものの、自らの薄い皮ふで触れ、抱き寄せたことのある世界。
 そして醜いものも美しいものも、苦痛も快楽も、抱き寄せたあらゆるものが、かけがえのないわたしの皮ふにくるまれ結晶化し、実ることがあります。そうした果実を創作物として、他の人々が受け取り、そこからなにかを感じとるわけです。哀しみや苦しみ、寂しさや寄る辺なさ、こうした分かち難い孤独な痛みも、だれかが抱き寄せ実らせた果実として味わうことができるのは、創作の醍醐味のひとつなのではないでしょうか。


 手触りのある「外」へ行くために、中に入るということ。これは興味深い矛盾であり、創作における不可思議でとても神秘的な一面だと感じています。
 創作をはじめたばかりの方たちから、変わりつつある自らの「外」の話を聞き、なにか大切なことを思い出させてくれたのでした。

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