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授業を30分のばして!

「古Tおねがい!授業あと30分のばして!」

昨日の理科の時間のまとめ。
子どもたちが口々に言った。
僕の授業ではよくある光景だ。

こんな時僕はいつも子どもたちとこんな会話をする。

「残り5分だけど、足りないなぁ…もっと書きたい!って人?」

そう聞くとたくさんの手が天井につきささる。

「すばらしいね。もっとやりたい!って思えている人はすてきな学びができている証拠だよ。完成していなくてもいいよ。できたところまで見せてね。そこまでのがんばりを見たいからね。」

すると、ある子が手をあげる。

「古T!休み時間もやっていい?」

「ええー。休み時間は休むものだよ。疲れちゃうからもう終わったら?」

僕がそういうとその子はにやっと笑う。

「古Tはこの前、勉強は遊びだっていってたじゃん。これ(このレポート)書いて遊んでいい?」

この言葉を聞いた時「ああ、この子たちは遊びと学びがまざりはじめてるな」と感じる。いや、もともとまざっていたものを僕たちが分け隔てていただけなのかもしれない。

僕は「先生が教えるありがたい授業」にはとんと興味がない。
自分の意図した通りにカチッとはまる。
そんな授業に心が動かない。

僕が「すてきだなと思う授業」は何か?
それは授業の最後に「もっとやりたい」という気持ちであふれている授業だ。

時計をながめて、終わった瞬間教室を飛び出していく。
そう授業とは正反対の授業。

こういう授業をつくるのは実は簡単だ。
それは授業の大半をアウトプットの時間にふりわければいい。

アウトプットの中でも「書く」ということを重視したらいい。
「話す」というアウトプットはいつのまにか「おしゃべり」になる。
しかし、それに気づくことは難しい。
でも「書く」ということは違う。「まとめ」が「落書き」になるとだれもがすぐに気づく。

アウトプットしている時だけ人は主役になれる。
僕はそう思っている。

「もっとやりたい」
「もっと書きたい」
「もっと続けたい」

こう思うのは彼らが主役になっている証拠だ。
彼らは主役の座を降りたくない。
それが学びに夢中になるということだ。

「わたしのクラスの子は書くのがきらいで」

そんな声を聞く。
その言葉が子どもたちの書くのをきらいにしている。

その言葉の中には「書けない=だめ」という感情がこもっているから。

ぼくがよく言うのは

「書けなくていいよ。うまく書かなくていいよ。いっしょうけんめいつたえてくれればそれでいいよ。」

という言葉。

そのチャレンジの中からよさを見つけて広げていく。
そんなことの繰り返しがいつのまにか、面白いものを生み出していく。

最近授業ただただおもしろい。
きっとそれは
僕自身が評価せずにおもしろがれるようになったからかもしれない。


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