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朝を贈る。

 彼は朝の気配に敏感だった。

 外の空が白みはじめ、夜にじんわりと朝の光が溶け出すころ、彼はまだうす暗い部屋のベットを抜けだす。
 ベットから離れきる前、いつもきまって私の額の上あたりの髪をくるくると2周なでてくれた。私は眠りが浅くて彼がそうするといつも起きてしまうのだけど、それでも目は開けないで眠ったふうにしていた。嘘寝をして彼の手のひらの感触を味わう。人が、誰かを起こしてしまわないようにゆっくりと静かに立ち回るのは、この世で一番つつましく優しい行為だと、私は思っている。

 リビングに繋がった3帖のちいさなベッドルームからは、キッチンに立つ彼の姿が見える。ダボダボでくったりしたカットソーにすこし膝の出るハーフパンツ。ツーブロックが伸びてきてくしゃくしゃになった髪が、ふわふわと揺れる。
 彼はまずシンクで銀色のコーヒーポットにたっぷりの水を入れる。そうしてキッチンの窓辺にいるサボテンに水をあげるのだ。コーヒーを淹れるみたいに慎重に丁寧にくるくると水を注ぎこむ。残りの水はそのままコンロに掛ける。

 彼が私の部屋に持ってきたのは、リュック1つ分の荷物とこのちいさなサボテンだけだった。
 サボテンをキッチンの窓辺に置いたとき、彼は満足そうに頷き、私は彼がこの部屋の住人になったことを理解した。これまでどうしてこの部屋にはサボテンがなく、彼がいなかったのかわからないくらいだった。

 彼が意外にも早起きで、朝食を欠かさないタイプだと知って、私は挽いたコーヒー豆とドリッパーと銀色のコーヒーポットを買ってあげた。彼は注ぎ口の細くてくびれたコーヒーポットをとても気に入った。「静かに真っすぐ注がれた水は、土もコーヒー豆も、安心して飲めるみたい」と言っていた。朝は、私の分もコーヒーを淹れると約束した。

 ドリッパーを耐熱グラスの上にセットしてフィルターを置く。コーヒー豆を一杯。蒸気の噴き出したポットをコンロからおろす。ゆっくりとお湯を注ぐ。くるくるくる。

 彼はひとりぶんのコーヒーを淹れている。もちろん狸寝入りをしている私のぶんではない。彼自身の一杯だ。
 私は彼が、自分のためにコーヒーを淹れる姿を見るのが好きだった。誰かのために淹れるのや、誰かに見せるために淹れるのではなくて、ただ自分が好きでそうする、という姿が、本当に好きだ。朝の光が部屋に広がって銀色のポットがきらりと輝いて、彼がくるくると丁寧にやさしく湯を注ぐ。この時間のすべてが愛おしかった。

 もうすっかり朝が部屋を満たしたころ、私は起きていく。彼は顔をくちゃっとして「おはよう」と笑う。銀色のポットは再び彼の手でコンロに掛けられる。

 お湯が沸く間に、フライパンも火にかけてくれる。そこにオリーブ油をくるくると回し入れる。冷蔵庫から卵を2つ出してフライパンに割る。カンカン、パカッ、ジュッ、と2回、音。パン2枚をトースターに入れる。フライパンで焼かれた卵をひっくり返してまた焼く。

 彼が作ってくれる朝食はいつも同じメニューだ。両面焼きの目玉焼きののったトーストにドリップしたコーヒー。私も彼も当然のように毎日同じそのメニューを楽しんでいた。

 沸いたお湯で彼は2度目のコーヒーを淹れる。まるで1年で最も大切な仕事を行うかのように、心をこめた様子で。きっと彼は1日のうちの何度目のコーヒーでもこのように淹れるのだろうと思う。下向きの顔の前髪の間から睫毛が見えて、ほんのわずかな回数でまばたきしている。その細やかな毛先を眺めていたら、ふいに彼が顔を上げて目が合った。声を出さずににっこりとする。また、目を伏せて湯を注ぐ。

 こんなに素晴らしい朝があっていいのかしら。と私は毎朝思う。

ーヒモなんて、貴族の遊びだよ。やめなよそんな男。

 ミカにはそう言われたけど、ミカは全然わかってない。そういうのは、こんなに素晴らしい朝を、過ごしたことのない人間の言うことだ。彼が朝健やかに起きて私やサボテンやコーヒー豆にくるくると愛情を掛けて回るのは、他のどんな仕事を成すことよりも私を幸せにしてくれる。

 「できあがり」

 彼が首を傾げて微笑む。テーブルでは目玉焼きトーストと淹れたてのコーヒーが、湯気を立てていた。

 
 いま私の部屋のキッチンにはサボテンが1つある。ちいさくてポツンとしてトゲトゲして。孤独そうにいる。その孤独なサボテンに私は水をあげる。

 素敵な朝と、たった1つのサボテンだけを置いていなくなった彼。銀色のコーヒーポットと一緒にいなくなってしまった彼。
 いまは誰に、朝を贈っているんだろう。



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