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『黒骨の騎士と運命の子Ⅰ カリバーンの乙女』−1

世界観


プロローグ

 黒い鎧の騎士は走っていた。その懐に小さな乳飲み子を抱えて。鍛えられた太い手足を振り抜いて。雨のような矢を潜り、蛇のように走る炎を越えて、黒い騎士は走った。
走って、走って、黒い騎士は勢いのまま塀を駆け上がる。大砲の轟音とたくさんの悲鳴から小さな姫を守るために、彼は堀に張られた水に飛び込んだ。


1.黒骨の騎士と薬屋のクロエ

 今は亡きテリドア帝国の西、ヴォナキア王国の内陸、森に囲まれた小さな町ワスマにその酒場はあった。傭兵たちがギルドを組み、ヴォナキアの中を自由に行き来するために設けられた酒場兼宿屋の受付の前にゴツンと重い鉄甲の音が響いた。
焦茶色の重い革靴を履く男は目深くフード付きの黒いローブを羽織り、こめかみの辺り、布の下から青色の光沢を持つ槍のように鋭いツノを二本生やしていた。口元をローブと揃いの黒い布で覆い、肌の露出を避けた装い。腰に差した二本の剣はトーラーが持つには大きく重い。酒場に集っていたトーラーの男たちはその姿を見て「ドラゴニーズだ」と囁いた。
精霊たる竜を父に持ち、トーラーを母に持つ竜人のドラゴニーズ。四種族の中でも数の少ない彼らは滅多に人里にいないことからトーラーには珍しい客人だった。
ドラゴニーズの男は丸太のような太い腕、健康的な小麦色の指先でギルドの受付に組合員の証である竜頭を模した台座付きの首飾りを置いた。
「仕事が欲しい。短期間で出来る高額なものを」
受付をしていたトーラーの中年の男は己より頭一つ背の高いドラゴニーズを見て思わず首をすくめた。
「へえ、ちょいとお待ちなすって」
受付のオヤジは見慣れない竜人に怯えながら屈み、カウンターの下から依頼書を集めた分厚い冊子を取り出した。指先を舐めたオヤジがペラペラと紙をめくるのをドラゴニーズは親譲りの黄金の瞳でじっと見つめ待った。
その瞳のなんと美しいこと! この男が二メートルを超える巨躯でなければ道行く者全てが彼の宝石のような瞳に真っ先に気付き、そして見惚れたであろう。
「今日にでも出来るのは、隣町まで行く薬屋の護衛と……」
「幾らだ?」
「て、手取りは五万ギニルです」
「それでいい」
「へえ……。待ち合わせ場所は六番通りです」
受付のオヤジは冊子から外した依頼書と羽根ペンを差し出した。ドラゴニーズは依頼書の下半分にある二箇所の空欄にそれぞれサインをし、受付のオヤジは傍らにあったインク付きのスポンジに判子を押し付け点線で区切られた空欄の中央をトンと叩いた。
 依頼証明の半券を片手に竜人が酒場を出て行くと、受付のオヤジは書かれた名を読んだ。
「フォンザー……フォンザー!?」
オヤジの呟きは大きく、近くの傭兵たちにも聞こえた。傭兵たちは顔を見合わせざわざわと喋り出す。
「フォンザー? あいつが?」
「へえ、あいつが元テリドア帝国兵、黒騎士フォンザーなのか」


 八つの国のうち一つが一つを食い、六つとなった時代。この世界には未だ精霊が大地に住んでいた。妖精族(エルフィン)は妖精の子孫として。小人族(テラムン)は物作りの神々の子孫として。竜人族(ドラゴニーズ)は精霊たる竜の子孫として。背高族(トーラー)は様々な神の遠い子孫として存在していた。
 それぞれ種族はあれど大きくは森に住む者と街に住む者に分かれていた。街に住む者は城を築き国を城壁で囲い、その中で王族や貴族、商人や農民と役割を分けていった。
 国により精霊の王プレグライアを祖とする一神教、宇宙を創生した恒星の王を中心とする多神教と違いはあれど、神と精霊を崇め祀り、奇跡を行使する者たちはみな一様に魔法使いと呼ばれた。
魔法使いになるためには一神教の教会か多神教の寺社に赴く必要があり、しかし学ぶ気がある者なら種族と身分は関係なく受け入れられた。そのため魔法使いは信徒であり科学者であり、占い師であり医者であった。
星を読み暦を作り、精霊の声を聞き民に伝え、病を治し、悪霊や魔を退け、祓い清める。多くはこのようによい魔法使いたち……白魔法使いと呼ばれる者であったが、中には奇跡を操れることで驕り、その力で生き物を殺し他者を呪う恐ろしい魔法使い……黒魔法使いもいた。
 白魔法使いも黒魔法使いもそれぞれの王に仕え、または町中の医者としてあり、どこの国にも存在した。なればこそ、彼らは「魔法使いさん」と慕われ、「魔導士さま」と尊ばれ、「魔女」と恐れられた。


 ──五年前、四大王国のうちの一つ、テリドア帝国が同じく四大王国の一つピグルーシュ王国を支配下に置き五十年が過ぎた頃。運命の子ハルサラーナ姫はグリシュナ皇帝の十三人目の妾、ヴィルマーヤの腹から生まれた。
美しくも娼婦の身であったヴィルマーヤは王女を孕んだことを機に権力を欲し、王妃への道を駆け上る最中に予言を知った。己の腹に収まる小さな命が運命の子だと知った彼女は手放してなるものかと、己と腹の子に専属の騎士を充てがうようグリシュナ皇帝に乞うた。
そしてその役目に就いた騎士こそが、血も涙もない鬼(デーモン)の如き闇竜の子、テリドア帝国下級騎士フォンザー・ベルエフェだったのである。

 初めは耳を疑った。グリシュナ皇帝直々の呼び出しと聞き、どんな恐ろしい命令か、どんな血も凍る作戦かと思ったのに、皇帝が下級騎士であるフォンザー・ベルエフェに告げたのは元娼婦の妾ヴィルマーヤとその腹の子の護衛だった。
「余はお前の腕を見込んで命じておる」
「……身に余る光栄で御座います」
およそ五年と半年前、テリドア帝国の黒き岩の城には深い雪が降り積もっていた。冬の中でも特に寒い日だったと、フォンザーはよく覚えている。
分厚い革の黒の鎧にふかふかの絨毯のような毛足の長い青鈍色のマントを付けたグリシュナ皇帝は、玉座の上で間を置いて髪と揃いの短く整った黒い髭に覆われた口元で言葉を紡いだ。
「腹の子は余の血を継ぐ大切な跡取り。その者に何かあっては困る」
「は」
グリシュナ皇帝は腹の子を跡取り、つまり男だと言い切った。この時点で妾腹の子が予言にある救世の“娘”だと魔法使いから聞いていたにもかかわらず。グリシュナは……予言は間違いだと考えたかったのだろうか? 今では知る由もない。
「この後すぐにヴィルマーヤの元へ行くがよい。乳母と共に子を護り、常に目の届くところに置け」
「は。仰せのままに」
ツノに見合う黒い甲冑に紫のマントを身に付けた騎士フォンザーは膝をついたまま深く頭を下げ、命令をこなすべく玉の間から早々に立ち去った──。


「フォンザーさん!」
 傭兵ギルドの受付がある酒場から出て行ったフォンザーを追いかけ声をかける者があった。
「ミスター! フォンザー・ベルエフェ!」
トーラーの若い男だ。短髪は赤茶色で緑の瞳。いかにもなニンジン頭の若者はフォンザーの前に転がり込み泥に汚れる手も構わずその場に膝をついた。
「フォンザー・ベルエフェ、黒騎士さま! 俺を弟子にしてください!」
フォンザーは頭を下げた若者の横を素通りしようとした。しかし若者はフォンザーのよく鍛えられた長い脚にしがみつき甲高い声を出した。
「お願いしますミスター! フォンザー様!」
「お前のように愚かなトーラーはこれまで二十三人いた」
フォンザーは心地よい低い声でそう言い、宝石のように煌めく黄金の瞳で若者を見下ろした。
「“弟子にしろ”などとのたまう者はその内二十人いて、全員死んだ」
若者はゾッとするような冷たい視線に冷や汗を流し、息を飲んだ。
「ぎ、ギルドに入りたいんです!」
「なら受付のオヤジに言え」
「ウチの一族はみんな赤毛の痩せたニンジンだからってギルドに無視されるんです! 先に実力を示さないといけなくて!」
「なら軍に入れ。嫌でも鍛えられる」
「お願い!」
フォンザーは脚をくるりと一回転させ、鮮やかに若者のあばらを踏みつけた。どっしりと重いドラゴニーズの体重を胸にかけられた若者は息が出来ず声なき声で悲鳴を上げる。フォンザーは膝に肘を置いて若者の顔を覗き込んだ。
「確かに痩せたニンジンだな」
竜独特の煌めく瞳を見たトーラーの若者は一瞬時を忘れ、その瞳に見惚れた。
フォンザーはすぐに脚を退け若者を解放した。咳き込むトーラーの若人に振り向きもせず、フォンザーは黒いローブを翻し薬屋のある六番通りを目指した。


 ──テリドア帝国兵フォンザーにとって乳飲み子と言うのは泣き喚く猿に等しかった。腹を空かせ、湿ったオムツを取り替えろと叫ぶだけの生き物を、彼は奇異の目で見つめた。
 フォンザーはある日、普段なら共にいる乳母が高熱を出したためにハルサラーナ姫を一人であやさねばならなかった。何とか薄めた牛乳を飲ませ、オムツを取り替えたにもかかわらず乳飲み子は泣く一方で、おんぶ紐で鎧の上に赤ん坊を縛り付けられた彼はほとほと困っていた。
 そして城の従者の中から代わりの乳母が見つからずいよいよ対応に困ると、黒騎士はその姿で街の酒場を訪れた。市民たちは目を皿のようにして黙り、グリシュナ皇帝の娘と聞いて万が一にも失礼があってはならないと迂闊に手が出せなかった。しかしハルサラーナ姫がその日一番の大声で泣き叫ぶと、見るに見かねた市民たちは手を差し伸べた。
「おお、よちよち」
 結局酒場の女将に赤ん坊を預ける形になったが、黒騎士はやっと兜を脱いでビールとつまみを口にした。
「フォンザー!」
景気良く黒騎士の肩を叩く者がいた。その兵士は鳶色の髪と瞳をした壮年の男で、腰には長剣と小剣を差している。
「ゲオルク」
「わっはっは! 巨人も畏れるお前が子守とはな!」
「笑うな。あの氷のような女がろくに乳も吸わせんからこうなったんだ」
「ええ? 自分の赤ん坊に乳をやらないって?」
隣に腰掛けたゲオルクに一杯のウォッカを奢り、フォンザーは再びビールに口をつける。
「容姿が崩れるから嫌だと」
「ああ、乳が垂れるってか? もう若くもないのによく言う」
「若くないから、だろ」
「俺にはわからん話だ」
「おおよその男にはわからん」
ハルサラーナ姫は乳を飲み足りなかったのだろう。子を生んだばかりの町娘の乳を吸い大人しくなるとすっかり眠った。
「可愛いじゃあねえか。あの眉の吊り上がった妾から出てきたとは思えん」
「乳飲み子などどれも同じだ」
「そんなことはねえ。見ろ、このはちみつ色の髪を。つやつやしてる。俺の娘も幼い頃は大層美しい金髪だったが、いやはやこの色には負ける」
「どうでもいい」
「お前も子供を持ったらわかるさ」
「なら、一生わからないだろうな」
そんなことねえよ、とゲオルクは盃を片手に苦笑いをした──。


「あんたが巨人も恐れるテリドア帝国兵フォンザーとはねえ……」
「不満か」
「いいえとんでも。もっと恐ろしい顔の男を想像していたから、こんなにいい男だとは思わなかったんだよ」
「顔などほとんど隠れておろうに」
「醜男の目元じゃないことだけは確かさ」
 薬屋の女主人であるトーラーの老女はくすくすと笑った。彼女は六番通りの広い道に荷車を置いて高く香る紙袋を積み上げている最中で、フォンザーが薬屋かどうか尋ねるまでもなかった。
「荷はこれで全部か?」
「あと樽を三つ載せないといけなくて。でも精油だから重くてねえ。これからテコを出すところさ」
薬屋の視線の先にあった樽を見つけると、フォンザーは丸太のような太い二の腕で軽々と樽を持ち上げた。
「おんやまあ!」
自分では傾けるのも精一杯な大樽をあっという間に積み込んだフォンザーに、老女は驚きと喜びの表情を向けた。
「ありがとう。ギルドへ払ったお金とは別に前金が要るのよね? 少ないけど持っておいき」
子供に小遣いを与えるように薬屋はドラゴニーズの大きな手に五百ギニルの硬貨を二枚と、小ぶりな木製のクリームケースに収まった軟膏を握らせた。軟膏は市民に流通して間がなく未だ高価な物で、街にもよるが最低でも五千ギニルはするものだった。
「……手付け金としては少額だが、貴重な物だ。いいのか?」
「いいんだよ。この仕事が終わればまた作れるからねえ」
「……感謝する」
フォンザーは軟膏を大事に大事に胸のポケットへしまった。
「出発は?」
「すぐにでも出られるよ。あんたのお陰さね」

 薬屋と共にフォンザーが荷車に乗り込むと、また赤毛の若者が現れた。
「黒骨の騎士!」
「しつこい奴だ」
「おやぁ、ベンじゃないか。おっかさんは元気?」
「腰の具合は随分いいよ! それよりクロエ婆ちゃん、俺もついて行っていいかい!?」
「構わないよ」
「おい、人数を追加すると契約違反だぞ」
「あれ、そうなの? それならベン、悪いけどこの人に頼むから今日は諦めとくれ」
「頼むよ! ギルドの依頼の手伝いを一つでもしたら彼らの見る目も変わるはずなんだ!」
「契約違反をしている時点でギルドの邪魔者だと何故わからない? 痩せたニンジンどころか生んだ卵を飲み込むニワトリだ」
「見捨てないで!」
「ええいしつこい」
荷車にしがみついて離れないベンの胸ぐらをフォンザーが掴み上げると、薬屋のクロエは穏やかに竜人を制した。
「勘弁してやって。悪い子じゃないんだよ」
「仕事に熱心な馬鹿ほど困るものはない」
「ベンはあたしの妹の孫なんだ。ね、あたしが個人的に責任を持つから目を瞑ってやっておくれ」
お願い、とクロエが頼み込むとフォンザーは手を離した。
「俺が請け負ったのは薬屋の護衛だ。お前の面倒は見ないぞ」
「ありがとう!」
赤毛のベンは嬉々として荷車に乗り込み、フォンザーは大きく溜め息をついた。


 ──ある日、街へ靴を買いに行くからついて来いと言われ黒騎士フォンザーはまた乳飲み子の姫を胸にくくり付けヴィルマーヤと行動を共にした。乳母ももちろん一緒に。
しかし、帝国を出てすぐの道でぬかるんだ土に馬車が囚われるとヴィルマーヤは怒って馬車から降りて帰ると言い出した。元娼婦は足を汚したくないと言い放つと足場にするからフォンザーに屈めと命じる。乳飲み子を縛り付けたフォンザーはこの状態では屈めないと主君の妾の要求を拒んだ。
ヴィルマーヤは顔を真っ赤にして怒った。皇帝の妻よりそのチビが大事なのか、と確か彼女はそう言った。そしてハルサラーナ姫はその形相を大層怖がって泣き出した。黒騎士は溜め息をつき、乳母にハルサラーナ姫を預けるとヴィルマーヤのために馬車を降り泥の上で膝をついた。
最初からそうしろ、と妾は怒りながら黒騎士の背を踏みつけ戻っていった。ハルサラーナ姫は、乳母がどれだけあやしてもなかなか泣き止まなかった。
 その晩のこと。乳母はヴィルマーヤの常日頃の態度や世話をする子供が命を狙われているという極度の緊張からいよいよ体調を崩し、泣きながら使用人部屋に戻っていった。残された黒騎士は眠らず、赤ん坊の揺り籠に手をかけゆらゆらと動かす。
そしてふと、赤子の顔を見た。本当にふっと、気まぐれに。
カイルギの海よりも鮮やかで、深い、青い瞳がこちらを見ていた。その瞳にろうそくの揺らめきが映っている。
はちみつ色の髪の姫。姫は、黒騎士の目を見ると、にこりと笑った。
黒騎士フォンザーは一瞬、ほんの一瞬……胸が詰まった。
小さな姫はそれに満足したように瞼を下ろして、深い寝息を立てた。
ただそれだけのこと。でもそれが、その後の自分を全て変えてしまったのだと、フォンザーは思い出すたびに感じるのだった──。


「黒騎士が死んだ話を吟遊詩人から何遍も聞いたよ! その後、帝国が滅んで五年経つけどどうしてたんだい!? 奇跡のように蘇って、次は何を狩るんだい!?」
 ベンは昔から黒骨の騎士の詩(うた)に夢中だったらしく、荷車がヴォナキア王国の小さな町ワスマを離れて森の中に差し掛かっても口数は増える一方だった。フォンザーはもはや青年の口を遮る気も失せ、薬屋クロエの隣で時々山馬の背を鞭で打つばかりとなっていた。
「俺は巨人殺しの詩も大蜘蛛の退治も全部聞いたよ!」
「薬屋」
「ん?」
「この妹の孫はいつもこうか?」
「ベンは昔から英雄のお話が好きでねえ」
「俺は英雄とは程遠い」
「そう? あたしはあんたが詩に聞くような、命乞いをする敵兵の首を容赦なく撥ね飛ばす男とは思えなくて、驚いてるんだけどね」
「それは俺が一度死んだからだな」
「やっぱり奇跡で蘇ったんだな!?」
「ああ、うるさい」
フォンザーはまた溜め息をついた。
「でも、ほら、運命の子の話は可哀想に思ったよ。フォンザーは蘇ったけど、運命の子は結局死んでしまったそうじゃないか。墓はどうしたんだい? やっぱり、国の外へ? それとも帝国で葬儀を?」
フォンザーはベンの問いに答えなかった。今度はベンが溜め息をついた。
「可哀想に。まだ生まれて一年も経ってないのに死んじゃうなんて、あんまりだよ」

「パパー!」
 まだ一人で歩くのがやっとな娘が、はちみつ色の髪が、濡れている。
「パパーぁ!」
カイルギの海より鮮やかで青い色を溢しそうになりながら、女の子は泣いている。
「パパー!」
知らない森の深くで、暗闇で、一人でいるのが恐ろしい。小さな姫が泣き叫ぶたびにフォンザーの胸は潰れそうだった。

 ベンのせいでかつて見た悪夢を思い出し、フォンザーは再び溜め息をついた。


 ──テリドア帝国陥落のきっかけは、官僚同士の小さな喧嘩だったらしい。しかしその小さな諍いが波紋を広げ、元ピグルーシュ王国市民に伝わると内乱として規模を広げた。その内乱がカリブラン王国とヴォナキア王国に知られると、二つの国はピグルーシュ王国の仇を取るという建前で戦争の準備を進めた。内乱が内乱を呼び、グリシュナ皇帝の時代には国から民への締め付けはより厳しいものとなっていた。
 そして運命の子が生まれた。
運命の子が生まれたならば終末は近い。姫の出生は戦争を早めるには十分な理由だった。そして姫が生まれてから半年後。テリドア帝国はあの夜を迎える。

「先に行けフォンザー! やあああああっ!」
 キーンと高い金属の音がする。ゲオルクが狭い石の廊下で双剣を手に元同僚の反乱軍と剣を交えている。フォンザーが不穏な気配を感じて小さな姫を揺り籠から持ち上げた時には既に戦いが始まっていた。
フォンザーは赤子を腕に城内を走る。目の前に現れる反乱軍を押し除けながら玉の間へ向かうと、皇帝グリシュナは近衛とすり替わった反乱軍の兵士に追い詰められていた。
皇帝は駆けつけたフォンザーに気を取られた反乱軍の二人から武器を奪い取り、相手の首を掻っ切る。
「陛下!」
「大事ない」
駆け寄ったフォンザーの腕に抱かれた赤ん坊をグリシュナ皇帝は見下ろす。公務が忙しく、皇帝は息子の顔も娘の顔もろくに見たことがなかった。
「……これがハルサラーナか」
「は」
皇帝はハルサラーナの額を撫でた。その瞬間、皇帝は険しい顔から柔らかい表情になった。
「この髪……亡き母に似ている……」
首から血を流す反乱兵が皇帝の背後で立ち上がるのをフォンザーは酷くゆっくり感じた。
「っ……!」
フォンザーは皇帝を突き飛ばし彼と姫君の肉盾となるはずだった。しかし、
グリシュナ皇帝は騎士の表情からすぐに緊張を取り戻して振り向き、フォンザーを突き飛ばして反乱兵と刺し違えた。
「陛下!!」
反乱兵は今度こそ死に、胸を穿たれたグリシュナ皇帝はその場に膝をつく。
「陛下!!」
倒れた彼の背を支えた黒騎士をグリシュナは朦朧とした顔で見た。
「娘を……頼んだ」
それは皇帝の、一人の男としての、父としての最初で最後の献身だった。
「陛下! しっかりなさってください! すぐ手当を……」
「いたぞー!!」
新しく反乱兵が現れ、フォンザーはハルサラーナとグリシュナのどちらを助けるべきか悩んだ。
「くっ……」
フォンザーは姫を抱えて再び走り出した。彼の後ろではグリシュナが最後の力を振り絞り、剣を構えるところだった──。


 フォンザーが積み込みを終えた薬屋同士のささやかなお茶会を見守り、喧しいベンを連れ何事もなく戻ってくると日は傾き空は黄昏に染まっていた。
「今日はありがとうねえ、優しい帝国兵さん」
「元、帝国兵だ」
「宿を取ってないんなら俺んちに泊まってくれよ!」
「……絶対に嫌だ」
「そんな! 聞きたい話がたくさんあるのに!」
半日経って尚も甲高く喚くベンの顔に向かってフォンザーはビシッと指を差す。
「いいか、トリ頭に話すことなど何もない。ギルドへ入りたいならその馬鹿さ加減を何とかするか、諦めろ」
「そんな……そんなぁ」
ベンは心の底から落ち込んだ声を出した。フォンザーはフンと鼻を鳴らし、踵を返して酒場へと足を向けた。

 フォンザーが酒場に顔を出すと吟遊詩人が今まさにリュートを片手に謳っている最中であった。甘い声に聞き入る民衆を邪魔しないようにとフォンザーは静かに受付のオヤジの元へ向かった。
「依頼を終えた。報酬を」
「しっ、今いいところだから!」
フォンザーはすぐ金が支払われればオヤジに酒でも頼むのにと思いながら溜め息をついた。
「──ああ、美しくも氷のような女は今まさに殺されようとしていた……。そして天を裂く稲妻の如き悲鳴で喉を震わせた」
白肌に金髪の吟遊詩人が謳っているのはテリドア帝国が斃れた時の出来事、その中でも運命の子を孕んだ妾ヴィルマーヤが死ぬ物語であった。
「──おお、天はもう落ちたのか! 女は虚しく横たわり深紅のベルベットは更に赤く、より黒く染まる……。嘆く者は居ないのか? 氷のようであろうとも、女はこの身が震えるほど美しくあるのに!」
興味もなく腕を組んで詩が終わるのを待っていたフォンザーだが、ヴィルマーヤの絶命から場面が移ると顔色を変えた。
「──赤子は空から落とされた! 槍の如き屋根から……高き城の塀から! 真っ逆さまに! 可哀想に! 小さなお姫様……。肌は白く輝き、頬は薔薇色の小さな姫」
まるで見ていたかようにトーラーの吟遊詩人は詳細を謳った。
フォンザーは黄金の瞳で吟遊詩人を睨む。ハルサラーナ姫は確かに城の高い場所から落とされた。それはフォンザー自身が行ったことで、しかし姫を敵の手から逃がすための咄嗟の判断であった。フォンザーは部外者にあの時の詳細を話したことはない。つまり、この吟遊詩人は何者かからあの状況の仔細を聞いたのだ。
(あの男、テリドアに知り合いがいそうだな……)
フォンザーは詩が終わる前に受付のオヤジの顎を掴み自分の方へ向かせた。
「報酬を払え」
竜の瞳が妖しく輝くと、受付のオヤジは恍惚の表情を浮かべ大人しく指示に従った。
「いいかオヤジ。お前はここへ俺が来たことなど覚えていないし、俺のことなど何も知らない。お前がこれから話す者ももちろん俺のことは覚えていない。依頼書ももう要らないから俺に渡す。そうだな?」
「へい」
一人のドラゴニーズは名が書かれた依頼書と金を受け取って静かに酒場から姿を消した。そして、誰に知られることもなく闇へと消えていった。

 その晩。暢気に眠りこけていた吟遊詩人は突然逆さ吊りにされ、鳩尾を殴られたものだから鶏のように鳴いた。すぐその喉から声を奪った男はゆっくりと闇の中から姿を現した。フードを被った男は、ドラゴニーズではなくトーラーで、魔法使いのようだった。
「吟遊詩人よ、日暮れに謳ったあの詩はどこから聞いた話なのかね? 君は素直に情報の出所を答えるだけでよい。君はまさに、あの巨人も畏れるテリドアの黒騎士フォンザーからハルサラーナ姫の末路を聞いたのか、素直に答えるだけでよい」
吟遊詩人はあまりの恐怖に震え、首を激しく横に振った。
「それは質問に対する答えか? ん?」
声を返された吟遊詩人は震えながらも魔法使いの問いに応えた。
「ち、違う! フォンザーではない……フォンザーではない元帝国兵から聞いた!」
「ほう。誰だね?」
「それは……言えない! 詳細を言えば殺されてしまう!」
「言わなければ私に殺されるぞ」
「やめて! やめてくれ! 違うんだ、本当に彼のことは知らない! ただテリドア帝国が落ちた時のことをよく知ってる、真実を言うから詩にしてくれと頼まれて!」
「それは誰だ?」
「知らない!!」
「では死ね」
「助けて!!」
魔法使いが容赦なく杖を振り下ろす。しかし魔法が発動することはなく、魔法使いは頭から一直線に体をすっぱり斬られて真っ二つ。肉の塊へと変貌し、ベッドの脇に倒れた。
「ヒィイ……!!」
月明かりの下黒く光る血溜まりの向こう、闇の中に何かがいる。しかし吟遊詩人は相手の姿をその目に捉えることが出来なかった。そこにはただ闇が佇んでいた。
「吟遊詩人」
「ヒッ」
心地よい低音が吟遊詩人の耳に響いた。
「城の塔から落とされたハルサラーナ姫のことを誰から聞いた?」
「いっ……言えない」
「いいか吟遊詩人。お前にその話をした帝国兵らしき男は、お前を餌にこの魔法使いのようなテリドア反乱軍の刺客や黒騎士フォンザーその者を釣ろうとしている」
ヒュン、と鋭い風の音がして吟遊詩人を吊り上げていた縄が切られる。潰れたカエルのような声を上げて吟遊詩人はベッドの上に落ちた。
「今宵のように襲われたくなければ、その詩はレパートリーから外すんだな」
「そ、そうだな。そうするよ」
「相手を知らないと言ったな。どんな様相だった? 見た目や、感じたものだけでいい。特徴を言え」
「え、ええと彼は……ああ、爽やかな薬草の香りをしていた。紅茶のような……ミントのような」
吟遊詩人はベッドの上で体を起こして足首にまとわりつく縄を外した。
「他には?」
「黒いローブを深く被っていたから顔はわからない。でも……ああ、光る腕輪を着けていた。緑色の宝石のついた腕輪だ」
「他には」
「あとはよく分からない。気付いたら彼は消えていたし、でも聞いた話は不思議と耳に残っていた。本当だ! 嘘じゃない!」
「……そうか」
闇はそのまま静かになった。吟遊詩人は転がった魔法使いの杖を拾い、恐る恐る声がした場所を突いたがそこにはただ部屋の壁があるだけだった。


次:
『黒骨の騎士と運命の子Ⅰ カリバーンの乙女』−2.黒骨の騎士と泉の乙女


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