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公園と意思の話。
ストレスが溜まって限界に近いと感じました。
というわけで、妻から許しを得て休みの日に一人で行動をさせてもらいました。
思えば、休日に家族と過ごさないなんて、最後にそうしたのはいつだったか憶えていないほどでした。
あ、でも別に良いパパだとか家庭的ぶっているとかのつもりはなくて、そもそも私が無趣味なんですよね。無趣味ゆえに自分に時間を割く必要が無いわけです。
ですから、休みの日は家族と過ごすのが当たり前で、好き好んでそうしてしまいます。家族と一緒に何処かに行ったりする休日が楽しくて仕方ないんです。
とは言うものの、子供もだんだんと成長してきて、良いこともありますがその反面、少々悩ましいこともあります。それは、彼らが家の中で不機嫌を当たり散らしたり、ちょっとしたことで衝突したりするような機会も増えてきたことです。
その結果、子供に対する愛情はもちろん存在するものとした上で、それとは別に「対人関係」として疲れてしまうことがあるのも事実です。
一人の人間ですから、当然かもしれません。妻とはお互い居心地が良くて一緒になりましたが、子供が同じような関係性で居られるかというとそれは難しいと考えます。現時点で彼らはまだ発展途上ですし、彼ら自身の性格や人柄もそれぞれありますから、親である我々と相性が良いかどうかは別問題です。たとえ親子関係であっても。
恥ずかしながら、主にその子供との関係の中で最近ストレスがMAXになってしまいまして。こちらも心が荒んでちょっとしたことで感情的になることが増えてきたので、これはマズイと。誰にも良い影響が出なそうな事態になるのが怖かったです。
なので、妻と話して、休日に一人でゆっくりして来いと言われ、素直にそれに従うことにしました。
閑話休題。一人で行動するのは本当に久々でした。何しようかと考えて、昔住んでいた町に行ってみることにしました。特に具体的な目的は無かったですが、ノスタルジックな気持ちになって何か原点に帰る的なことが出来るかなと。
私は今は埼玉に住んでいますが、ずっと昔にも一度大宮の近くに住んでいたことがありました。大宮の中心地というよりは、少しだけ郊外のところです。
「そうだ、せっかくなので、自転車に乗って行こう」
今の住まいからは結構離れているんですけど、言っても同じ県内、出来ないことはないだろうとタカを括っていました。自転車なら、運動にもなるしお金もかからないしな、って。電車で行くより面白そうだぞと。
しかし、後々その考えの甘さに苦しむことになりました。
慣れない道、運動不足の身体、チェーンが錆びつき空気圧の低くなったタイヤの自転車、そしてサイクリング日和を通り越して汗ばむほどの晴天の空。
思い通りの道順で行くことが出来なかったり等の困難がありながら、数時間かけて、やっとその町に到着。
その代償に到着した頃には、汗びっしょりでTシャツは透け透け、そして日焼け止めを塗らなかったものですから「火傷か?」ってくらい頬と両腕を真っ赤に日焼けしたアラフォーのオッサンが誕生してました。
ただ、残念なことに、結構な労力を使って行った割に、そこまでその町に思い入れも、憶えているお店や風景もありません。「ああ、たしかにこんなところだったかもなぁ」という感想くらいしか出てきませんでした。
結局、帰りに、公園に立ち寄りました。大きな公園です。初めて来たところです。もちろん思い出とかは特にありません。ただただ休憩したかっただけなのです。
そこでベンチに腰掛け「はぁ」とため息を一つ吐きます。
「いったい何のために休みを貰ったんだろう。妻に子供の世話を任せて。自分は一人ひたすら自転車を漕いで疲れて、何か気付きを得たわけでもなく、気分がリフレッシュしたというわけでもない。今も、何をするわけでもなく、ただこうして座っている。家族に申し訳ないな・・」
そんなことを思って、目の前の風景を眺めてみます。
すると、このような人たちが目に入りました。
バスケットボールを持ち込んでドリブルしたりシュートの練習をする若者。ローラーブレードを履いて一生懸命に走っているおじさん。ダンスの動画を撮っている女性。
彼らを眺めていると、なんとなく自分の中にふつふつと思考が沸き上がるのを感じました。
彼らは、みんな一人です。みんな一人で、休みの日に、自分の意思でこの公園に来て、自分がやりたいことをやっている。(もしかしたら、やりたくないけどやらなきゃいけないからやっているかもしれないけど)
それは、一人で自分と向き合っていると言えることかもしれません。そういう姿が、それぞれが他人の目を気にせずに自分のやるべきことに打ち込んでいる姿というのが、私にはとても素敵に見えました。「ああ、彼らはたしかに自分の人生を送っているんだな」と。
翻って、今度は自分のことを考えてみます。
「家族が好きだから家族と過ごす」
そう思っていましたけど、いやその気持ちに間違いは無いんですけど、それを免罪符に「だから自分の人生は犠牲にして良いんだ」と思い込んでいるところがあったことに気付きました。
そして、それを言い換えるならば「家族のせいにしている」とも言えるんですよね。自分の人生を上手く送れていないことを、家族のせいにしている。
どこかで「家族のためだから」とか何とか思いながら、休みの日に色々な場所に連れ回したり、逆に子どもたちが行きたいという場所に連れて行ってあげたりして。
具体的には、私はそこまで行きたくないけど子供たちが行きたいというから連れて行くとか、子供たちは行きたくなさそうだけれど親としては連れて行ってあげたいから連れて行くとか。
その結果、自分だったり子どもたちが不満をこぼしたり不機嫌になると、私は「こんなに、家族のために思ってやってあげていることなのに」なんて思ったりして。勝手な自己満足ですよね。
それらは全て、自分が自分の人生を送れていないことを家族のせいにしているような気がしました。「家族のため」じゃなくて「家族のせい」にしている。きちんと意思を持って、自分のやりたいことをやる。ただそれだけのことすら、出来ていない。恥ずかしい状況です。
だから本当は、こうすればいい。
・「私は、〇〇が良いな(〇〇したいな)」
・「私は、△△はちょっと反対だな」
単純な、意思表示です。それを表明して、行動する。家族の反対意見もあるかもしれない。
今まではそういう時には、誰かが我慢をして過ごしていたように思います。子供だったり親であったり。
ですが、考えてみればそれはおかしい話です。
もっとも、家族で仕方なくといいますか行動を同じにしないといけない場面は、たしかにあります。家族で法事に参加するなど、もともと予定していた集まりに一緒に行かないといけないとか。
ですから、そういうケースは仕方ないとしても、別に家族みんながみんなで行動する必要は本来は無いと思うのです。
「まだ小さいから・・」という思いは私の心のどこかにありました。しかし、子供たちももう小学生です。もちろん、特に下の子はまだ一年生なのでその子を残して留守番させて家を空けるということはまだできませんが、彼らは彼らのやりたいこともあるはず。休日だって、きっと彼らは彼らなりに遊びたいことがあるはずだと気付いたのです。
彼らの思いを無視して、親として「良かれ」と思った場所に連れて行くというのは、もうやめようと思いました。そしてそれと同時に、私自身も内心は特に行きたくないのに、子供の意見を無条件に受け入れて行動することもやめようと思います。
私が行きたいから行く。もし子供も行きたいなら、連れて行く。子供が行きたいところには連れて行くつもりだが、もし私が行きたくないなら話し合ったうえで、行かないという選択肢も持つ。何にせよ、誰かが我慢して不満を抱えた状態で物事を進めたくない。出来ることなら。
まだ子供。だけどこちらが思っているほどもう幼くはない。彼らは彼らの人生を歩み始めています。
家族の誰もが、それぞれの意思をもって、きちんとそれを尊重する必要があるように思いました。(同時にそれは「私の意思も尊重してほしい」という気持ちもあります)
お節介はそろそろ卒業しよう。まだ子供だけど、もう子供ではなくなってきている。過保護や過干渉も、ついやってしまうけど、出来ればガマン。私も含め、子供たちが今後自分の意思を持って行動できるように。おわり。
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