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気にしいな自分を少し赦せた話。

今日の一文。

ぼくは「人前で話すのが苦手な人」って、ある意味「すごい人」だと思ってるんです。

だって見方を変えれば、めちゃくちゃ「繊細な人」だからです。この方、「自分がこう言ったら、その場の人たちはどう思うだろう」みたいなことを、とてつもない量で考えてるんだと思うんです。

そんなつもりないかもしれませんが、その場全体を俯瞰でとらえたり、相手の立場に立って考えたり、そんなことをいちいちやってるんだと思います。

「人前で話すのが苦手です」という悩みに対して
山里亮太(南海キャンディーズ)さんの答え

ー「33の悩みと答えの深い森。」(青幻舎)

まぁちょっと一文ではないのだけれど、すごく心に響いてしまった。

また、回答の中で、山里さんがタモリさんから言われた言葉も紹介していて、そこには、

「人見知りって、すごい才能なんだよ」

「何よりもまず、まわりの人がどう思うかを考える
 優しい人が、人見知りなんだ」

とのことであった。

救われた。
完全にとは言わないけれど、少し救われた。そんな話。


明け方、日課の朝風呂をしていて、湯舟につかってこの本を読んでいたのだけれど、この冒頭に挙げた文章箇所を読んだときに、フッと肩の荷が下りた気がしたというか。

いや、実際には完全に解放されたわけではないのだけれど、何となく、少し自分のことを「赦せる」そんな気がしたのだ。

この本では、主に働くこと(著書の中では「はたらく」と記載されている)に関する悩みを持つ読者が居て、悩みのその具体的な内容(時にそれは抽象的でもある)がまず冒頭に記されている。それに対して、人生経験豊富な著名人の方が、自身の経験や知見からアドバイスを入れたりしつつ、答えていくという構成になっている。

文章を引用したセクションでは、要約すると「プレゼンなど人前で話す機会があると緊張してしまう。人前で話す仕事をしている人はどういう工夫や努力をしているのか。そもそも話すことが得意な人であれば、自分はこの仕事に向いていないのでは」という悩みを持った広告企画の職種に就く25歳の方のお話。

それに対する答えとして、お笑いコンビ南海キャンディーズの山里亮太さんが回答されていたのだけれど、そのお話の一節を引用させていただいた。

以前にこの本を読んだ際には、上にも書いたように、私はあくまで「働くこと」目線で読んでいたので、そこまで気付けなかったのだが、改めてこれをよりもっと広い視野で見たときに、ハッとさせられた。

ところで、私は、神経質で、細かなことが気になってしまうし、何より、他人に迷惑を掛けることが嫌でたまらない

嫌というよりそれはもう強迫観念に近いような感情を覚えることがあり、

「あれ、今、自分のやったことによって
 不満に思った人が居るかも・・」

と一旦思ってしまうと、もうどうにも気持ちが落ち着かなくなる。

それは仕事関係では、特に顕著だ。

そもそも仕事というのは、よほどズバ抜けた才覚と能力を持った人でない限り、基本的には一人で完結させることはできないと思っていて。誰かが作ってくれた物を仕入れたり、何人かのチームで協力したり、他人に大きな影響を与えたり、与えられたりしながら、人と人との間に立って利害を調整していく中で仕事そのものが成り立っていると私は考える。当然、ごく平凡なサラリーマンである私も、その例に漏れない。

私はシステム開発の業務に従事しているのだけれど、何かシステムを開発する作業自体は、規模が小さいものであれば一人で担当することはあるものの、それでもそれをリリースして使ってもらう、ということになると、嫌でも人と関わらざるを得ない。関わるというか、影響を及ぼすということだ。

システム開発の業界では常識になっているのだけれど、リリースしたシステムには大なり小なりバグ(不具合)というものが潜んでいる。これは、不思議なことに、幾らテストをして確認しても、リリースしてからヒョッコリ見つかるということが非常によくある。そうなると、ユーザ(そのシステムを使ってくれる人)が困ったことになったりする。

「おい、どうしてくれんじゃ」

「なんだこれ、使えないんだけど?」

「お前ふざけんなよ」

「こんなポンコツなの作りやがって」

ここまで直接的ではないにせよ、そういったご意見を頂くことも多々ある。上にも書いたが、不具合があるのは半ば当然(の状況になっている)ではあるのだけれど、そういう時に私は、

「えっ」

「うわぁ、やっちまった・・」

「どうしよう」

みたいな気持ちになってしまう。

しかもそれが、問題が顕在化してからならまだしも、まだそういう問題が発生していない状況でも、

「自分の作ったところがおかしかったら・・」

「変なエラーとか起きてないかな・・」

「使いにくいとか思っていないかな・・」

みたいな気持ちが、リリースしたら数週間くらいはグルグル頭の中を駆け巡って、正直食事も喉を通らなかったりする。全然関係ない問い合わせの電話やメールが届いただけでも、ビクッとして気が気ではなくなる。心臓が削れるのではないかというくらいにビクビクそわそわして毎日を過ごしている。

要するに、重度の「気にしい」なのだ

そして、それは仕事だけにとどまらず、私生活でも、そうなのだ。

自分が迷惑をかけるのも当然嫌だが、家族の誰かが他人に迷惑を掛けてしまったり、あるいは迷惑を掛けそうになったりしても、本当に落ち着かない気持ちになる。「何でこんなことするんだ」という大人げない批判的な心だったり、「もっと自分が気を付けて見ていればよかった」といった自己嫌悪にまみれて、家庭内の雰囲気も最悪になる。ぜーんぶ、私のせいだということは分かっているのだけれど、どうしても、「他人への迷惑」というのが嫌で嫌でたまらなくなってしまうのだ。

また、子供に対しても、そういった意識で接してしまっているために、「過保護」だったり「過干渉」になっている節もある。これは、意識して直そう(我慢しよう)としているが、上手くいったり、やっぱり口出ししてしまったりする。

ちなみに、「他人に迷惑を掛ける」ということについて考え、書いた記事はこちら。
https://note.com/furokun/n/n5002acc7779d

子どもたちに「過保護」「過干渉」になってしまうことについて書いた記事はこちら。
https://note.com/furokun/n/n39e658548e4a

上記の記事を読んでくださった方には、どれだけ私が「他人の目」というものに対して気にして、怯えて、勝手に苦しんで、惨めに生きているかということがお分かりになるかと思う。あまつさえ、それを自分の子供にも押し付けようともしているのだ。

つまるところ、気にして気にして、しょうがなくなってしまう。私は、そのような人間なのだ。

それが、上に引用した文章を読んだとき、少しだけ、心が軽くなったような気がしたのだ。

本では「人前で話すこと」に主眼が置かれていたけれど、「他人の目が気になってしまう」という点では、まるでこんな惨めな自分のことを取り上げてくれているように思えた。

「あっ、これ(気にしすぎること)は、
 見方を変えれば、『長所』とも言える、
 ということなのか」

それを本の中では、なんと私には似つかわしくない「優しさ」とか「才能」などという言葉に結び付けることさえ、してくれていた。

たしかに、事前に「他人に迷惑が掛からないように」と何度も何度も、しつこく繰り返し、そして隅々まで準備して、または「他人に迷惑が掛かってしまうかも」という視点を勝手に想像して、このポンコツな頭脳でも超高速回転させてアレコレ考えて、その結果、一人で苦しんでいたりする。

それは、著書の有難い人たちの言葉を拝借すれば、「他人のことを考えて、大事にすることのできる優しさ」とも、表現できる余地はある。恥ずかしいような、恐縮するような、そんな気持ちがするので、とても私には自分のことをそう言い切れるほどの自信は無いけれど・・。でも、この本の中では、そんな私も肯定的に捉えてくれて、とても救われたような気がしたのだ。

たとえば、「他人の目が気になって、他人に迷惑をかけるのはすごく怖いんです」という人が居たとして。

それは、この記事の中で長々と書いていることからお分かりのように、もちろん私はその中に含まれることは確かなのだけれど、もしかしたら、私以外にもそういった方は居るかもしれない。程度の差こそあれ、多くの人がそういう思いを抱えていると仮定すると。

仮にこれを「悩み」とした時に、まずよくある、解決のためのアプローチとしては、このようなことが考えられる。

「そんなに気にすることはないよ」

それはそれで真理なのだろうと思う。

人間関係に関するものとか、心理学に関するものとか、そういう色んな書物を読むと、「他人はそこまであなたを見てはいない」ということはよく語られている。実際そうなのだろう。自分の視点を中心に考えてみれば、他人のことをどれだけ見ていて、関心があって、気になっているか、というと、そこまでではないはずだからだ。少なくとも、自分が、勝手に空想した「誰かが私のことを注目しているのかもしれない」などというほどに、他人を見ていないはずだ。

でも、頭ではそうと分かっていても、なかなか身体が言うことを聞かなかったりする。努力はしてみる。気にしないように、気にしないように。他人は自分のことなんか見ていないんだぞと。けれど最初からそんな暗示が効くのであれば、ここまで気にしていないはずなのだ。少なくとも私には、残念ながらこの方法はあまり効かない。

ただ、そうではなくて、今度は別のアプローチとして、この本で書かれていたように、

「それは、そういう長所なんだよ」

と一回認めてしまう。

ああ、そんな簡単に自分の性格とか向き合い方を変えることなんて、出来ない」というか「別に変える必要なんてない、それがあなたなんだし」という見方だ。そう考えたうえで、一回それを受け入れてしまう。

そうすることで、どれだけ気が楽になることか。

優しいんです。私。気にしちゃうのはもうしょうがない。そう言えることで、そう認めてしまうことで、少し自分自身を肯定できる。今までは、「ダメだダメだ、こんな自分はダメだ」と考えて、その「欠点」を直そう直そうとしていたかもしれないけれど、そうじゃない。これは欠点なんかじゃない。「長所」なんだと。

もちろん、それに甘えてしまって「このままでいいんだー」となってエスカレートしてしまう可能性はあるけれど、少なくとも私には、「今よりももっと飛び抜けて、思いっきり他人の目を気にしてしまうようになる」という事例が思い浮かばない。

疾患などで、それまで気にならなかった人が、急に気にしてしまうようになるケースはあるかもしれないが、今回の場合はもうすでに気にしてしまっているケースだ。すでに気にしてしまっている人は、嫌でも気にしている。だから、それ以上にはなれない。勝手な持論だけれど、私はそう思うのだ。気にしてしまっていると書きすぎてよく分からなくなってきた。

とにかく、そういうわけで、もう受け入れていい。これはこれ。自分はこのままでいい。というかむしろ、このままが良い。些細な問題があるとするならば、それから、どうするかを考えればいい。

・・なんてことを考えていると、不思議と逆に「気にならなくなってきていた」ことに気付いたのだ。

これは全員に当てはまるか分からない。けれど、少なくとも私の場合は、もう「もう気にしちゃうんだからしょうがない」と思えて、それで何故か「気にならなくなっている」そんな気がしたのだ。

そうやって自分を受け入れて、私は私のことをちょっと「赦せた」気がした。「赦す」という言葉の意味には、「過失や失敗などを責めない」とか「とがめない」「義務や負担などを免除する」というものがある。まさにそれなのだ。

悪いことはしていないのに、どこか罪悪感があった。それは、ありのままの自分を押し殺して抑圧していたからだったのだ。「気にしないようにしよう」と頭で考えて努めれば努めるほどに、自分自身は否定されることになる。それは効かなくて当然なのだ。でも、それは、もうこの際、赦そう。もう解放しよう。一旦もうそのままでいい。というか、それが良い、のだ。

もちろん、これで完璧に私が他人の迷惑を気にせずに生きられる人間になったかというと、さすがにそこまでではない(それに、そうなりたいとも思っていない)けれど、おかげで心の荷を下ろす一つの手段を得ることができたと思う。よかった。生きていて良かった。

そんな、ちょっと救われた話、でした。


ちなみに、この紹介した本では、山里さんの回答も、引用した以外のところも素晴らしい。

たとえば、山里さんご自身も、売れっ子になった今でも、緊張したり自信が無くなったりすることから、それに打ち克つ方法として日々ノートをつけて改善策を書かれているとか。あまり詳しく書いても仕方ないので、これ以上の記載は割愛するけれど。

もちろん、この「人前で話すのが苦手だ」という悩み以外にも、この本には素敵な答えがたくさん収録されていて。インタビュアーの方も大いに語るし、その共感力や理解力が凄まじく高いから、回答内容もどんどん深度が大きくなっていく。

読んでいて非常に深く面白い、名著だと勝手に私は思っています。おしまい。

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